2017年6月18日日曜日

2017年6月18日「思いがけない助けと勇気の中に」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録27章17~22節

使徒パウロの手紙の中には、思わず頷いてしまうような人間臭さを赤裸々に記した箇所が登場する。『コリントの信徒への手紙Ⅱ』11章23節でパウロは自らの労苦を切切と訴える。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟達からの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」。但しパウロの場合、このような労苦を次のように締めくくることにより、彼ならではの意味づけを行う。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくならば、私は心を燃やさないでいられるでしょうか」。パウロの労苦には「誰かのために」との視点が色濃く反映される。
パウロはエルサレムでの宣教活動の最中、エルサレム神殿境内での逮捕が不当であったと皇帝に直訴し護送され、困難を極めた旅路の果てにローマに入る。使徒言行録でパウロは雄弁に逮捕の不当性をローマのユダヤ教徒の代表者に訴える。かつてパウロはサウロとの名前の下、ユダヤ教の律法学者として教会を迫害する立場にいた。しかし復活したキリストの声を聴く出来事の中で、律法学者として得られた特権を何もかも投げ打ち、先ほど申しあげた労苦を経て、ローマに到着した。「石を投げつけられたことが一度」とは石打刑で処刑されかかった可能性も暗示する。
しかしローマで出会ったこのユダヤ教徒の反応はパウロの予想を裏切った。「あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい」。この反応は実に誠実だ。使徒言行録の物語の流れで言えば、キリストにおける神の愛の力である聖霊の働きが隠されている。パウロはこの出会いの前には相応の覚悟をしていただろう。その予想は良い方向で裏切られる。
こうした出会いの連続の中、パウロは「思わぬ助けと勇気」を感じてきたに違いない。そして深い感謝の念に満たされていただろう。『ローマの信徒への手紙』には、次のように記される。「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」。冒頭にあるのは何かの指南ではなく、すでに神の恵みの中に道が備えられていることへの感謝。パウロより前に道を整えていた無名の人々がいたからこそ、まずはパウロの考えていることを直接聞きたいとの声が、本来は敵対するはずのユダヤ教徒の側からあがる。何の小細工も駆け引きもない。
教会の歴史には様々な破れや紆余曲折がある。泉北ニュータウン教会の牧師も教会員を傷つけているかも知れない。また時には私たちの間に騒々しい混乱が起きるかも知れない。礼拝の後に遣わされる各々の場にあっても同様だ。しかし「あなたの考えていることを直接聞きたい」との誠実な声があるならば、私たちは神の愛に裏づけられた勇気を新たに備えられる。「誰かのために」という生き方は、完結することなく、絶えず誰かに伝えられ、水面に広がる波紋のように広がっていく。キリストにあって備えられる、思わぬ勇気と助けを信頼し、新しい一週間を始めよう。