2018年7月15日日曜日

2018年7月15日(日) 説教「信仰のないわたしをお助けください」 稲山聖修牧師

2018年7月15日
ローマの信徒への手紙9章19~20節
マルコによる福音書9章14節~29節
「信仰のないわたしをお助けください」
稲山聖修牧師

 本日の聖書の箇所ではイエス・キリストによる癒しの物語が記される。それは盲人の目を開く癒しの物語とはまた異なる。「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」。実はこの「一同」という言葉で示されるのはペトロとヤコブ、そしてヨハネの三名だけだ。それは9章の「山上の変容の物語」の続きであるからだ。下山してきた弟子とイエス・キリストは、人々の暮らす世界の只中へと入る。待つのは残りの弟子達と律法学者たちとの議論。そのさまは大勢の群衆の衆目の下にあった。言葉のぶつけ合いを耳にした大勢の群衆からは失望とやり場のない悲しみが窺える。「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した」。不毛な議論に消耗した群衆が目前の事態を収めてくださるのはキリスト以外に他はないとの、切実な助けの声。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取憑かれて、ものが言えません」。この問いかけの中で、最も苦しんでいた当事者の声が記される。
イエス・キリストが問いかける中、明らかになったのは、第一には、霊に取憑かれた息子を助けて欲しいという父親の叫び。「霊が取憑いている」という新約聖書の表現に基づくならば、その霊を追い出せば問題は解決する。けれども、キリストの問いかけの前に明らかにされた第二の事柄は「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」という失意であった。弟子たちと律法学者の不毛な議論の発端はここにある。「本当の当事者が誰なのか、救いを求めている人が誰なのか」。イエス・キリストはこの当事者との関わりが絶たれた、関係断絶の世に対して大いに憤る。「なんと信仰のない時代なのか」。この箇所で「信仰」と呼ばれる事柄を「神との関わりの中で開かれる、大切にしなければならない人との関わり」と読み替えてみる。この憤りは言うまでもなく弟子たちや律法学者、それに大勢の群衆の中にいる野次馬意識の人々にも向けらている。けれども主イエスは憤りを「時代」に向ける。この社会のしくみ全体だ。イエス・キリストの人々に向けている愛は、絶えず忍耐を伴う。破れをそれとして受け入れる痛みの故に。
 イエス・キリストはさらに問う。「このようになったのは、いつごろからか」。答える父親の声に、キリストもまた当事者として耳を傾ける。こうなったのは、幼い頃からだ。今もその最中にいる。霊は息子を殺そうとして、何度も火の中水の中に投げ込んだ。おできになるならば、わたしどもを憐れんでお助けくださいという叫び。イエス・キリストは父親に三たび問う。「『できれば』と言うか。信じる者には、何でもできる」。やり直しの効かない場面でキリストは問いかける。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。父親として何もできないという深い破れに、イエス・キリストの力があふれんばかりに注がれる。父親は自己救済を求めてはいない。息子の助けを乞う。父親は自分には一切執着せず、涙とともにキリストだけを見つめる。そしてイエス・キリストもまた発作に苦しむ息子を凝視する。父親からキリスト、キリストから長患いを抱えた息子。この眼差しこそが、霊を追い出せなかった弟子たちには欠けていたのではなかろうか。弟子たちが人目をはばかりながら語った「なぜわたしたちはあの霊を追い出せなかったのか」との台詞には、神の国どころか、苦しむ当事者の姿すらも目に入らない、弟子たちの態度が窺える。弟子たちは自分の能力の問題に帰してしまっているのだ。弟子たちの癒しのわざは自己完結のものでしかなく、したがって病を癒すに足る祈りを欠いていた、すなわち神との関わりを欠いていたのではないか。パウロの記す「どうしてわたしをこのように造ったのか」との問いには、自ら与えられた現状に対し、感謝に満ちた関わりを持ち得ない悲しみが記される。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。諦めを破るいのちの叫びは祈りとなり、イエス・キリストの愛の中でわたしたちを新たにする。だからこそ、わたしたちは悲しむ人とともに破れを担う力を、キリストを通して神から授かるのである。