『マタイによる福音書』2章16~23節
聖書:マタイによる福音書2章16~23節
讃美:292(1節), 122(1節), 540.
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正月三ヶ日最後の日曜日。主のご降誕をお祝いする降誕節は1月6日まで続きます。和暦では「松の内」直前になっても物語は続きます。さて本日の箇所では正月気分を台無しにするどころか吹き飛ばすような物語が記されます。それはヘロデ王が三人の博士から告げられた「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」との問いに不安を抱き、博士に「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と虎視眈々と救い主の殺害の機会を窺っていたのにも拘らず、そのねらいが外れた結果、大いに怒り「人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」という実に痛ましい箇所です。『マタイによる福音書』とのタイトルにもある通り「福音」とは「よき知らせ」であるはずなのに、なぜこのような記事が挿入されているのか、わたしたちは書き手に問いかけずにはおれません。しかしながら福音書を丹念に読んでまいりますと、クリスマスの物語で示される「よき知らせ」とは、わたしたちが勝手に妄想するファンタジーとは大いに異なるものだ、と逆に身に詰まされてくるのです。
けれども、単に人が刻む資料からは忘れられたり改ざんされたりする物語とは異なり、このこどもたちが殺害されたという出来事を決して神は忘れず、母の悲しみもクリスマスには相応しくないという理由では決して退けられはしないのです。むしろ神の約束の完成へと向かう物語に編み込まれて、この出来事は決して福音書から削除されるどころか、幼子イエス・キリストが成長し向かうであろうところの十字架での死と復活の出来事と、不可分に関わり光に照らされます。なるほど、確かにこの箇所で引用される『エレミヤ書』31章15節は「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから」で終わります。しかし、この文章は16〜17節で次のように続きます。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙を拭いなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国から帰ってくる」。ところで、『エレミヤ書』にある「敵の国」とは誰の国を指しているのでしょうか。『マタイによる福音書』と並んで『エレミヤ書』の文脈を踏まえますと、その時代と今日の政治状況にも重なる事情の中にある母とこどもたちの嘆きを、神は忘れずに聞き届け、罪という言葉では言い表しがたい、それが誰でも犯し得る凡庸な悪であれ、人の世に巣食う根源悪であれ、その邪悪さの中での疲弊、そして死への恐怖から救い上げてくださる、とも理解できます。ある教会では「幼子殉教者」とさえ記される、ベツレヘムでいのちを絶たれたこどもたちの物語を経て、ヘロデ王の息子アルケラオスの支配地から遠ざかり、ガリラヤのナザレへと、エジプトへ逃れていたイエス・キリストとその両親は戻ってまいります。それは何のためであったのか。「あなたの未来には希望がある」との声を聞くためです。年始の華やぎの陰で、悲しみに暮れる方々を決して忘れないイエス・キリストに示された神の愛が、新年もまたわたしたちに迫ってくるのです。