2019年10月20日日曜日

2019年10月20日(日) 説教

《こどもとともにまもる礼拝》

「わたしの大切な人はだれですか?」
『ルカによる福音書』10章25~29節
パネルシアターによるメッセージ:稲山聖修牧師


 イエスさまの言葉を受け入れられない、ある律法学者が次のように尋ねました。「先生、何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」。イエスさまが答えるには「聖書にはどのように書いてあったかな?」。ニコリともせず律法学者は「<心を尽くし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい>とあります」と言いました。イエスさまは「すばらしい!それをやってごらんなさい。そうすればいのちを得られますよ」と勧めましたが、律法学者は「それでは、わたしの隣人とはだれですか?」と重ねて問いました。イエスさまは答えをそのまま教えません。その代わり、譬え話となる物語をお話になりました。それは次のようなものです。
 聖なる都エルサレムから、人の往来の賑やかな街エリコに続く一本の道がありました。岩だらけの荒れ野を通る、寂しくて、時には危険な道でした。そこにある旅人がやってきました。「さあ、急がなくっちゃ。エルサレムでお祈りも済ませたことだし、神さまはきっと守ってくれるに違いない。あの町はサマリア人やいろいろと面倒な人たちもいるんだが、ともかく用事を済ませなくては」。そんなまじめな旅人の前に立ちはだかる人影がありました。何と盗賊です。「おう、兄さん、なかなかご立派な身なりだな。どこへいくんだ」。「何ですか突然に。わたしは旅の途中なのです。道をどいてください」。「偉そうに何を言ってやがるんだ。みんな、やっちまえ!」その声を聞いたとたん、旅人は気を失ってしまいました。身体がしびれて動けませんが、とても熱くなっているのは分かりました。旅人は殴られ蹴られ、お金も服も一切奪われて、裸同然の姿で道端に倒れたまま動けません。「だ、誰か助けてください、助けて...」と思っても、ろれつが回らないのです。


 その場所に、旅人とは反対の方向を急ぐ祭司が通りかかりました。「エルサレムの仕事に遅れそうだ。しっかりお祈りの言葉を献げられるかな。いや、そんな心配をするよりも、まずは集中あるのみ!神さまお助けください」。そんな祭司の視界に飛び込んできたのは、道端に倒れ伏している、先ほどの旅人です。祭司は心に思いました。「...うわっ!これはひどい怪我だなあ。気の毒だけれども、これは身体が持たないだろう。それよりもエルサレムの仕事、仕事」。血を流して倒れているその人から目を背けて、通り過ぎていきました。次にやってきたのは、レビ人。祭司のお手伝いを始め、神殿でのお仕事をする人です。この人もどこか忙しそうです。「全くもう、あの祭司は人使いが荒くて困るよな。忘れ物をとってきなさい、なんてよくも言えたものだ。あれが神さまに仕える人なのか。それにしても急がなくては!」。そんなレビ人の視界に飛び込んできたのは、道端に倒れ伏している、先ほどの旅人です。レビ人は心に思いました。「ごめん、時間がないのよ...」。レビ人も目を背けて、通り過ぎていきました。最後に通りかかったのはサマリア人の旅人です。この人は血まみれの旅人を見るや「これは大変だ。消毒になりますから、ぶどう酒を注ぎますよ。それから化膿どめに油も塗っておきます。我慢してくださいね。包帯もしましたから。さ、ロバに乗せますよ。いのちに勝るものはなしってね、心配しないでくださいよ」。サマリア人は旅人を宿まで運んで「大将、一大事だ。この人を看病してやってくれ。お金なら日当二日分置いていくから。帰りに寄るから、足りなかったらその時に言ってくんない」。
 このようなお話をした後で、イエスさまは律法学者に語りかけました。「誰が旅人の隣人になりましたか?」。律法学者はこう言います。「その人を助けた人です」。そこでイエスさまは力強く仰せになりました。「あなたも同じようにしなさい。そうすればいのちが得られますよ」。
 そしてさらに、わたしたちはこの譬え話で、また大切なことに気づきました。祭司やレビ人、そしてサマリア人を結ぶ大切な人がいたことを。それは道に倒れて痛みを堪えている、身ぐるみはがされた旅人でした。この旅人の姿は誰かに似てはいませんか。わたしたちには十字架に架けられたイエス・キリストの姿が重なります。この旅人は、何か素晴らしいことができるはずもありませんが、祭司・レビ人・サマリア人という、立場も考えも違う人々との関わりを結んだからです。イエスさまが伝えてくださった、神の平和を実現する人になりましょう。