2018年3月25日日曜日

2018年3月25日「この苦い杯を取りのけてください」稲山聖修牧師

2018年3月25日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「この苦い杯を取りのけてください」
『ローマの信徒への手紙』7章7~12節
『マルコによる福音書』14章32節~42節
稲山聖修牧師

ゲツセマネでは、イエスは弟子たちに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と語る。キリストは一人では堪えがたい恐怖に苛まれている。その恐怖は弟子たちの前にさらけ出されている。これが苦しみの渦中にある、人となった神の子イエスのまことの姿だ。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」。「わたしは死ぬばかりに悲しい」。この言葉は、人生の中で様々な苦しみに打ちのめされていく人々の苦しみや辛酸と、主イエスのゲツセマネの祈りの苦しみとのつながりを示す。「少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り除けてください』」。この箇所には、主イエスの人としての思いがはっきり記される。言葉だけをとるならば、ホサナと叫びキリストを迎えた人々と、主イエスの祈りは同じ枠を出るものではない。それは人の思いの枠を出ないからだ。その上で「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、絶望の中に打ちのめされ、やがて朽ちていく人の思いの壁を、キリストは地べたを這いつくばり、顔を泥に埋め、そしてまた頭を天へとあげることで突破する。その眼差しはもはや世の権威を超えて、父なる神のおられる天へと向かう。ただし、弟子たちにはキリストの苦しみへの共感はない。「それから、戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか』」。弟子たちはキリストの苦しみを意に介さず、ただまどろんでいた。これは平安にある眠りではなく、自分の目に適わない主イエスの姿への無関心さの表れだ。それはそのまま教会の態度に重ねることもできる。
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」。人の思いの弱さを、主イエスは知り抜いている。だから幾度もキリストは同じ祈りを献げる。「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた」。これはわたしたち各々への執り成しの祈りだ。「再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった」。この無関心さに、弟子たちはバツの悪さとしての罪意識を感じたことだろう。そして教会もこの責めの意識を噛みしめるべきだ。笑い事ではない。主イエスは弟子たちを見つめて語る。「イエスは三度目に戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される』」。「もうこれでいい」。主イエスは救い主として、まさにキリストがキリストとして全うしなければならない道筋を全て展望に収めた。「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。弟子たちだけでなく、歴史が示すとおり教会も裏切りの列の中に加えられている。だからといって、もはや主イエスは動じない。「立て、行こう」とわたしたちに命じる。エルサレムの祭司長たちの責め立てとは異なり、主イエスはモーセの誡めを否定したがゆえに十字架への道を歩んだのではない。誡めに忠実であったからこそ、十字架への道を歩んだのだ。「律法は罪を生き返らせたがゆえに、わたしは死にました」とパウロは語る。この死を打ち破る神の愛の力が、イエス・キリストの歩みに示されている。「御心に適うことが行われますように」と、主は十字架への道を前に祈った。人の思いの限界と恐怖がもたらす壁を、キリストはこのように破られた。死への恐れは主の御心による喜びに勝ちはしない。