2016年5月22日日曜日

2016年5月22日「混沌に道を拓く聖霊のわざ」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録19章23~32節

 現代では信仰の問題、あるいは時として教会でもイエス・キリストとの関わりは「こころの問題」に矮小化される場合がある。もし事情がそうならば、パウロはエフェソで騒動に遭わなかったろう。デメトリオという銀細工師の元締らしき人物はアルテミスの神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。それは自分たちの暮らしを豊かにしようとする内面からの欲求でもあった。けれどもそれは聖書の道筋からすれば、神なき繁栄と神なき権威をこしらえ、その座にあぐらをかく営みでしかない。
 神なき繁栄と神なき権威に依り頼む者は、安穏を揺るがす者の知らせに怯え、裏付けもなく排除にかかろうとする。この混乱は、信仰は個人の内面の問題に過ぎないと語り続けてきた近代・現代の世界の混乱に重なるところがある。人間の内面を問うばかりでは、闇が必要悪の名のもとに正当化されていく。けれどもそのわざは、かけがえのない交わりや信頼関係を台無しにする。32節「さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった」。全てのつながりが解体された世界。それは「内面の問題」という物語のもつ限界としても読み取れる。
 しかし今朝の聖書の場面では、人々の混沌とともに、教会の持つ交わりの特質が浮き彫りにされてもいる。例えばパウロを支える人々が現れてこの混沌の群れとは異なる道を拓く。師の思いに逆らってでも群れに入れさせまいとする無名の弟子。アジア州の祭儀を司る高官たちも、パウロに使いを派遣して阿鼻叫喚の坩堝と化した劇場に入らないようにと頼む。この交わりと計らいによって、パウロの身は護られた。転じてそれは、デメトリオの不正を暴く。混沌を描きながらも同時にこの混沌を超える聖霊のわざを、使徒言行録は明示する。
 アルテミスの名を呼ばわり叫ぶ人々の姿は「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた群衆と何も変わらない。使徒言行録と書き手が共通すると言われるルカによる福音書では、十字架の上で世の暴力を赦すべく祈る主イエスの姿を描く。神を仰がない世に義憤を感じる人々は教会に少なくない。私たちはその義憤を秘めつつ言葉にならない声を神に訴えたい。主は祈りを聞き届け、思いも寄らない仕方で私たちの道を備え給うからだ。