2019年4月7日日曜日

2019年4月7日(日) 説教

「畏れなくてはならないもの」
ルカによる福音書20章13~15節
説教:稲山聖修牧師
 ぶどう園の創立者が長旅に出るにあたり農地を農夫たちに貸していた最中に起きた出来事。ぶどうが収穫を迎えたので、その収穫を納めさせるためにぶどう園の主人は自分の僕を農夫のもとに送ったのだが、こともあろうに農夫は主人からのメッセージを伝えに来た僕に耳を貸さず袋だたきにする。ぶどう園の実りを、農夫たちは独占して山分けにしたことが暗示される。主人は別の僕をぶどう園に派遣する。しかしこれまた袋だたきにされて追い出される。そして三度目。三人目の僕も傷を負わされて放り出される。明らかになったのは、農夫たちが「ならず者」と化して、ぶどう園を占拠・実効支配しているという目を覆わんばかりの世界だ。ただし、この農夫でさえ、ぶどう園の創立者から雇用され、長旅に出る際には農園を借り受けていた。これは相応の信頼を得ていたこととなる。ぶどう園の主人は愚かなまでに、僕がどのような酷い目に遭ったとしても農夫への信頼をやめない。それどころか「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子なら多分敬ってくれるだろう」と、跡取りでもある一人息子をぶどう園へと送ろうとする。愚かさを通り越して、ぶどう園の主人には、わたしたちの世の尺度からすれば狂気すら感じる。
 実はわたしたちは、物語のつくりとしてはよく似た物語を知っている。それは旧約聖書の『創世記』2章に記される、エデンの園の中での神とアダム、すなわち神と最初の人間の物語だ。2章15節では「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とある。エデンの園は人が土を耕す労働の場でもあった。しかし、当初人にはその働きは何ら苦痛を伴わなかった。そして主なる神が命じるには「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。実はこの話は謎に満ちている。
人、すなわちアダムは、どの樹が善悪の知識の木であるかどうかを知らない。食べると死んでしまうとあるが、命令を受けたときには、人はそもそも死とは何かが分かってはいない。食べてはいけない善悪の木が、エデンの園にはあるのだと、主なる神は宣言する。この宣言がなければ人は善悪の知識の木を食べずに済んだだろう。けれども神は、ここまで愚かな姿をさらしてまで、人に真実であろうとする。真実の愛とは愚かなものではないか。
「『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子なら多分敬ってくれるだろう』。農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』」。背筋が寒くなる謀議だ。一人息子はぶどう園の外にほうり出され、殺害された。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人に与えるにちがいない」。キリストのこの話に、その場にいた民衆は「そんなことはあってはなりません」と答えた。
エルサレムの城壁の内側にも神の正義に応えようとする民衆の姿があった。「そういうことはよくあることですよ」と応えてしまうような人の姿を福音書の書き手は描こうとはしない。あくまでも「そんなことはあってはなりません」との声が響く。ぶどう園の外にほうり出されて命を奪われていく一人息子の姿を思い浮かべては悲しみ憤る無名の人々の姿が描かれる。「イエスは彼らを見つめて言われた」。人の子イエス・キリストはこのような人々と深い関わりの中に立ち『家を建てる者の棄てた石、これが隅の親石となった』という言葉の意味を問う。狂暴な農夫にほうり出された殺害されたぶどう園の一人息子の姿と、ローマ帝国の庇護のもと誇らしくエルサレムの神殿を建てた者の力から棄てられ、苦しみを受けて十字架に架けられるキリストの姿が重なる。しかし神の愛はそのような力には決して屈しない。死にうち勝つ復活の光の中で、隅の親石、日本家屋では大黒柱を立てる土台、それなくしては人も教会もさまざまな働きを担うわざも事業体も立ちゆかない土台になるのである。イエス・キリストは自らがその石だと宣言される。イエス・キリストをなきものにしようと企む人々は、誰を畏れるべきかを知る民衆に怯むほかなかった。耳を傾けるべき声を聞き分ける祈りを大切にしたい。