2019年1月27日日曜日

2019年1月27日(日) 「飾りをすべて捨てたとき」 説教 稲山聖修牧師

2019年1月27日
「飾りをすべて捨てたとき」
聖書:ルカによる福音書4章1〜9節
説教:稲山聖修牧師


 『申命記』4章29節から31節までには、その時代の様々な世の倣いに惑わされながらも「心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。これらすべてのことがあなたに臨む終わりの日、苦しみの時に、あなたはあなたの神、主のもとに立ち帰り、その声に聴き従う。あなたの神、主は憐み深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れることもないからである」と、モーセの終末論的な響きを伴うメッセージが記される。終末をめぐる記述は、律法(トーラー)という「戒めの網羅」として誤解されがちな書物の中にも明確である。人の子イエス・キリストのメッセージの軸である「神の支配の訪れ」は、実は文書としては、ファリサイ派だけでなく復活の出来事を否定するサドカイ派も共有していた。
 そうであればなおのこと、新約聖書の舞台では、この重要な箇所に人々が敏感ではなかった様子が分かる。イエス・キリストの目に映ったのは、片や経済的には十二分に恵まれた人々、片や社会では決して充分な支援を受けていたとは思えない、独り身の女性の姿。富裕層の献金と、貧しく独り身の女性が献げる献金。主イエスは金額とは全く異なる視点から、この隔たった生活事情に暮らす人々の豊かさを見つめる。建造物としてはソロモン王以来とさえ見なされた、ヘロデ王が修復したエルサレムの神殿。富裕層の献金には、さまざまな思惑が込められていたのではなかったか。


 しかし独り身の女性の場合は、もとよりそのような立場にはいない。けれども主イエスはその姿を弟子に示す。1レプトンは当時の日当の標準額1デナリオンの128分の1。1デナリオンを8000円とすれば、概ね125円に過ぎない。おそらく礼拝に出席するゆとり、という言葉、すなわち礼拝は暮しにゆとりのある人々が出席する場所である、との理解に立つならば、この女性が献金を献げる態度は信じがたいものに映る。しかし主イエスはこの女性にこそ、聖書に向き合う人の真摯な姿勢を見て取り、弟子に指し示す。その後に、壮麗な神殿に心を奪われている人々にイエス・キリストは警告する。福音書の記事は、当時のエルサレムの神殿が「見事な石と奉納物で飾られていた」と記す。エルサレムの神殿は、その本質から外れた飾りを身に纏っていた。イエス・キリストは、旧約聖書の伝える姿とは異なるその神殿を、やがては廃れていくと語る。となれば、それはいつの話になるというのか。富裕層と貧困層の格差。医療・福祉の切り捨て。その解決への答えを人々は得ようと焦る。
けれども、イエス・キリストは語る。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」。すなわち、あなたがたの望むリクエストに応えるために、終末が来るのではないという、救い主自らによる突き放しがある。しかし一方で忘れてはならないのは『ルカによる福音書』での山上の垂訓が「心の貧しい者」ではなく、もっと直截的に「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたの者である」とあることだ。「幸いである」との祝福の言葉によって、貧しい者はキリストを中心とした交わりの中に置かれる。独り身の女性による、レプトン銅貨という生活費全額の献金。ダブルスタンダードには立たないその姿。これは、イエス・キリストの山上の垂訓が実現した姿でもある。旧約聖書にある、飾りをすべて捨てて主なる神に立ち返った民が、神を中心とした交わりを育み、ことのほか重んじていたという原風景が女性の姿に重なる。これがあればこそ、独り身の女性にイエス・キリストは眼差しを注ぎ、あふれるばかりの祝福を授けられたのだ、と言える。わたしたちは富裕層が次々と献金する中で際立つやもめの身なりに惑わされてはならない。富裕層の陰に置かれがちなやもめは決して惨めではなかった。そこには飾りをすべて捨て去った、主なる神に立ち返ろうとする民の姿がある。そしてやもめを支える交わりが、神の秘義として隠されている。変わりゆく時代の只中で、飾りを捨てた後に残る、各々の賜物を活かし、イエス・キリストの眼差しに適う、交わりのかたちを少しずつ整えていきたい。