2019年3月17日日曜日

2019年3月17日(日) 説教

「手を固く握るイエス・キリスト」
ルカによる福音書11章14~23節
説教:稲山聖修牧師

東アジアに今なお強く影響を及ぼす儒教道徳。その教えでは家制度を源とした血筋や係累を重んじる。近ごろ悪用される公私混同の利権のやりとりや忖度には、その習慣の陰の面だけでなく、聖書の教えを受け入れる上でのハードルも潜んでいるようにも思う。ところでイエス・キリストはそのような家制度に基づいた道徳観とはどのように関わっていたのか。クリスマス物語から、イエス・キリストは血筋としてのイスラエルからは周辺に置かれていた。また、そのつながりから排除されたり、闇で苦しんだりする人々の苦しみや悲しみを癒して歩いた。
今朝の聖書では、そのような状況の下、呻く気力すらない人の癒しから物語が始まるとの見方もできるだろう。先天的な特性として「口の利けない」ならば、イエス・キリストは口よりも先にまずその人の耳を開くはずだ。しかし今朝の箇所は違う。主イエスは悪霊を追い出して癒しを行なう。福音書の書き手が関心を寄せるのは、その後の顛末だ。驚嘆する群衆の一方で「悪霊の頭ベルゼブル」とイエス・キリストをなじる声が響く。イエス・キリストはそんな「彼らの心を見抜いて」言われる。単に言い返すのではなく、反論の余地なしに、である。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立っていくのか」。ベルゼブルが意味するものは何か。イエス・キリストは「ベルゼブル論争」の暗示するものとして、世にある国々を引き合いに出す。国で内部抗争が起きようものならば人は住めなくなる。いのちの居場所はどこにもない。この争いが教会に生じるならば、人は静かにその場から去っていくだけだ。
続いて「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で悪霊を追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁くものとなる」。神の審判が及ぶまでもなく、その人自らの語ったキリストへの冒涜の言葉が、語る者自身に突き刺さる。その限りでは因果応報の論理があるようにも思える。しかし、この論理の破られる瞬間が訪れる。主イエスの次の言葉がそれだ。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。イエス・キリストの癒しのわざは、わたしたちにとって、今は隠されている神の支配の先取りである。もちろん神の国では、手練手管を弄する人の力は埒外に置かれる。だからこそイエス・キリストは次の言葉を語る。「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」という言葉と並んで、武力や権力に基づく、神を見失った争いの空虚さをイエス・キリストは看破した。盛者必衰の理でもある下剋上の考え方と、主イエスの教えは異質であり、この世界観を無力化するのが、神の支配という着想に示される出来事だ。「悪霊の頭ベルゼブルの力によるもの」だとか「天からのしるしを示してみよ」と罵る者にまで神の支配は及び、神の愛の勝利が実現する。そして恫喝や萎縮の中で押し黙る他ない人々は自由にされ、高らかに讃美の声をあげる。
イエス・キリストは、沈黙する人の手を決して固くとって離さない。様々な危機が叫ばれ、問題提起がされる世にあって、教会にはまだまだ働きの伸び代があるように思えてならない。なぜならばイエス・キリストを仰ぐというわざは、常に実験的性格を伴うからである。信仰とは実験であると内村鑑三は言った。科学技術の実験の世界にあって失敗は発明の母である。その点では信仰の実験も何ら変わらない。「悪霊が出ていくと、口の利けない人がものを言い始めた」。沈黙するほかなかった人の手を、イエス・キリストは自ら握ってあらゆる萎縮から解き放つ。そしてそのときに応じた多彩な交わりのかたちが創造され、育まれていく。幼子の手を母親が握りしめるように、イエス・キリストは固く手を握り、わたしたちをふさわしい道へと導いてくださる。だからこそわたしたちは恐れることなく人生を舞台とした信仰の実験を続けることができる。家制度を体よく用いて利権を貪り、意に反すれば報復さえ待ち受けるベルゼブルの集いを意に介さない、全く異なる世界へと通じる道がそこにある。