2019年2月10日日曜日

2019年2月10日(日) 説教「何が最も大事なのか」 稲山聖修牧師

2019年 2月10日
「何が最も大事なのか」
ルカによる福音書6章6節~11節
稲山聖修牧師

本日の箇所では律法学者やファリサイ派とイエス・キリストとの間に繰り広げられる応酬が記される。その軸をなすのは安息日のありかただ。ユダヤ教に属する人々にとって安息日とはモーセの十戒に記された、人々の暮しの中心であり、決して疎かにはできない。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日でもあるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起さねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」。『申命記』5章12〜15節の一文だ。『申命記』はモーセが次の世代に申し送るという意味づけで記されている書物。この安息日をめぐる条項を注意深く読むと、ある箇所が際立っていることに気づかされる。「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」というところ。文末が「ねばならない」ではなく「できる」とある。男女の奴隷がイスラエルの民であるかどうかは限らず、さまざまな職種もある。しかしいずれにせよ、立場や地位、あるいは人としては扱われるのが稀な立場にいた奴隷であったとしても、日常の働きの中で消耗して、終には過労死までにいたるのではなく「休むことができる」とあるのだ。安息日の誡めは、主なる神への礼拝が、すべての人々やいのちに平安を約束するとの宣言でもあった。礼拝の責任は、他者への平安の保障でもあった。もともと安息日とは、神への感謝に伴う心からの平安とよろこびの日であった。



けれども、キリストに挑みかかる律法学者やファリサイ派の人々は、この「できる」ということを見落としている。会堂にいたところの、手を動かせない人への癒しを陥れの口実としてあげつらう。律法学者は安息日が身体に痛みや破れ、また生きづらさを抱え続けている人々にとっては癒しの日でもあるということに実に無頓着だ。この無頓着さの源は何か。思うにキリストの論争相手には、律法が神の祝福の言葉としてではなく、他人に自分のありかたが正しいと認めさせるための、承認欲求を満たす手段以上のものではなかったことを示しているのではないだろうか。ファリサイ派や律法学者は律法の遵守に関しては確かに一所懸命だった。けれどもその一所懸命は、人を活かす神の祝福の言葉としての方向では理解されなかった。
単に一生懸命であることと誠実であることとは似て非なるものだ。誠実さとは誰かとの関わりを示しており、ことわたしたちにとっては神との関わりに根ざしている。したがってそこには神による抑制と冷静さが常に伴うものだ。しかし、空回りする一所懸命さは、自分はおろか他人でさえも深く傷つけるという取り返しのつかない事態を招く。「あなたがたに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか。命を救うことか、滅ぼすことか」。


わたしたちの交わりにとって大切なのは、礼拝が「手の萎えた人」とともに立つイエス・キリストを中心にしたものであるかどうかによって、立ちもし倒れもすることだ。厳粛であれ賑やかであれ、礼拝がいのちを活かす場ともなっているかどうか、よろこびのわざとなっているかどうかが肝心だ。家族のありかたや、人のありかたが多様化した時代、厳格さや厳粛さを堅く守り、若いころ薫陶を受けた倣いに基づく礼拝だけが全てではない。スイスの教会でさえ礼拝出席者の少なさと壮麗な教会の維持費のバランスをとるために、教区持ち回りで礼拝を行なっている。多くの名著を世に送り出した由緒あるキリスト教の出版社も倒産する。その一方で、アブラハムの神に立つ民として見た場合、イスラームの人々は一日5回の祈りを欠かさない。
わたしたちはどこにいてもイエス・キリストに根を降ろしている。これを確かめるわざこそ教会にはもっとも大事である。変わらない聖書の言葉、またその言葉を証しするわざによって、礼拝出席が講義への出席であるかのような誤解から解放される。「あなたがたに尋ねたい」と主イエスは今なおわたしたちに問いかけている。