2016年9月4日日曜日

2016年9月4日「囚われの身にある自由」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録24章10~23節

 パウロを暗殺者から守るため千人隊長が護送するための備えは百人隊長二名。歩兵二百名、騎兵七十名、補充兵二百名。併せて四七〇名の部隊を編成する。いのちの危機に晒されている一ローマ市民を守るには、千人隊長としてこれだけの備えをするのが務め。加えて千人隊長の記した手紙にはその時代の総督の名が記される。それはピラトではなくフェリクス。手紙通りに兵士たちは「皇帝の街」との意味をもつカイザリアまでパウロを護送する。物語の舞台はエルサレムではなく、ローマ帝国の植民都市カイザリア。この街はユダヤ人の情念からは自由であり、神の前に世の力が公正に振る舞えるかが試される。大祭司とてこの街では権力を思うままに振るえない。24章の2節から4節までは、その時代のローマの総督が、その支配地において権力が絶大だったことがよく分かる。その上での今朝の話。
 「実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者である」との訴え。当時初代教会が、ユダヤ教徒やキリスト教とは直接接点のない人々からどのように観られていたかが分る。『ナザレ人の分派』とはナザレのイエスの分派を意味する。この箇所で一層気づかされるべきは、ローマ市民でも公に権威を認められた者でもなく富裕層でもないかたちを救い主は纏っていた事実。大祭司アナニアとは異なりパウロには弁明の機会が赦される。10節からのパウロの弁明に則せば、礼拝のためエルサレムに上ってから12日しか立っていない。この間どこにあっても、私が論争したり群衆を扇動したりするのを観た者はいない。更に告発の件に証拠を挙げている者は誰もいない。つまりパウロはローマの法律の前には潔白なのだ。
 このゆえに総督は次のような留保をする。それはピラトの二の舞をしないように、決断を直ちに下さず「千人隊長がカイザリアに到着するまで、裁判を延期する」。さらにパウロの監禁を百人隊長に命じた。それはパウロを暗殺者から保護するため。だからこそ自由を与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにする。つまり総督公認の下パウロは使徒としての活動が保証された。囚われの身に己をやつして、パウロは千載一遇の機会を神さまから授かった。イエスの焼印を押されたパウロにはいつも平安と自由があった。この平安に私たちも立つのである。