2020年12月31日木曜日

2021年1月3日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「悲しむ者を忘れない救い主の光」

『マタイによる福音書』2章16~23節 
説教:稲山聖修牧師
聖書:マタイによる福音書2章16~23節
讃美:292(1節), 122(1節), 540.

説教動画は「こちら」をクリック、もしくはタップしてください。
 正月三ヶ日最後の日曜日。主のご降誕をお祝いする降誕節は1月6日まで続きます。和暦では「松の内」直前になっても物語は続きます。さて本日の箇所では正月気分を台無しにするどころか吹き飛ばすような物語が記されます。それはヘロデ王が三人の博士から告げられた「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」との問いに不安を抱き、博士に「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と虎視眈々と救い主の殺害の機会を窺っていたのにも拘らず、そのねらいが外れた結果、大いに怒り「人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」という実に痛ましい箇所です。『マタイによる福音書』とのタイトルにもある通り「福音」とは「よき知らせ」であるはずなのに、なぜこのような記事が挿入されているのか、わたしたちは書き手に問いかけずにはおれません。しかしながら福音書を丹念に読んでまいりますと、クリスマスの物語で示される「よき知らせ」とは、わたしたちが勝手に妄想するファンタジーとは大いに異なるものだ、と逆に身に詰まされてくるのです。

 例えばNHK大河ドラマが戦国時代に及んだ際に必ず描かれるのが織田信長。開明的な発想や数々の合戦の物語、そして本能寺の変での横死が劇的に描かれますが、反面その時代の民衆が連なる一向宗と絡んだ伊勢長島農民一揆への過酷な仕置に言及する作品は殆どありません。信長はこの一揆に臨んで長島城に女性やこどもを含めて20,000人から30,000人以上を閉じ込めたまま焼き討ちして殺害に及んだとの史実がありますが、これは滅多に扱われません。おそらくそれは日曜日の午後8時という時間にそぐわない、またはお正月の娯楽作品にもそぐわないからと見なされているからでしょうが、聖書の書き手は『旧約聖書』でも『新約聖書』でも人間の邪悪さをめぐり淡々と筆を進めてまいります。『出エジプト記』におきましてはモーセ誕生前夜にファラオから出されたヘブライ人の男の子の虐殺の勅令を忘れずに描きます。そして今朝の箇所でもヘロデ王が及んだ野蛮な振る舞いを忘れません。この蛮行の記事には『出エジプト記』の記事に加えて『旧約聖書』の預言の成就という着想が加わります。則ち、人間が時の権力に忖度し削除したり改ざんすることもあり得る「公文書」ではなくて一切の権力におもねらずに、神が備え給う世を人が歪めていく様をも一切隠ぺいせずに書き記すという視点が加わるのです。多くの無辜のこどもたちが、ヘロデ王の毒牙にかかりました。そこには遺された者の悲しみ、とりわけ想像の及ばない母たちの嘆きがあります。うわべだけを読めば、イエス様がお生まれにならない方がよかったのではないかとお考えになる方もいるかもしれません。正月にそのような話など聞きたくないと思われるかもしれません。神などいるものかと叫ばずにはおれない人もいるかもしれません。

 けれども、単に人が刻む資料からは忘れられたり改ざんされたりする物語とは異なり、このこどもたちが殺害されたという出来事を決して神は忘れず、母の悲しみもクリスマスには相応しくないという理由では決して退けられはしないのです。むしろ神の約束の完成へと向かう物語に編み込まれて、この出来事は決して福音書から削除されるどころか、幼子イエス・キリストが成長し向かうであろうところの十字架での死と復活の出来事と、不可分に関わり光に照らされます。なるほど、確かにこの箇所で引用される『エレミヤ書』31章15節は「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから」で終わります。しかし、この文章は16〜17節で次のように続きます。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙を拭いなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国から帰ってくる」。ところで、『エレミヤ書』にある「敵の国」とは誰の国を指しているのでしょうか。『マタイによる福音書』と並んで『エレミヤ書』の文脈を踏まえますと、その時代と今日の政治状況にも重なる事情の中にある母とこどもたちの嘆きを、神は忘れずに聞き届け、罪という言葉では言い表しがたい、それが誰でも犯し得る凡庸な悪であれ、人の世に巣食う根源悪であれ、その邪悪さの中での疲弊、そして死への恐怖から救い上げてくださる、とも理解できます。ある教会では「幼子殉教者」とさえ記される、ベツレヘムでいのちを絶たれたこどもたちの物語を経て、ヘロデ王の息子アルケラオスの支配地から遠ざかり、ガリラヤのナザレへと、エジプトへ逃れていたイエス・キリストとその両親は戻ってまいります。それは何のためであったのか。「あなたの未来には希望がある」との声を聞くためです。年始の華やぎの陰で、悲しみに暮れる方々を決して忘れないイエス・キリストに示された神の愛が、新年もまたわたしたちに迫ってくるのです。

2020年12月25日金曜日

2020年12月27日(日) 説教 (自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「いのちの光を見つめてあゆむ道」  
『マタイによる福音書』2章1~12節 
説教:稲山聖修牧師
聖書=マタイによる福音書2章1~12節
讃美=106(1節), 118(1節), 542.

説教動画は「こちら」をクリック、もしくは、タップしてください。

 12月21日(月)の日没後、木星と土星が397年ぶりに接近するという天体現象がありました。コロナ禍の重苦しさに疲れがちであった日常から空を仰ぎ、または中継される望遠鏡の動画を観ながら、しばし肩の荷を降ろすような気持ちを味わいました。もちろん夜空の星々がどのように科学的な仕組みの中で動いていたのかを知る人は聖書の中には登場いたしません。聖書で描かれる世界では地球を見下ろす視点ではなく、天動説に基づいてお椀のような夜空を星々が動く理解に立っていました。

 しかしだからといって、そのような理解が天地を創造された神への信頼を損なうことはありませんでした。むしろ古代のユダヤ教には属さない人々、すなわち異邦人にも星の動きを通して新しい王の誕生がほのめかされます。三人の博士は異邦人であり、エルサレムの王に拝謁して問うには「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです」。世の力の束縛から解き放たれて星の示すところを、長い年月をかけて歩んできた三人の博士とは対照的な王の姿があります。ヘロデ王。その名は福音書で描かれるイエス・キリストの生涯や教会のあゆみにつかず離れずつきまとう、わたしたちが無視できないところの人の姿や態度を示しています。

 福音書に登場するヘロデの系譜はクリスマス物語に記されるヘロデ王に次いで、2章22節に記される息子ヘロデ・アルケラオスを記します。またその弟であるヘロデ・アンティパスは14章に記され、洗礼者ヨハネの処刑に関わっています。さらにクリスマス物語のヘロデ王の孫の世代にあたり『使徒言行録』12章で「ヨハネの兄弟ヤコブ」を処刑し、その後にペトロを捕らえ監禁するヘロデ・アグリッパⅠ世、『使徒言行録』25章ではアグリッパの息子であり、使徒パウロの弁明に耳を傾けながらその行く末を案じるようでもあるヘロデ・アグリッパⅡ世と、実に四代に渡って記されます。三人の博士は、救い主とそのわざに従う初代教会のわざにつきまとう闇の一族のルーツと出会うのですが、博士は星の輝きを見つめながらヘロデ王の力の虚構を見破ります。「まことのユダヤ人の王としてお生まれになった方の星」との関わり、つまり垂直の関係の中で、目の前の王が、ローマ帝国という後ろ盾なしには立ち得ない脆さに脅えていると見抜きます。三人の博士にはヘロデ王への恐怖は微塵もありません。むしろ不安に包まれ慌てふためくのは、世の権力とは無縁な博士ではなく王のほうです。ヘロデ王の権力は、一重にこの不安を覆い隠すために用いられます。少なくとも福音書には、王がその力を公共のために用いている姿は描かれません。息子の代も孫の代も、その振る舞いは何ら変わらず引き継がれていきます。ヘロデ王は三人の博士の指摘を覆そうとしたのでしょうか、民の祭司長や律法学者を全て集めて調べさせますが、その指摘は不安を消すどころか却ってメシアの誕生の信憑性を裏づけます。「ユダの地、ベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さい者ではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである』」。ヘロデ王は表向きはユダヤの王でありながらも、この記事を知りませんでした。観念したヘロデ王が打つ次の手は、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の幼児の虐殺です。暴君と化した王の剣から逃れるために三人の博士は決して同じ土俵には立ちません。三人はひたすら星の示すところへ進み、飼い葉桶に安らう救い主とまみえ、宝の箱から黄金・没薬・乳香を取り出して献げます。博士の眼差しは決して揺らがず、イエス・キリストを讃える礼拝へと向かいます。それは博士たちの祈りでもありました。剣に頼るヘロデ王からは遠く響くメッセージの中で、各々の国にいたる帰り道も新たに開拓しながら進んでいったのでした。困難で狭い道。しかしいのちの光にあふれた道。

 社会情勢が不透明になる中で教会のありようもまた深く問われているようでもあります。わたしたちのすぐそばにはヘロデ王とその末裔に表される、神とは遠く離れたところにある、神との絆なしに力を振るう者の無言の圧力があるかもしれません。それはフレーズとしては実に分かりやすく、大勢の人々が讃える安楽な道かもしれません。しかしそれは滅びにいたる広い門であり、深淵が口を開けて待ち受けているかもしれません。その一方で一見すると、実利には繋がらず無用・非効率に思えながらも、わたしたちを確実に導くいのちの光があります。何のためにわたしたちの特性や賜物は用いられるのでしょうか。それは嬰児虐殺という、未来を奪う惨たらしい人の現実の一面を決して忘れずに、そのような残虐さや悲しみの声を一身に受けとめる、十字架へと赴く救い主に献げるためです。激動の2020年を全うして新たな年に向かう時、博士のあゆみに祈りつつキリストに従う者の姿を重ねてまいりましょう。

2020年12月17日木曜日

2020年12月20日(日) クリスマス礼拝 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「力の支配を破る救い主の誕生」  
『マタイによる福音書』1章18~25節 
説教:稲山聖修牧師
聖書=マタイによる福音書1章18~25節
讃美=107(1節), 109(1節), 542.

説教動画は「こちら」をクリック、又はタップしてください。

 イエス・キリストの誕生物語は、本日ともに味わう『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』とではその舞台設定がかなり異なっています。『ルカによる福音書』ではマリアとヨセフがベツレヘムに帰郷する旅路とその背景を、ローマ皇帝やシリア州の総督の名を挙げるまでに実に細かく描いています。他方で『マタイによる福音書』の冒頭で重んじられるのはアブラハムから人の子イエスにいたるまでの系図、そして聖霊によって身籠るマリアとヨセフの姿です。旧約聖書との関わりの中で若い婚約者のやりとりをクローズアップするだけでなく、救い主の誕生の出来事がいかに奇跡的であったかを強調します。だからこそ救い主の身籠りが華やかなファンファーレのもとに描かれるのではなく、人々に戸惑いと不安をもたらす「事件」として記されます。喜びの前奏曲として重々しい調べが響きます。なぜなら救い主の誕生の光に照らされたわたしたちの世のありのままの姿もまた描かれるからです。

 例えば次の一節。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身籠っていることが明らかになった」。『マタイによる福音書』では、単にマリアが身籠った、またはマリアに子ができたとは記しません。聖霊によって身籠ったとして、神のなさる出来事がいのちに及ぶ場合の「神の神秘」または「神の秘義」を徹底的に強調します。その出来事はまず、42代にわたって記される系図にメスを入れます。わたしたちがいずこに生まれたかという正当性をめぐって系図をたどる場合、血筋という事柄が浮かびあがってまいりますが、血縁を頼ってたどれるのは、イエスの父ヨセフまでであります。マリアは聖霊によって身籠ったという一文によって、父ヨセフと飼い葉桶に安らうみどり児との「血によるつながり」が寸断されて、救い主の誕生がどれほどわたしたちの想像を絶した出来事であったのかが強調されます。それだけではありません。例えば王家の正当性に観られる由緒正しさを血筋によってはたどれなくなる代わりに、血の繋がりがあろうとなかろうと人々が背負い込まなくてはならなった神への反逆の歴史、それこそ業や因果という言葉では到底表現できない、長きに渡る歴史の闇を、キリストが一身に受けとめる歩み。この道がすでに暗示されています。

 それだけではありません。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。この箇所でいう「正しさ」とは旧約聖書の誡めに適うという意味での正しさです。ヨセフの身には覚えのない妊娠。それは二人の亀裂ばかりを示すのではありません。誡めに重ねるならば、マリアは婚約の身にありながら「姦通を犯した女性」として扱われます。「表ざたにする」とは処刑の前に行なわれる晒しものとしても理解できます。モーセの十戒にまとめられる古代ユダヤ教の誡めでは姦通、すなわち不倫の罪は石打の刑でもって処刑されるという大罪です。ですからヨセフはマリアのいのちを守るために婚約を解消し、彼女を身籠らせた別の男性との結婚へと導かなくてはなりません。これはマリアにもつらく、またヨセフにもつらいはずです。けれどもヨセフに残された道はそれしかないと映りました。

 しかしまんじりともしないままでいるヨセフの夢に「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。それは旧約聖書との関わりを絶つのではなく神の約束の完成です。「見よ、おとめが身籠って男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は「神がわれわれとともにおられる」という意味であると記された後に、不安に苛まれていたヨセフがその後、マリアとどのように関わっていったかが記されます。

 この小さな救い主の誕生は東方から訪れる三人の博士の知るところとなり、この博士たちはローマ帝国にへつらい権力を手にしていたヘロデ王の偽りをあばき出すこととなります。ヘロデ王の支配によるところの平和。それはローマ帝国の後ろ盾に基づいた圧政のもとでの平和でした。それに無頓着なエルサレムに暮らす誰もが、救い主の誕生を喜ぶどころか、不安に包まれたというのです。力の支配が破られ、世の全てが白日の下にさらけ出されるという場合、福音書の世界ではそこには混乱が生じます。旧約聖書で人は神の顔を直に仰ぐには堪えられないと記される通りです。しかし、イエス・キリストが神とわたしたちとの間に立ち入ってくださり、直に仰ぐにはあまりにもまぶしすぎるいのちの真理の光を、自ら不条理な世の力の支配の下で傷を重ねるその傷みそのものによって、キリストは温かな光へと変えてくださいます。磨りガラスには無数の傷がありますが、その傷を通してこそ、まばゆい神の真理の輝きは、いのちを活かす温かな光へと変えられてまいります。御子イエス・キリストの誕生をこころから祝いましょう。

2020年12月9日水曜日

2020年12月13日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「あなたの前に道を備える主」   
『マタイによる福音書』11章2~10節 

説教:稲山聖修牧師
聖書:マタイによる福音書11章2~10節
(新約聖書19ページ)
讃美:95(1,4節), 二編119, 542.

説教動画は「こちら」を、クリック、またはタップしてください。
 人の子イエスは、救い主キリストなのかどうか。イエスの故郷で、人々はあまりにもこの問いかけに無頓着でした。他方キリストは果たして人の子イエスなのかどうか。この問いを抱き続けていた人がいました。無関心と問いを抱く態度は異なります。それは他ならない洗礼者ヨハネ。ヨルダン川の川辺で集まる人々に、水による洗礼を授けていたあの人です。『ルカによる福音書』では洗礼者ヨハネの母エリザベトはマリアと親しい間柄にあると描かれ、『ヨハネによる福音書』ではイエスが近づいてこられるだけで「見よ、神の小羊」と見抜くヨハネですが『マタイによる福音書』ではかなり態度が異なっています。『ルカによる福音書』ではイエスと洗礼者ヨハネは親戚として描かれる、家庭的なぬくもりに包まれるような物語となっています。『ヨハネによる福音書』では確信に満ちた預言者として記されます。しかしながら本日の箇所で洗礼者ヨハネは、自ら告げ知らせた救い主が果たしてイエスなのかと戸惑っている様子が描かれています。人の子イエスが救い主なのかどうかは一目瞭然とはしません。隠された存在のままなのです。

 しかしながら、今日の箇所で洗礼者ヨハネの置かれた場所を踏まえますと、それもまた宜なるかなとしか申せません。今や洗礼者ヨハネは自らのホームグラウンドである荒れ野にいるのではなく、牢獄に捕らえられています。救い主の訪れを告げるとともにヘロデ一族の無法を批判したこの預言者は、その存在を危ぶまれて今や囚われの身となりました。洗礼者ヨハネの牢獄、今でいう刑務所か拘置所、または収容所での暮しは、決して祈りと讃美ばかりの日々ではなかったと分かります。ヨハネに自分のなすべきことを果たしたとの確信はあったのか。それとも彼が自分の力不足を嘆き、悲しみを主なる神にぶつけていたのか、それは定かではありません。それでもヨハネは人の子イエスのわざを聞いて、弟子を遣わします。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。洗礼者ヨハネにはもはや猶予は残されていません。生涯を賭けたその働きの実りがもたらされるのか、それとも虚しく潰えていくのか。それを確かめるすべは、もはや洗礼者ヨハネには残されていません。

 問いを託されたヨハネの弟子に、イエスは決して自分が救い主であるとは直ちには答えません。次のように答えるだけです。すなわち「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、耳の聞こえない人は聞こえ、重い皮膚病を患っている人は清くなり、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。イエス・キリストは出来事だけを洗礼者ヨハネの弟子に伝えます。その言葉には特別な意図もありません。目的もありません。ただ事実を述べています。その意味でいうところの証しを淡々と立てているだけです。再現不可能な出会いの中で起きた出来事を述べた後にただひと言、「わたしにつまずかない人は幸いである」。故郷ガリラヤのナザレの人々は「イエスにつまずいた」、イエスその人そのものにつまずいたとあります。同時にイエス・キリストは身柄を拘束された洗礼者ヨハネに「わたしにつまずかない者は幸いである」との言葉を託します。自分の歩んできた道はこれでよかったのかと自問する洗礼者ヨハネの姿。実はこの姿の中に、救い主を指し示しながらも万事力を尽くした中でなお沸きあがる内なる問いに向き合う飾り気のない人としての預言者の姿があります。このようなヨハネがイエス・キリストを指し示す器として描かれているところに、福音書のクリスマス物語が重なります。先日は「恐れるな」という言葉をめぐってメッセージを分かち合いましたが、アドベントの第三週である本日は、イエス・キリストの訪れに戸惑いながらも、戸惑いを隠さずにその出会いを受け入れた一人として、洗礼者ヨハネの姿をともにしたいのです。なぜならわたしたちもまた大きな戸惑いの中に、今置かれているからです。どうして待降節の中でわたしたちは感染症に振り回されなければならないのか。罹患する日々の恐怖の中で、なぜクリスマスを迎えなくてはならないのか。わたしたちの行なってきたことは間違いだったのか。

 粗末な飼い葉桶に眠る救い主は、御使いに誕生を告げ知らされた人、星に導かれた人、天使ガブリエルにその宿りを告げ知らされた夫婦にも、そしてわたしたちにも語りかけます。「わたしにつまずかない人は幸いである」。主なる神は人の子イエスにつまずく者と、つまずかない者とをご存じでした。そしてイエスの弟子はつまずきのただ中で、キリストの確信にいたりました。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。「それは人間にはできることではないが、神には何でもできる」。待降節に灯された光に希望を抱ける人々は、この不安が深まるほどに、いのちの光の温かさを感じ、自問自答の中から確信を神から備えられるに違いありません。囚われの身にあってヨハネはなおも問い続けました。飼い葉桶の主の道を備えた人々の列に加えられたいと願います。

2020年12月3日木曜日

2020年12月6日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

「キリストに出会う勇気」   
『マタイによる福音書』13章53~58節 
説教:稲山聖修牧師
聖書 マタイによる福音書13章53~58節
(新約聖書27ページ)
讃美 96(1,3節), 二編41(1,3節), 542.

説教メッセージ動画は、「こちら」をクリック、もしくはタップしてください。
 「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることはなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らを癒さない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聴いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである」。本日の福音書の13章14~17節に記されている、譬えを用いて神の国の秘密を語る問いに向けたイエスの答え。この言葉は福音書に記される物語であるとともに、イエス・キリストの言葉と働きへの向き合い方をわたしたちに問いかけてきた教えでもあります。思うに、イエス・キリストが故郷にお帰りになって語っていたその教えもまた、福音書にちりばめられた種々の譬え話と何ら遜色はなかったことでありましょう。

 そのような場面も編み込まれた本日の箇所はクリスマス物語の後日談にもなっています。物語の舞台はナザレ。クリスマス物語でヨセフとマリアが、ヘロデ王の息子を警戒して訪れて住いを構えた集落でした。その集落に暮らす人々が人の子イエス、そしてその家族と関わった場でもあります。人々の挙動に目を注ぎますと、わたしたちはいろいろと気づかされます。それは家業が大工であると指摘しながら「母親はマリア」、「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」と多くの弟の名を語り、さらには妹たちにも囲まれていたという生育環境を語っているのです。人の子イエスは、実に多くの家族に囲まれて育ったと記されます。しかし、なぜか人々はヨセフの名を語りません。世帯主として第一に名を挙げられるのが父ヨセフではなく母マリアですから、イエス・キリストは今日での母子家庭の中で育ったようでもあります。ただそのような家族事情そのものよりも深刻な現実があります。それは人々が人の子イエスの家族事情の詮索に興じてばかりで、イエスが「会堂」、すなわち当時のユダヤ教のシナゴーグで語る教えにはほとんど関心を払ってはいないその態度にあります。福音書の書き手はイエスを救い主として受け入れた人々やイエスに従う群ればかりではなく、またイエス・キリストの存在を危険視し、抹殺を企てるという仕方で強烈な関心を抱く勢力を描くばかりでもなく、イエスが救い主であると気づかなかったという「熱くもなく・冷たくもない」人の姿をも視野に入れています。そこで描かれる人々はせっかくイエスの人の子としての生涯と同時代に生まれただけでなく「姉妹たちは皆、われわれと一緒に住んで」いるほどの近さにいたとしても、誰がキリストなのか無関心、他人事なのです。

 旧約聖書・新約聖書全巻を見渡して気づかされるのは、イエス・キリストとの出会いへと導かれる「神の愛」につつまれたその多くが、人生の「底を打った人々」であり「痛みを痛みとして」「悲しみを悲しみとして」「うろたえをうろたえとして」「どうすればよいのか他に道がなかった」という事情を背負っているところにあります。「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門をたたけ、そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」とありますが、求めずにはおれない、探さずにはおれない、門をたたかずにはおれないという限界状況の中にこそ、キリストとの出会いが隠されています。わたしたちはそのようなキリストとの出会いを、そのような狼狽えや試行錯誤、多くの戸惑いの中で授かります。これは実に不思議な話ですが、神から授かる勇気なしに、わたしたちはそのような狼狽えや戸惑いの中に立ち涙を流す、鳥肌の立つような思いを抱くことはありません。むしろ人としては巧みにそのような狼狽や戸惑いを避けようとします。しかしそれでは「神の子イエス・キリストの誕生」という出来事の当事者となるのは困難ではないでしょうか。

 もちろんわたしたちは誰しも人生の底を打つ体験から決して自由ではありません。その場に居合わせたとき、心身ともに身動きがとれなくなってしまったとき、「恐れてはならない」という声が胸に響くのです。イエス・キリストの誕生の当事者として、飼い葉桶の傍らに立つ人々の列へと加えられている事態に気づかされるのです。ある者は日々の暮しに苦しむ羊飼いであり、ある者ははるか遠いところから、道行く人々に半ば好奇の目にも晒されながら歩んできた三人の博士であり、やがて救い主に癒されるであろう、様々な歪みを抱えたところのわたしたちでもあります。「恐れるな」との声は、今日の箇所では姿を描かれないヨセフにも、またキリストを身籠ったマリアにも響きました。イエス・キリストの出来事の当事者となる門はわたしたちにも開かれています。キリストに出会う勇気、そしてその出会いを待ち望む勇気。その勇気を主なる神から注がれながら、待降節の第二週を過ごしましょう。

2020年11月25日水曜日

2020年11月29日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「救い主の訪れは隠されたところに」
『マタイによる福音書』24章36~44節 
説教:稲山聖修牧師 

説教動画は「こちら」をクリック、もしくはタップしてください。
 『マタイによる福音書』の記された時代だけでなく、そこで描かれる舞台にあっても、書き手が筆に力を込めるのが「終末」という枠組み、そしてその枠組みはそのまま旧約聖書に記された約束の完成に繋がります。不条理な苦しみに喘ぐ人々が解放されたいと願い、ある時には時代の変革や革命を、そしてまたある時には時の巨大なうねりを感じながら危機意識のもとで暮らしている世にあって、世の終末という考え方は多くの人々の間に広まっていきます。

 特に福音書におきまして終末を語る役割を担ったのは洗礼者ヨハネでした。『マタイによる福音書』3章では「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。<荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ>』」。洗礼者ヨハネは、最も初期に成立した『マルコによる福音書』で次の記事がそれとしてのクリスマス物語がない中で一層際立ちます。「神の子イエス・キリストの福音の始め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする』。<主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ>」。他の福音書では劇的なドラマとして描かれるはずのクリスマス物語を『マルコによる福音書』では「神の子イエス・キリストの福音の始め」の一行に圧縮します。歴史的な意味でイエス・キリストが世に遣わされた時に遡るほど、非常に切迫した終末思想に触れるにいたります。

 ところで洗礼者ヨハネの示す終末とは、その時代の既得権を味わっている人々を断罪するという審判の性格の強いメッセージでした。「悔い改めよ」という洗礼者ヨハネのメッセージに触れて、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、<罪>を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けます。この箇所でいう罪とは、わたしたちが概して様々な文学でいう抽象化された「因果」と重なる<罪>や<原罪>といったものではありません。<原罪>という考え方はそれとしては5世紀に始まるもので、新約聖書からすればかなり後の時代に生まれます。福音書と密に関わる『旧約聖書』では<現行罪>つまり、実際に神の誡めを破り、人や財産、いのちを心身にわたり傷つけ、その負い目に苦しんではいるけれども、そのまことの原因については聞き及ばないという場合、または病や貧困も、神の約束を破ったという実際の行いに由来するものとして理解され、人の力では計り知れない重荷として人々の心身に重くのしかかっていました。だから洗礼者ヨハネは集まってみた人々には、黙々と清めの洗礼を授ける一方、ファリサイ派やサドカイ派といった、その時代で相応の立場にある人々に対しては「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めに相応しい実を結べ」と断罪するのです。

 しかし今朝の聖書の箇所に記されたイエス・キリストの終末をめぐるメッセージは、洗礼者ヨハネの教えとはその内容が異なっていることに気づかされます。それは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と、イエス・キリスト自らもまた、終末の時がいつ訪れるのかを知らない、と語るのです。これは洗礼者ヨハネには見られないメッセージです。さらにヨハネにはないメッセージとしては「目を覚ましていなさい」「あなた方も用意しておきなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」という目覚めのメッセージを審判に先んじて語るのであります。もっといえば注意深くありなさいとの意味も含んでいることでしょう。 

 思えばクリスマス物語として実に壮大なスケールで描かれる『ルカによる福音書』の場合、キリストの誕生本編に関わるお話は2章から始まりますが、まずその名前が記されるのは、住民登録の勅令を発したローマ皇帝アウグストゥスです。初代ローマ皇帝として、支配される人々やローマ市民について生殺与奪の権限を担っていたとされる人物です。そしてその次に記されるのはシリア州の総督であるキリニウスです。次いでヨセフとマリアが描かれますが、それでは第2章の物語の中でイエス・キリストの誕生が天使に告げられるのは誰でしょうか。それはこの場面では名前すら記されない羊飼いたちでありました。最も貧しい、地主に縛られた暮しを続けていた羊飼いが、真っ先に飼い葉桶のイエスのもとへと招かれます。イエス・キリストの語る、神の愛の支配の完成である終末において、この無名の羊飼いが救いから漏れるなどとは決してあり得ないと福音書は語ります。コロナ禍で先の見えない時代。不況で先の見えない時代。世の混乱の中で先の見えない時であるからこそ、羊飼い達が救いの席に真っ先に招かれたのではないでしょうか。そこにはまことの平安があります。まことの癒しがあり慰めがあります。クランツに灯されたその小さな光は、やがて始まる神の愛による大いなる支配を語ります。主の誕生の備えである待降節を深く味わいましょう。

2020年11月20日金曜日

2020年11月22日 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「キリストとともにあるチャレンジャー」
『マタイによる福音書』26章31~35節 
説教:稲山聖修牧師

説教動画は「こちら」をクリック、又はタップしてください。
イエス・キリストの弟子たちは、飢えた虎の母子に身を献げる仏教説話の物語とは異なり、福音書の物語の中ではその頼りなさをまことにあからさまに晒しています。エジプトで先祖が奴隷の家から解放された記念である「過越の祭の食事」を囲んだ後、12人の弟子はイエスとともに「讃美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけ」ますが、その後に聞くのは「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』とあるからだ」との言葉です。物語でイエスが用いるのは『ゼカリヤ書』13章7~9節の言葉。この短い預言者の書には次のようにあります。「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ。わたしの同僚であった男に立ち向かえと、万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ」。続く言葉には、羊の群れの三分の二は死に絶え、残った三分の一は火に投じられ、金銀を精錬するように扱われ、この残った羊の群れに重ねられた人々が「わが名を呼べば」、すなわち主なる神の名を呼べばその呼びかけは聞き届けられ、人は「主こそわたしの神」と応えると記されます。ただし『新約聖書』でこの記事に重ねられた弟子の歩みはやがては死に絶えていく羊の中に置かれていくようにも読めなくはありません。『旧約聖書』ではイスラエルの民に向けられたこの言葉が、抉りこまれるようにして投げ込まれる中、その場にいる12人の弟子全てが狼狽するのであります。この狼狽の中、主の晩餐の席でイエス抹殺を謀る祭司たちへの引き渡しの予告に弟子が狼狽えた場面と同じやりとりが繰り返されます。かの食卓では「まさかわたしのことでは」とイスカリオテのユダが語ります。本日の箇所ではシモン・ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」との決意を表明します。この態度に基づくならば「まさかわたしのことでは」とおののきながら自らを指さしたであろうイスカリオテのユダよりも、ペトロの態度の方が傲慢です。なぜならば「他の仲間はみなつまずくが、わたしは決してつまずかない」という、他の弟子に少しも配慮の念のない姿勢があらわにされているからです。もっと言えば「つまずき」という出来事が他人事であり、当事者としてのおののきが一切欠けているのです。だからこそイスカリオテのユダよりも質が悪いと申しあげた次第。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。このキリストの誡めの言葉でさえペトロの強情さをより鮮やかに際立たせるだけです。「弟子たちも皆、同じように言った」とありますから、その意味では救いようのない集まりにも見えます。

やがてイエス・キリストの誡めの言葉は実現しイエス自ら捕縛されて大祭司のもとに連行されていく中、ペトロはお言葉通りの頼りなさをさらけ出してしまいます。ペトロはイエスとともに捕らえられるのが怖くなり逃げだし、大祭司の家の外で泣き出すという様です。実に無様です。無様さのどん底の中で十字架のキリストになおも背を向けて姿を隠すのもこの人たちです。何とも無責任極まりありません。

それから月日が経ちました。十字架と復活の出来事から50年を経て編まれた物語の中で、弟子とキリストとの出会いの原点はどのように描かれているというのでしょうか。ガリラヤの湖畔。一晩中働いても実りを授からず、茫然自失の漁師たちは虚ろな眼差しでただただ網のほつれや破れを繕うほかありません。湖の岸辺に響く声がします。「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。昼日中に漁をするという、漁師の常識からすれば実に荒唐無稽な言葉を投げかける人がそこには立っていました。「夜通し苦労したが収穫はなかった」というため息の中でなおも「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と、その声が示した可能性に賭ける無学な人の姿がありました。湖の真中で、この世のただ中で網を降ろしていこうとする弟子の姿があります。かくして網が破れそうになるほどの収穫を漁師は授かりました。漁師はキリスト以外の誰かに相談して網を投げたのではありません。相談しながら網を投げたのはむしろ夜の闇の中でした。漁師たちは戸惑い、時にはイエス・キリストの言葉に憤りさえ覚えながら昼日中に網を降ろしました。その収穫に驚いたのは漁師であった弟子。「主よわたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。ひれ伏すペトロの姿には、キリストに背を向けた後ろめたさと、新たに響く「沖に漕ぎ出しなさい」との言葉への従順さが同居しています。わたしたちはこの「沖へ漕ぎ出して網を降ろしなさい」との声を受けとめているでしょうか。教会も、教会に根を降ろす関連事業にも、そしてわたしたち各々の日常にもこの声は絶えず響いています。証しの多様性という豊かさには、キリストがともにおられます。主とともにあるチャレンジャーとして、恐れず網を投げていきましょう。

2020年11月13日金曜日

2020年11月15日(日) 説教 (自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「倍返しを超えていくキリストの道」
『マタイによる福音書』5章38~48節  

説教:稲山聖修牧師

説教動画は「こちら」をクリック、もしくはタップしてください。
 新約聖書の時からさらにさかのぼること1700年と半ば。旧約聖書の物語の世界では族長時代が相当するかもしれません。この時代、現代のイラク周辺に栄えた文明の中で画期的な出来事が起きます。人類史上最も古い成文法である『ハンムラビ法典』の誕生。それは旧約聖書の誡めにも影響を及ぼしています。ところで『ハンムラビ法典』と言えば同害復讐法。ただしそれは単なる「目には目を、歯には歯を」では終わりませんでした。その対象としては自由人と奴隷、そして国家に所有された隷属民とされる半自由人が扱われています。条文では外科医の料金と手術に失敗した折の損害賠償、大工の賃料や家が倒壊し死者が出た際の損害賠償など多岐にわたりますが、代表としては「もし人がほかの人の目を損なったならば、彼らはその目を損なわなければならない」「もし人が人の骨を折ったならば、彼らは彼の骨を折らなければならない」「もし人が半自由人の目を損なったか、半自由人の骨を折ったならば、彼は銀1マナを支払わなければならない」「もし人が他の人の奴隷の目を損なったか、人の奴隷の骨を折ったならば、彼は奴隷の値段の半分を支払わなければならない」。『ハンムラビ法典』の同害復讐法は、被害者も加害者も自由人の場合にのみ適用され、被害者が半自由人の場合や奴隷の場合は賠償になると申します。裁判の場では裁判官の自由裁量の余地があり、自由人同士でさえ必ずしも厳格に適用されてはいなかったと申します。

 そのように考えますと、主人と奴隷が、例えばアブラハムとハガルのようなもはや金銭では測りがたい絆のもとで暮らしていた場合には、根本的には人と人の関係ですから、杓子定規的な運用はされなかったと考えられます。むしろ調停で済む場合には示談を進める手続きとして、個別のケースによるさまざまな判例があった可能性もあります。さらに当事者だけではなく裁判官がその場にいたとなると、今でいう報復原理というよりも「どうすれば立場の弱い者、または被害の大きかった者を救済できるのか」との態度は無視できないでしょう。大根一本盗んだからといって、村の掟に従ってこどもを撲殺するというような残虐さを認めるというのであれば、別段法律を設ける必要もなかったでしょうし、憎しみに満ちた私刑で充分であると考えられるからです。

 けれども福音書の世界では、すでに同害復讐法が含む救済措置の側面は全く抜け落ちてしまっているようです。それはイエス・キリストの教えとして記される本日の箇所から明らかです。「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。単なる報復原理に堕落した同害復讐法とは全く異なる愛の教えを、イエス・キリストは人々に語るのです。なぜでしょうか。人は憎しみを正当化するために仮初の正義を設けます。しかしその見せかけの正義は極めて小さな枠に留まり必ずそこには情念を正当化するための嘘が入り込みます。神の真理は一つであるとしても、人の正義は星の数ほどあり、その正義が振りかざされた場合、決して出会いや交わりは生まれません。さらに質の悪い事には、憎しみはその人の感情だけではなく、その人の時間までも止めてしまいます。人を育むことがないのです。成熟に至る道を止めてしまうのです。それよりも、その人がなぜそのような行為に及んだのかを辿る方が、剣を振るうよりもはるかに実りをもたらすというものです。テレビドラマを賑わせた「倍返し」には確かに爽快感が伴いますが、あまりに刹那的なガス抜きに終わってしまいます。そのような世知辛い時代にわたしたちは立っているのかもしれません。

 人々の前にそびえる分断という名の壁。もしわたしたちの時代に、国家単位で報復原理しかもたらさない、劣化した同害復讐法を持ち込むのであれば、結果は知れています。それは身の破滅だけでなく地球そのものの破滅をも意味します。イエス・キリストはその人の、その民の、神が創造された世界全体の実りを喜ぶのであって、破滅を見てほくそ笑む方ではありません。「右の頬を向けられたら左の頬も」は、恥をものともしない生き方を可能にします。「下着をとる者には上着をも」というあり方は簒奪を恐れない在り方を可能にします。1ミリオン、すなわち厳密には1キロ480メートルの独り歩きを強いる者は、その人自らが恐れるその道をともに倍歩めという「愛の倍返し」を語ります。敵を愛し、迫害する者のために祈るあゆみは、安っぽい報復原理に基づく憎しみの奴隷にはならない道へとつながります。そしてイエス・キリストはよどんだ人間の情念を白日のもとにさらけ出すのです。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」。死刑が執行されたところで、遺族の殆どはそれを本懐として報告することは稀で、むしろ深い空しさに包まれる場合が殆どだと申します。道理のよるべをイエス・キリストは人心にではなく天を指さし語ります。憎しみに屈しないあゆみが世の光となるとわたしたちは知っています。

2020年11月6日金曜日

2020年11月8日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「誘惑に打ち勝つ幼児の声」   
『マタイによる福音書』3章7~12節   
説教:稲山聖修牧師

説教動画は「こちら」をクリック、もしくはタップしてご覧ください。
 洗礼者ヨハネはイエス・キリストを指し示した、日本語でいう露払いのような仕方で福音書では描かれます。イエス・キリストを通して神の愛が人々に注がれるという聖霊のそそぎによる洗礼に先立って、洗礼者ヨハネは水による清めの洗礼を授けてまいります。福音書で描かれる洗礼者ヨハネの役割は、世にあるまことの穢れとは何か、そしてその穢れをイエス・キリストがどのように清めていくのかを明らかにする、いわば先陣です。

 それでは洗礼者ヨハネは何を「清められるべき」だとし、白日の下にさらしていったというのでしょうか。その様子が今朝の聖書の箇所には記されています。彼はエルサレムとユダヤ全土、またヨルダン川沿いの地方一帯から出てきて罪を告白する人々にヨルダン川で清めの洗礼をに授けておりました。この場でいう罪とは、過去に行いながらも誡め通りの仕方では償いきれなかった「重荷」であり、その重荷を抱えた人々を結果として癒す役目をも担っていたと思われます。もちろんその重荷はその人自らには、今でいう自己責任や自業自得という意味合いで理解されるものでも、また理解されるべきものでもなく様々な社会の歪みがもたらした苦しみや悲しみでもあるのですが、洗礼者ヨハネはそのような人々を決して非難したり責め立てたりはいたしません。そのような人々には清めの洗礼とは預言者による癒しのわざでもあり、ヨハネはそのわざに黙々と取り組みます。

 しかしヨハネの眼差しが鋭くなるのは、そのような人々の群れの中にその時代のユダヤ教の律法学者でもあるファリサイ派、またエルサレムの神殿で祈りを献げるほか、ローマ帝国の役人との関わりの中、今でいう植民地に近い「属州」という仕方でエルサレムの神殿や人々の自治を守ろうと、謀りごとを駆使したサドカイ派を見出した時でした。「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来た」。その際に洗礼者ヨハネは次のように申します。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『われわれの父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。実に激しく憤りを露わにします。本来は人々を導く立場にあるべきファリサイ派やサドカイ派の人々がどうして群衆に紛れて身を隠すように、しかも大勢で洗礼者ヨハネを訪ねたのか。それは自らの負い目を除くためだけであって、生き方そのものを変える悔い改めのためではなかったと考えれば、合点がいきます。ファリサイ派やサドカイ派の人々には、洗礼者ヨハネの水による洗礼とは文字通りの禊ぎ以上の意味はなく、良心の呵責から解放されたこの人々は、本当のところ神から委託されているはずの群衆に向けた働きかけ、すなわち聖書の教えを広めるだけでなく希望を人々と分かち合い、さらに人々の痛みを神の前に執成し祈りを献げて癒すというわざを放棄して、ただ自分のためだけの赦しを得ようと群がっています。洗礼者ヨハネが叫ぶのは「悔い改めにふさわしい実を結べ」との声。彼は大きな組織のもつ力をわがものと勘違いする者に対して警告を発します。しかしこのように悔い改めを呼びかけられるファリサイ派の人々やサドカイ派の人々も生まれたときからそうであったかと考えると、果たしてどうであったことでしょうか。教育や出会いの中でこのような道を選ぶほかはなかったのではないか、とも考えられます。洗礼者ヨハネは「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」とありますが、実際にイエス・キリストがなしとげたことと言えば、本来は焼き払われるべき人々に代わって、焼かれるような苦しみを十字架で味わわれ、神の力の何たるかを洗礼者ヨハネが叱りつけた人々よりもさらに権力をもつ人々に突きつけたと言えましょう。キリストは人の罪を個人にではなく、実に御しがたい構造悪だと見抜いています。叱りつけられた人々も神の救いのわざから決して遠くはありません。

 本日は幼児祝福式です。幼児の眼差しは時に純粋であり、だからこそ大人社会の理屈が通じないことしばしば。正直にものを言う幼児に「口は禍のもとだ」と蓋をする大人がいるとすれば災いであります。大人社会の様々な課題を泣き声や涙で訴えます。「こどもだまし」という言葉が全く通じないのが幼児です。言うことは聞かないが、することは真似をするのが幼児です。大人社会の誘惑が通じない幼児を弟子は遠ざけましたが、イエス・キリストは招いて祝福されました。キリストに従う道とは、安易には楽だとは申せませんが、決して難行苦行でもありません。神が独り子を世にお遣わしになったほどに、世を愛されたという言葉の示す道を、こどもたちに備えてまいりましょう。



2020年10月30日金曜日

2020年11月1日(日) 永眠者記念礼拝 説教

「神の愛を証しした群れの軌跡」
『マタイによる福音書』23章25~36節   

説教:稲山聖修牧師

説教動画は「こちら」をクリック、もしくは、タップしてください。
 わたしたちの手元にある、永眠者名簿を開き、天に召されている教会員ならびに教会関係者の人数を数えましたところ、95名の方々のお名前を確認いたしました。実際の教会員を示す現住陪餐会員数が現時点67名ですから、天に召されている兄弟姉妹の方が多いということになります。この事実を聞いて、この場に集められた方々は果たしてお嘆きになるでしょうか。それとも組織としての教会の将来を憂いて、マイペースに見える牧師に違和感を感じられるでしょうか。

 確かに世に遺されて、わたしたちは時折深い寂しさや悲しみに塞ぎこむことはないと言えば嘘でしょうし、わけもなく流れる涙にいったいどうしたことかと途方に暮れたり、いつの間にか時間が経つ早さに驚かずにはおれない時があります。けれども牧師個人の所感としてではなく、聖書の言葉がわたしたちに語りかけるメッセージに基づきますと、わたしたちが献げているこの礼拝は、永眠者記念礼拝に限らず、一年間全てに及んで天に召されたわたしたちの大切な方々とともに献げている感謝に満ちた交わりでもあると申せましょう。仏教の法事では初七日、四十九日といった七の倍数の日に法要あるいは法事が行われますが、わたしたちにとりましてはそのようなわざは意味合いが異なるだけでなく、何もとりたてて特別でもありません。一週間に一度必ず聖日礼拝を献げて、召された兄弟姉妹との交わりを一層重ねていくこととなります。ともにおられる神、そして神の子イエス・キリストがおられる以上、わたしたちは必ずこの礼拝で召された方々を思い出し、交わりを重ねているのであります。

 思い起せば今年度はその始めから、例年とは異なる仕方で礼拝を捧げる期間が続きました。新型コロナウイルス感染症拡大への対策としてほぼひと月にわたり、在宅礼拝という仕方で献げる礼拝を第一として、礼拝堂に集まる必要はないとの立場を表明いたしました。四月下旬からほぼひと月、主たる礼拝の場は各々のご家庭といたしましたが、他方でそれでは礼拝堂には誰もいなくてよいのだろうか、との煩悶がありました。礼拝は単なるこの世の集まりには留まらないとの声なき声を聴きながら、結果としては復活節にあって、たとえそこに目に見える仕方で誰もいなくても、必ず誰かがそこにいる、誰かがともにいるとの心情を捨てきれず、たとえ牧師だけであっても、各々の在宅礼拝を支えたいとの願いもあり、円形に椅子を並べてメッセージを整え、召された兄弟姉妹に語りかけながら強く励まされた者でありました。その体験は今やかけがえのない財産となって聖書の言葉のとりつぎに活かされています。

 本日の聖書の箇所は、イエス・キリストがその時代のユダヤ教の律法学者、つまり旧約聖書を徹底的に読みぬきながら人々にその教えを宣べ伝える役目を担っているはずの人々への批判が記されています。その内容は、杯や皿の外側はきれいにするが内側は強欲と放縦で満ちているという、形ばかりとなった、今日で言えばファッションに過ぎなくなった立ち振る舞いとしての信仰のあり方、そして外側は美しく装いながらも、内側は死者の骨とあらゆる汚れ、すなわち聖書からいのちの希望を汲みだして人々に分かち合うというあり方ができなくなっているあり方、さらには、隣にいる神の人の言葉、御使いの言葉、神から託された言葉を語る人々には耳を塞ぎながら、時を置けばその人々を崇め奉るという、神との関わりを忘れてしまったあり方への指摘があります。鼻から息をする者に拠り頼んでも、人を活かし、そして死の淵より復活させる神のわざが見えないとの怠慢さを「不幸である」と断言するのです。

 それでは反対に、イエス・キリストが幸いであると語るのはどのような人々を指しているのでしょうか。それは「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「神の義に飢え渇く人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「神の正義のために迫害される人々」「キリストのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人々」です。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」とイエス・キリストは語ります。幸いな人々が何人いるのか、具体的には誰なのかということについては、イエス・キリストは直接には語りません。けれども「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」とされる人々の中に、先に述べた95名の方々は含まれているのです。これほど心強いことはないと思うのです。

 今年度の主題聖句は「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」という『ヨハネの黙示録』の言葉です。いずれわたしたちも眠りにつくときが訪れます。汝の死を覚えよとの言葉の通りですが、神の愛は、その死を呑み込む力があります。召された人々にいつお会いしても恥ずかしくない生き方をしてまいりましょう。95名の方々は確かな足跡を遺されました。キリストに従う道。今もわたしたちを勇気づけ励ましています。

2020年10月22日木曜日

2020年10月25日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「恐れるな!」 
『マタイによる福音書』10章26~33節     
説教:稲山聖修牧師

説教動画は、「こちら」をクリック、もしくはタップしてください。

 今朝わたしたちは2020年10月最後の聖日礼拝を献げます。1517年10月31日にルターがその時代のローマ・カトリック教会の教えに抗議したことから「宗教改革記念」として尊ぶ教会もあります。その時代のローマ・カトリック教会の教えでは、各々の指導者の主張はともかく、全体としては行為義認という考えが一般的でした。すなわち、誰の目にも分かりやすい道徳的な振る舞いが神の御旨に適った行為として認められ、そのわざによって神に受け入れられる、つまり教会があらかじめ設けた枠の中での証しのわざを積み重ねることで、亡くなった後に一旦は赴かなくてはいけない煉獄という、この世で犯した罪を浄化する場所にいる時間を短くできるという考えです。もちろん人間は自らその罪を償うわけにはまいりませんから、教会に特別献金を献げ、その代わりに罪を贖う贖宥状をもらうことで、天国にいる諸聖人の徳を分けてもらうというしくみがあったのです。分かりやすく言えば天国へのクーポン券のようなものです。マルチン・ルターはもともと修道士ですから、師匠の教えに忠実に従っていたのですが、聖書を何度も開いてもそのような教えはどこにもありません。悩んだ挙句、95の問いかけが記された公開質問状をその時代の一般の人々が決して用いないラテン語で書き記します。しかしながらこの質問状の影響は次第に大きくなり、とうとうその時代の教会の収入源の是非にも及ぶ話になってまいりましたので、単なる修道士の問いかけでは済まなくなってまいりました。すでにルターの働いたおよそ100年前、今のチェコにいる人物がルターと同じ説を唱えて火炙りにされたこともあり、危うさを感じたルターはその身を隠しましたが破門にされ、あらためてその時代の最高の権能をもつ議会に招かれ、考えの撤回を求められた時には「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。わたしはここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助け給え」という他にありませんでした。

 ルターをそこまで追い詰めたのは果たして何であったのでしょうか。火炙りを極刑とする異端審問でしょうか。それともすでに破門に処せられているのにも拘らず家族にまで及ぶ様々な圧力でしょうか。確かに各々の事情はあったでしょうが、つまるところは「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない」と言わなくてはならないほど、その時代の教会が聖書から遠く隔たり、読み書きのできる人でさえ聖書よりも教会の慣わしを重んじてきたのは見逃せません。それは500年の時を得た今でも変わらないのではないでしょうか。聖書を糧として、また聖書を軸にした教会の交わりを糧として育ってきた方々には、今の世と申しますのは甚だ生き辛い場でもあり、時代でもあります。繊細であるほどに過剰に反応しては人間関係に倦み疲れてしまうのです。しかし「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」。このように迫られますとそんなことができるのかと自信を失うわたしたちではありますが、少なくともわたしたちは次の事実は知っています。それは人間は誰もが一度は生涯の終焉を迎えるということです。その場で殺されようと、畳の上で息を引き取ろうと、病院であろうとその現場では具体的には異なるケースでありながらも、その事実は変わりません。NHKでは作曲家の故・古関裕而さんをモデルにしたドラマ『エール』が放送されていますが、戦場でこと切れていく主要人物の姿が描かれていることが話題となりました。ではどのような方を恐れるべきなのかという話になりますが「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とあります。「魂も体も地獄で滅ぼす」とは何を意味するかというと「初めからいなかったことにする」、すなわちその人がいたという痕跡を歴史から消し去ってしまうということです。これは極論すれば核兵器でも不可能であり、あらゆる世の人には不可能な行為であります。ここには暴力に基づく恐怖の底打ちが隠されています。暴力による恐怖には必ず限界があります。

 生存の恐怖に絶えず脅かされている人々。そのような人々は、海外だけなく、今やわたしたちの隣に数知れずおられます。未だに治療の先の見えない病に罹患した方々。絶えず借入金の督促の電話が鳴りやまない家。日常的なDVの中で言葉の乱暴さが当たり前となり、それが普通の言葉として習い性になっているこどもたち。けれどもそのような境遇にいる人々に、イエス・キリストは売られている雀を示します。そして「だがその一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と天を指さします。頭を抱え込む気持ちを十全に分かち合ったうえで、イエス・キリストは父なる神が畏れなけれならない方だけではなく、わたしたちを愛してくださっていると語ります。だから頭をあげなさいと語るのです。ルターもその神の愛に触れたのでしょう。日々新たにされるという聖書の言葉は時に慣わしにしがみつくわたしたちを不安にさせます、しかしその囚われから解放されて新たな扉を開きましょう。



2020年10月16日金曜日

2020年10月18日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「わたしたちを悪よりお救いください」  
『ヨハネによる福音書』17章13~26節
説教:稲山聖修牧師

説教動画は「こちら」をクリック、もしくはタップしてください。
『ヨハネによる福音書』を、他の福音書から際立たせる特徴として、イエス・キリストが祭司長たちの下役に身柄を拘束されるその前の「ゲツセマネの祈り」とは異なる祈りを献げており、しかもその内容が十字架刑を目前にしての恐怖と苦しみを神に訴えるというよりは、ご自身に従ってきた、世に遺される人々をとりなす遺言のようであるところに見出せます。この箇所で記されるのは「時が満ちた」という意味で、十字架での処刑と復活を通して神の栄光がいよいよ実現するとの確信です。17章11節には「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。実に粛々と父なる神に、とりなしの祈りを献げているのが分かります。

 しかしその理由はいったい何だというのでしょうか。それは次の箇所に立ち入ることで明らかにされます。「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」。「彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」。この言葉には、敵対関係にある者に対して剣を振うのは言うに及ばず、神から授かったいのちを徒に無駄にするような意味での殉教に焦るありかたを堅く誡めながら、諸々の誘惑から守るようにとの、初代教会で受けいられていくイエス・キリストの教えが記されています。

 史実性には乏しいとされる『ヨハネによる福音書』は、他の福音書と較べて最も後の世に成立している分、初代教会の内外にうごめく様々な誘惑や混乱を見つめていたはずです。その中で献げられる「彼らを悪い者から守ってくださるように」とのイエス・キリストの祈りは切実です。その背景には「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という主の祈りに連なる『マタイによる福音書』6章13節だけに限りません。中でもいわゆる「荒れ野の誘惑」として名高い、マタイ伝とルカ伝にある誘惑の物語にも詳しいところです。『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』では、洗礼者ヨハネから水による洗礼を授かり、救い主としての歩みを始めるにあたり真っ先に出会う存在が、重い病に罹患した人でも心身に某かの障碍を抱えていた人でも、また異邦の民でもなくて、「誘惑する者」であったところからも窺えます。そこには石をパンに代えてみよとの誘惑、つまり養いや教会のわざを支える糧をめぐる誘惑や「神の子なら飛び降りてみろ」という、直接には神を試す誘惑、立ち入って表現すると神との関わりや隣人との関わりを「試す」ことによって事実上「疑う」という誘惑、そして「世の国々とその繁栄ぶり」を見せつけてキリストへの眼差しや交わりから引き離そうとする誘惑が記されており、以上の誘惑からイエスもまた決して縁なき者ではなかったことが記されています。イエス・キリストは悪に翻弄されるわたしたちに絶えず寄りそってくださるのです。

 それだけではありません。わたしたちが最も「悪い者」の甘い言葉に弄ばれるのは、万事が首尾よくうまく運ぶという場合だけに限らず、むしろ万事休すといった場面で祈りを忘れてしまったときではないでしょうか。『マタイによる福音書』で幸いをめぐる言葉が山上の説教として記されますが、その中には「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい、大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」とあります。この言葉は当時のユダヤ教やローマ帝国といった外部からの迫害に限らず、実は教会内部にも巣くっていた争いをも暗示していると思われます。それは初代教会内部の派閥争いについてパウロが『コリントの信徒への手紙Ⅰ』で書き記し、諫めるとおりです。キリストに眼差しを向けるよりも、人の立ち振る舞いに気をとられ足下をすくわれていく混乱があります。けれども『ヨハネによる福音書』でイエス・キリストは、これから自ら味わう苦難への恐れよりも、遺される人々のために懸命になってとりなしの祈りを献げてくださっています。救い主自らの苦しみに代わって人々が、聖書の言葉の正しさによって大いに祝福されるために、です。

 わたしたちが主の祈りをはじめとして、食前の祈りも含めてあらゆる祈りを献げるときには、イエス・キリストがわたしたちのためにとりなし続け、神の愛の力を注いでくださっている事実を深く胸に刻みたいと願います。

2020年10月8日木曜日

2020年10月11日(日) 説教メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「眠れる人を起こされるキリスト」
『ヨハネによる福音書』11章1~11節
説教:稲山聖修牧師

メッセージ動画は、「こちら」をクリック、もしくはタップしてください。

 Amazonや楽天といった流通業界の革命の中、出版業界の不況が叫ばれて久しくなりました。しかしその中で着実に売り上げを伸ばしている分野があります。ひとつにはコミック、そして小説です。貧困と格差社会の問題が深刻になるところでは小林多喜二の『蟹工船』、感染症の爆発的流行の中ではカミュの『ペスト』が青年層の中で出版部数を上げるという現象が見受けられます。そして仮に最近の10〜20代の若者の間で読まれるところの小説が実はドストエフスキーだとするなら、きっとみなさんは驚かれることでしょう。

ドストエフスキーの代表作のひとつとして知られた作品に『罪と罰』があります。主人公はかつては苦学生であり、貧しさ故に学業を続けられなくなった青年ラスコーリニコフ。「一つの小さな罪悪は百の善行により償われる」。その考えのもと彼は高利貸しの老婆を殺害し、その場に居合わせた老婆の妹のいのちまで奪うこととなり、激しい罪の意識に苛まれます。ラスコーリニコフはその殺人以外には貧困層の家族に施しをしたり、かつては火事の中からこどもを助け出していることから、小説の上では単純に悪人であるとは決めつけられない設定になっています。そのようなラスコーリニコフが出会うのがソーネチカという、酒飲みの父のせいで夜の街に立つこととなった女性。ラスコーリニコフはこの女性と知り合ううちに極めて気高い、そして毅然とした言葉をかけられます。「立ちなさい!今すぐ、これからすぐに行って身を屈め、あなたが汚した大地に口づけをするのです。あなたは大地に対しても罪を犯したのですから」。この女性がラスコーリニコフの改心にあたって読み聞かせる聖書が、本日お読みしたところに重なります。

 ラスコーリニコフが犯した罪とは一体何か。もちろん老婆とその妹を殺害した罪であることは言うを待ちません。しかしその罪の源には正義は一つであるとの思いと過剰なまでの自意識があったのではないでしょうか。自分が正しという思い、あるいは自意識に囚われたままの私たちという意味では、たとえ貧困の最中にあったとしてもその罪を逃れられないという厳粛さが突き詰められるとともに、その囚われからの解放というテーマも同時に扱っているように思えてなりません。時代は帝政ロシアの末期であり、街の規模が大きくなるほど貧困層の人々が増えてまいります。その中で己の境遇に憤りを覚えたラスコーリニコフは、自分の正義の中に囚われて、遂には殺人を犯します。「自分の正義に囚われる」という意味では、わたしたちも同じまどろみの中を彷徨っているのではないでしょうか。追いつめられるほど、わたしたちは一生懸命になりますが、同時にその一方でその一生懸命さがもたらす結果だけが全てであると思いたいとの衝動に駆られることはないでしょうか。人の世では決して正義も、結果もひとつではありません。

『ヨハネによる福音書』で描かれるラザロは、この物語の中では病に罹患し瀕死の状態でした。関わる者全てがラザロの病に胸を痛めながらも諦めの中に立っていたとしてもおかしくないほど重篤でした。しかしイエス・キリストは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と開いた口が塞がらないような言葉を語るのです。「この病気は死で終わるものではない」。「病気では死なない」と言っているのではありません。重篤な病によってラザロが心ならずも生涯を終えてしまうことを見据えながら、イエス・キリストはラザロが「眠っている」と語ります。だからこそキリストは「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言うのです。「起こしに行く」と言うのです。決してラザロの家族の住まう場所は弟子を安心させるところではありませんでした。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行くというのですか」。弟子には思いもよらないイエス・キリストの勢いの理由は「マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」に尽きます。実にシンプルな理由。神の愛はときに人の目にはあまりにも愚かなまでに単純に映ります。この救い主の勢いによって、死に至ったラザロはイエスに手をとられ甦りの道へと引き出されます。

 わたしたちは果たして目覚めているのでしょうか。それとも見えても見えず、聞こえても聞こえないという意味でのまどろみの中にあるのでしょうか。しかし自分の境遇を棚上げしてでもとりくまなければならない事柄、支えなければならない人がいるというのであれば、わたしたちは決して自分の想念のなかだけに落ち込んでいくことはありません。ラスコーリニコフはソーネチカの力によって罪を認めてシベリアへと流されますが、ソーネチカも彼を追って流刑地にやってきます。己の想念の中に囚われ、死に至る病に憑りつかれているわたしたちをイエスは起こしに来られます。自分を差し置いて取り組まねばならない事柄、愛すべき隣人のある人。それだけでその人は幸いです。


2020年10月1日木曜日

2020年10月4日(日) 説教 (自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「川の流れは激しくとも」 
『ヨハネによる福音書』10章40~42節 
説教:稲山聖修牧師

説教動画は、「こちら」をクリック、もしくはタップしてください。

『ヨハネによる福音書』の冒頭では「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とある通り、洗礼者ヨハネは『ヨハネによる福音書』ではイエス・キリストを指し示す一本の指として重要な役割を担っています。それはこの福音書の冒頭1章1~42節までに筆が及んでいるところからも分かるとおりであります。本日、わたしたちが心に留めたいのはこのような『ヨハネによる福音書』の書き手の集団と、本日の聖書の箇所で描かれる人々の言わば「温度差」です。洗礼者ヨハネはイエス・キリストを見事に指し示しました。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその方の履物のひもを解く資格もない。」1章33節にはこう記されます。「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストを証しするという一大事業をやってのけたのであります。旧約聖書と新約聖書を繋ぐ最後の預言者とさえ呼ばれる理由がそこにあります。しかし本日の箇所ではどうだというのでしょうか。洗礼者ヨハネが最初に洗礼を授けていた所にイエスが滞在されたと記した後に描かれる人々の言葉は「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」。「ヨハネは何のしるしも行わなかった」とのワンフレーズで、果たして洗礼者ヨハネの働きは総括されるというのでしょうか。そしてイエス・キリストと対比されるべきだというのでしょうか。この温度差にわたしたちは戸惑うのです。

「ヨハネは何のしるしも行なわなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」。イエス・キリストが聞いた言葉はこのようなものでした。しるしと証し。わたしたちが聖書を読むうえで混乱するこの二つの言葉ですが、福音書でははっきりとした区別があります。しるしの場合は様々な使い方があります。それは決してよい意味ばかりではない場合もあります。『マタイによる福音書』16章1~4節で、イエス・キリストを試そうとして天からのしるしを見せて欲しいと願うファリサイ派やサドカイ派に対し、キリストは次のように答えます。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが・・・」と語ります。イエス・キリストとわたしたちという、わたしたちが全幅の信頼を置くべき相手に対して、救い主としての証拠を求めるという態度が「しるし」という言葉には見え隠れします。それは場合によっては病人への癒しであったり、5000人もの人々へ食を分かち合うわざとして表現されますが、このような「しるし」というものは、場合によっては求める者の関心や興味、必要を満たすだけのものに留まる場合もあります。今でいう福祉法人の運営であっても、人々の満足度の追求以上にイエス・キリストの宣教のわざの道を整えなければ、到底証しにはなりません。証しと申します言葉は、本来は殉教すら意味する全身全霊を賭したわざである以上に、イエス・キリストに従う喜びに満ちた働きです。そして証しに触れた人々に某かのお土産としての問いかけを残すものでもあります。

 洗礼者ヨハネが水による洗礼を授けたヨルダン川。確かにヨルダン川はところによっては川幅も10メートル足らずという、決して大河とは言いがたい川です。けれども新約聖書の世界では、川に堤防が築かれて治水に万全の体制は取られてはいません。「しるし」と「証し」の間には、時折濁流押し寄せるまことに激しい川の流れがあって、それが人々とイエス・キリストの間を遮るという事態もあり得ます。わたしたちの人間関係にも時としてそれは言えます。相手に対して激しく証拠を求めるとき、そのわざは相手に対する不信が前提になっています。いくら証拠が出てきても、相手を信頼しなければ意味がないのです。けれどもイエス・キリストは、川の流れが激しくとも、ヨルダン川で洗礼者ヨハネが救い主の証しを立てた場所に来られるのです。多くの人が破れを抱えながらもイエスを信じたとあります。洗礼者ヨハネのいのちがけの証しはこのように人々の道しるべとなっていくのです。そのような証しを立てるなら、困難な時代を迎えるほどに、主の交わりは垣根を越えて広がっていくこととなります。祈りましょう。


2020年9月24日木曜日

2020年9月27日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「追いかけてくるイエスの愛」
『ヨハネによる福音書』10章22~30節
説教:稲山聖修牧師

説教動画は、「こちら」をクリック、又はタップしてご覧ください。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。『ヨハネによる福音書』10章7節は聖書の言葉の中でもよく知られています。ところで羊飼いと申しますと、羊の群れを導くために羊飼いは常にその先頭に立つ構図で描かれている絵画が少なくないのですが、羊飼いの働きとは実際のところどのようなものなのでしょうか。

 羊飼いを英語で綴ればShepherdとなります。特定の犬種に限らず牧羊犬の場合でもこの名が用いられます。牧羊犬を用いて羊飼いが羊の群れを導く場合にどのような動きをするかと申しますと、絶えず群れの回りを走り回り、時には群れの行く手を遮りながら、羊飼いの目指すところへと導こうとするのです。

 『ヨハネによる福音書』10章ではイエス・キリストは自らを羊飼いに重ねて論じるところが多いからこそ、実際の羊飼いの動きに思いを馳せてみたいのですが、時に羊飼いは、羊の群れが自ずから進もうとする行く手を阻むこともあるところには目を注がなくてはならないでしょう。羊飼いが羊の群れを阻むとき、また牧羊犬を用いて遮ろうとするとき、羊の群れと羊飼いは決して同じ方向を見てはおりません。牧羊犬は嗅覚と聴覚、羊飼いは研ぎ澄まされた視力で、羊の群れのかたちを整えてまいります。そこには絶えず群れの行く手に目を注ぎ続ける「牧歌的」という言葉からはほど遠い働きがあります。言わんや、イエス・キリストは自らを「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と仰せなのですから、イエス・キリスト御自身にしか見えない視野をわたしたちは歩むほかないわけであります。これはイエス・キリストに絶大な信頼を置くと同時に、大きな戸惑いをももたらします。イエス・キリストの導く先が分からない場合、わたしたちはおいしそうに見える足下の草に気をとられてしまうからです。

 本日の聖書の箇所では、足下の草地に気をとられ、導かれる行く手を見失ってしまった人々の声がまず記されます。季節は冬。冬のエルサレムには雪も降ることもありますが、それは春が近づけばの話。からからに乾燥する中で迎える冬の寒さは身に堪えるところです。身体を刺すような空っ風の中で、描かれる人々は答えが欲しいのです。今すぐ分かる答えが欲しいのです。「良い羊飼い」に開かれている展望を尋ねようとする余り、いつのまにかそれが苛立ちと憎しみになってしまうのです。「いつまで、わたしたちに気を揉ませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。もし羊飼いに従う羊であるならば、このような激情に駆られて羊飼いに迫るとは考えられません。人々がイエスに望むメシアとは単に願いを叶えてくれるだけの「自分に都合のよいメシア」に他なりません。人々は足下に生える草を食べさせてくれればよく、遠方を見渡しながら道を拓く必要などありません。けれども羊飼いに従わない羊たちがその所行を続けるのであれば危険を察知することも、牧草地が荒れ果ててしまうことも知らないままに捨て置かれる結果に繋がりかねないのです。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行なうわざが、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う・・・」。この言葉に激昂したユダヤ人たちはあろうことか神殿の境内でイエスの殺害を試みます。しかしイエス・キリストは彼らの手を逃れて、去って行かれたと、後の箇所には記されます。

 本日わたしたちは、この箇所で捨ておかれてしまったかのように思える羊の群れに重ねられた人々の姿を思い起します。なぜイエス・キリストを殺害しようとしたのか。救い主に向けられた苛立ちと憎しみに、頑なな羊の姿が見え隠れします。しかしこの群れもまた「羊のためにいのちを捨てる良い羊飼い」の姿を十字架に仰ぐこととなります。そして復活したイエス・キリストに示された神の愛に追われて、それこそ牧羊犬に追われるかのように、足下の草むらよりももっと大切ないのちの源へと導いてくださります。よい羊飼いは羊たちの頭を強引に押さえつけ、下げさせるのではなくて、その場で羊の軛を外して顔を上げさせるのではないでしょうか。そのためにはたとえ人の設けた行く手を遮ってでも、イエス・キリストはわたしたちに道を示してくださるに違いありません。コロナ禍の中、存立の危機に直面している教会は少なくありません。だからこそわたしたちは教会のありようを公正に問うことができるのであり、それはわたしたち各々が暮らしの根をどこに降ろしているのかを確かめるわざに繋がります。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びない」。イエスの愛に追いかけられる。それは同時に、恐怖や不安、憎しみから解放されることをも意味します。聖書の言葉に尋ねながら「良い羊飼い」に従ってまいりましょう。


2020年9月17日木曜日

2020年9月20日(日) 長寿感謝の日礼拝メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「羊飼いイエスの声を聴き続けて」
『ヨハネによる福音書』10章1~6節 
説教:稲山聖修牧師

メッセージ動画は、「こちら」をクリック、もしくは、タップしてください。
 
 わたくしどもの教会では敬老の日のある週の始まりとなる聖日礼拝に「長寿感謝の日礼拝」を献げております。この「長寿感謝」という言葉には何重もの意味が重ねられております。いわゆる「敬老の日」に含まれる、健康が守られてご長寿をお祝いするという意味に加えて、人生の経験を土台としながらも単なる人生経験とは似て非なる、いや全く異質であるイエス・キリストとの出会いを重ねてこられたことへの感謝、そしてこの世の波風、歴史の激流の中でイエス・キリストを見つめて歩んでこられたことにより、スローガンとしてではなく物静かでありながらも堅実な証しとして後に続く者のキリストに従う道を開拓してくださった働きへの感謝の思いであります。「御礼を言われることなどしてません」と呟く方ほど実りは豊かであって、数多の困難をキリストを羅針盤にして乗り越えてこられた歩みに触れて、わたしたちは己のいたらなさと未熟さを静かに感じ入ります。
 
 本日の聖書の箇所、『ヨハネによる福音書』10章1節〜6節までには次のような記事が記されます。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。わたしたちは概して羊は導き手がいなければ群れをまとめることができずまとまりを欠き、狼などの餌食になってしまう家畜であるとその愚かさを強調して聖書を読み込みがちなのですが、本日の箇所では決してそのようには描かれてはおりません。羊は羊飼いの声を聞き分けるとあり、さらに羊飼いは羊一匹一匹を名前で呼ぶというのです。耳たぶにタグ付されたコード番号でもなく「あの羊、この羊」という曖昧な表現でもなく、名をつけてその名を呼ぶとは、一匹一匹にその羊ならではの関係性が成り立っているのだと言えましょう。極限まで効率化された酪農の場合、例えばヨーロッパの場合、牛は鉄パイプに縛りつけられ胃瘻で餌を流し込まれ機械のように扱われる場合もあります。そのようなあり方とは正反対の姿がこの羊には重なります。羊たちが羊飼いを信頼するからこそ羊飼いはその役目を全うできることとなります。それでは強盗や盗人が羊の囲いに入った来た場合にはどうなるというのでしょうか。羊は盗人や強盗に連れ去られるのでしょうか。決してそうではありません。「しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者の声を知らないからである」。つまり「逃げ去る」という仕方で抵抗の余地が残されているのです。
 牧師もまたイエス・キリストを前にしては数多の羊の一匹であると同時に羊飼いとしての役割を授かっております。ただし羊飼いにも種々様々な者がおります。旧約聖書、とくに『ゼカリヤ書』では「よい羊飼い」と「悪い羊飼い」という区分けをします。とくに預言者の書で「悪い羊飼い」として扱われるのは『エゼキエル書』34章ではこう記されます。「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、牧者である彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は羊を養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりとなった」。羊は盗人の声を聞き分けることができました。強盗の声も聞き分けることもできました。しかし力尽くで支配しようとする「悪い羊飼い」のもとでは仮に逃げ果せられたとしても、その後にたどった道は過酷でした。だからこそ『エゼキエル書』ではその過酷な道のりの果てに神自らが羊飼いとなって養うと語り、『ヨハネによる福音書』ではイエス・キリスト自らが「わたしは羊の門」「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」とあるのです。主なる神はわたしたちを決してうち捨てられたままにはされません。
 2020年度には5名の兄弟姉妹が長寿感謝式にあって主なる神より祝福を授かり、18名の方々がその列に加わります。本物の羊飼いの声を聴き続けてきた腹を括った方々の証しがあります。この間、戦争があり、引揚があり、廃墟からの復興があり、数多の出会いと別れがあり、経済成長を支えながらも、それに伴う世の常識の流転がありました。そして東日本大震災と新型コロナウィルス感染症の影響によって大きく変わる今の世があります。その中でご自身やご家族にもその波を受けながら羊飼いの声の真贋を聞き分け、進む道筋を違わなかった方々の歩みがあります。組織としての教会への帰属意識や時の長さだけではこの歩みは不可能です。イエス・キリストとの出会い、祈る中での神の愛への全幅の信頼。今日の祝福を目の前にしたわたしたちは、その歩みに続こうと思いを新たにするのです。

2020年9月11日金曜日

2020年9月13日(日) 説教メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「真理はあなたたちを自由にする」
『ヨハネによる福音書』8章31~36節
説教:稲山聖修牧師

メッセージ動画は「こちら」をクリック、もしくはタップしてください。



台風が過ぎ、風もそれほど強くは吹かないだろうとの見立ての中、敢えて雨戸を閉めずに布団に横たわります。朝日が差し込むか、それとも目覚ましのアラームが鳴るかして目覚めます。朝の光を浴びれば目覚めずにはおれません。そんな当たり前のように思える朝ですが、考えてみれば何億年もの昔から繰り返されてきたリズムでもあります。冬になれば日の出前に目覚めますが、冬は冬で明けの明星が泉北ニュータウンではひときわ明るく輝きます。これもまたわたしたちのいのちのリズムでもあります。

いのちに基づかない真理は、聖書の中では描かれません。いのちと関わりのない真理と申しますのは、わたしたちとは無縁であります。神ご自身が真理であるといったとき、わたしたちにどのように向き合っておられるのか、それがわたしたちにとって大切な真理となります。それでは「真理はあなたたちを自由にする」と言ったとき、それはわたしたちとどのように関わっているというのでしょうか。ときに真理という言葉は、わたしたちの日常では荒唐無稽であるだけでなく、暮らしの安寧を脅かしかねないものとして遠ざけられもします。旧約聖書では神の顔を直接仰いだ者や十戒を刻んだ箱に触れた者は死んでしまいます。嘘をつけない人が馬鹿をみる、まっすぐに生きようとすれば出る杭となる、あるいは相手に失礼を働いたということで絶縁されてしまう。銀行員が組織の不正を暴くドラマが盛り上がってはいるけれど、もし同じことをしてみたらその人は失職するに違いありません。お役所でも正しさを大切にする思いを重んじていれば、やがて心が蝕まれ自死に追いつめられいく。真理がそのようなものであるならば、わたしたちはむしろ嘘の世界に身を委ねていたいと思うのです。安寧を貪りたいと思うのです。その時の状況次第で勝ち馬に乗ってゆけば幸せになれるだろう、その嘘を敢えて呑み込みながら生きていくことが大人のあり方だと思っています。それが現実だと思っているのです。

けれども聖書のメッセージはそのようなありかたに「本当にそれでよいのか」と問いかけます。『マタイによる福音書』10章では「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。神の前には真理との関わりで公正さが求められます。それは杓子定規なものではなくて、互いが尊敬し合える関わりをもたらす公正さです。『ルカによる福音書』では「不正な管理人の譬え」の小見出しのもと、財産を無駄遣いしているとの告げ口を聞いて会計の報告の提出を迫る主人を前にして管理人はいつ解雇されても構わないように主人に借りのある者を一人ひとり呼んで借入の証文に手を加えます。万一失業しても自分を家に迎え入れる友人をつくるためです。「油百パトス」を「五十パトス」に、「小麦百コロス」を「八十コロス」に、という具合です。管理人の行いは杓子定規に見れば明らかに不正なのですが、借入として計上されているのが現金ではなく油であったり小麦であったりするのがポイントです。いずれも経年劣化するものであり、結果として管理人が手を入れた数値は劣化した品目として相応であるという可能性も出てまいります。減価償却という考え方はわたしたちには身近です。むしろ管理人の知恵は、主人の振る舞いとして公けにされその信頼度を高めていくところにつながります。神の真理は交わりをもたらします。恐怖や不安の軛から解放します。しかしこの発想は杓子定規な考え方にはまり込んでいる人々に理解されたでしょうか。おそらくそうではなかったからこそこのイエス・キリストによる譬えが福音書に記された可能性もあります。

「真理はあなたがたがを自由にする」。『ヨハネによる福音書』のこの言葉は「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」との『マタイによる福音書』の言葉と不可分です。わたしたちが恐れているのは何事でありましょうか。新型コロナウイルスによる感染症でしょうか。それともその感染が発症した場合に被るところの様々な中傷でしょうか。「幻なき民は滅ぶ」と旧約聖書『箴言』29章にあります。さまざまな恐れは現実としてそこかしこにあるのは周知のとおりですが、わたしたちが囚われるべきは恐れではなく、喜びと自由をもたらす神の真理です。神の真理に根ざした現実こそが、わたしたちの現実であり、移ろいゆくこの世の、一人ひとり異なる現実を教会に滑り込ませてはわたしたちは身動きがとれなくなります。それは天空のリズム、いのちのリズムから離れた枷と軛以外の何物でもないからです。泉北ニュータウン教会は何よりも神の現実に立つのであり、人の思いに囚われた虚構に立ってきたのではありません。神の公平さに堅く立って、然りには然り、否には否として向き合い、いのちを活かす道を開拓する時が、今まさに来ています。

2020年9月3日木曜日

2020年9月6日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「二人が行なう証しは真実」

『ヨハネによる福音書』8章12~20節

説教:稲山聖修牧師

説教動画は、「こちら」をクリック、またはタップしてください。

 大型旅客機のパイロットの場合、操縦士・副操縦士の二人が操縦桿を握ります。長時間のフライトの場合、食事はそれぞれ別メニュー。片方が万一食中毒になっても別のパイロットが健康体で適正な判断を下すためのしくみです。一国の指導者である大統領もフライトの場合は大統領・副大統領別々の飛行機に搭乗します。航空機事故やテロも想定しての配慮だと言います。

 キリスト教文化圏ではこのような発想の源を聖書に求めます。まずはイエス・キリストが宣教のために遣わす弟子が常に二名であること、その根拠は聖書を辿るならば旧約聖書『申命記』19章15節にある「いかなる犯罪者であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の立証によって、相手の不正を証言する時には、係争中である両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない」という条項です。人間は神の前には常に破れを抱えています。不完全であり、失敗を犯すリスクを抱えています。だからこそ、人生を遮る性格を伴う裁判を行なう場合には、複数の証人がいて初めて正当なものであると見なされるのです。

 新約聖書の場合、イエスが二人一組で弟子に宣教のわざを託して遣わすという場面になりますと、場面は裁判の舞台である法廷で真実を解明するというよりは、イエス・キリストに従い、その教えとわざを広め、交わりを育むために求められるパートナーシップに変容してまいります。それは福音書に記される数々の癒しの奇跡物語が明らかにしているところであり、パウロもまたバルナバという仲間とともに伝道のわざに励んだのでありました。パウロとバルナバは決して「つるんでいた」のではありません。神の証しのわざを立てる必要にして充分なパートナーシップを湛えていたといえるでしょう。神の正しさとは、イエス・キリストに遣わされた交わりとして波紋のように広がっていくのであり、決して独りよがりに、そして個人が振りかざす言葉ばかりの「唯一の正義」には決して留まりません。イエス・キリストが啓示した神は、旧約聖書に記されたところの「主なる神」であります。しかし主なる神の働きかけが愛のわざとして人々に働きかけるとき、人間の側からすれば必ず多様性、つまり多様なスタイルをとる「真実」となります。なぜならばわたしたちが見て取ることのできるのは「真理の断片」に過ぎないからです。神の側からすれば正義はひとつです。しかしわたしたち破れを抱えている人間からすれば、正解は決してひとつではなく多様な姿をとります。三位一体の神という時に分かりづらく響くキリスト教の神理解も、聖書の解き明かしとしては決して疎かにはできない考え方であり、何よりも正解はひとつではないことを証ししているのではないでしょうか。

 それではイエス・キリストのパートナーとは誰であったのでしょうか。これが本日の聖書箇所の肝となる問いかけです。律法学者が問うには「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」。つまりイエス・キリストは極めて独善的な人物として映っているからして、真実ではないとの指摘にいたるのですが、イエス・キリストは答えます。「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしは一人ではなく、わたしをお遣わしになった父が共にいるからである」。福音書の物語をたどりますと、わたしたちからすればイエス・キリストは絶えず孤独の中で苦しみつつ祈りを献げていたようですが、今日の聖書の言葉では決してそうではないと語りかけています。イエス・キリストには、父なる神がともにおられる「インマヌエル」の神として描かれているのです。あくまで父なる神との関わりの中で、イエス・キリストはそのわざを成し遂げてゆかれるという救い主の歩みが記されるのです。だからこそ次の言葉が迫ってまいります。すなわち、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。なぜでしょうか。そこには必ず父なる神と御子イエス・キリストとの関わりを土台にした、隣人との交わりが備えられるからであります。その度台に根ざしてこそ、わたしたちの暮しのありよう、即ち、『ヨハネによる福音書』での「肉の欲(考え)」また「人の欲(考え)」と呼ばれる世界もまた祝福されるのです。また同時にその儚さをも神に祝福されたものとして受け入れることができるのです。人の姿しか目に入らない場合、わたしたちは隣人を傷つけ、その内面に土足で足を踏み入れていることに無自覚ですらあり得ます。しかし神と結ばれているキリストを軸とすることで、まことの善悪の分別を体得し他者を活かす知恵を備えられます。しっかりとした足取りで9月の歩みを始めましょう。


2020年8月27日木曜日

2020年8月30日 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「書き込まれた新たな物語」

『ヨハネによる福音書』8章 3~11節

説教:稲山聖修牧師

説教動画は、「こちら」をクリック、またはタップしてください。

本日の箇所では、姦通の現場、今日の言葉で言えば不倫の現場で捕らえられた女性の姿が描かれます。イエス・キリストの振る舞いとしてまことに劇的な場面ですが、実は『ヨハネによる福音書』にのみ記されている物語でもあることを、わたしたちはつい忘れてしまいます。しかもこの物語は『新共同訳聖書』の括弧が示すように、最古の写本には記されてはおりません。後の世に書き込まれたこの物語は、福音書全体の中でどのような役割を果たしているのでしょうか。

物語の場面は都エルサレム、神殿の境内。「そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女性を真ん中に立たせた」。姦通、つまり不倫の現場で取り押さえられたということは、これは現行犯であります。物語の字面を追ってまいりますと、613ある『律法』の誡めの根幹をなす十戒の第七の誡めに触れることとなり、字義通りにとれば死罪にあたります。真ん中に立たせられるという事態は、女性にはもはや逃げる余地がないことを示しています。また該当する罪状への判決が出れば、直ちにこの女性はエルサレムの都の外に引きずり出されて石打の刑に処せられる段取りです。それは律法学者やファリサイ派の人々の言うとおりです。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の書で命じています。ところで、あなたはどうお考えですか」。「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」と『ヨハネによる福音書』の書き手は記すのですが、このワンフレーズによって、女性を形容する一文に大きな疑問が生じていることにみなさんはお気づきでしょうか。「不倫の現場で捕らえられた」。不倫の現場で捕らえられたからには、その現場に律法学者やファリサイ派が偶然居合わせたこととなりますが、これはあまりにも不自然です。また不倫の現場で捕らえられたのであれば不倫の相手がいるはずです。しかしその相手となる男性は姿を見せません。『旧約聖書』に描かれる不倫の事件としては、ダビデ王とバト・シェバの判例があります。王妃のいる身でありながら、忠実な家臣ウリヤの伴侶バト・シェバを見初めたダビデは不倫の関係を結びます。その事件をもみ消すためにウリヤを生還不可能な戦場に送り込み戦死させ、バト・シェバを側室に迎えるという話です。この物語ではバト・シェバに神の責めが及ぶのではなくて、ダビデ王自らに神の責めが向けられるという構成になっています。バト・シェバは決して裁きの場に引出されて死罪を申し渡されることはありません。バト・シェバは悲しみを背負った女性として描かれます。その物語を踏まえても、女性だけが引出されるのは不自然極まりないのです。かがみ込んでイエスが地面に書いていたのは、神の名であったのか、それとも誡めであったのかは分かりませんが「彼ら」すなわち律法学者は「しつこく問い続けた」とあります。立たされた女性は黙ったまま。これは明らかに「自白」なき裁判。セオリー無視の偏った裁きであることが分かります。

ところでこの場での女性と申しますのは、福音書が描く古代ユダヤ教の世界におきましては、公の場での発言を赦されてはおりませんでした。その限りでいえばこの女性は、仮に最貧困層が置かれた女性がなすすべもなく身体を売るという仕方で生計を立てるほかなく、またその貧しさの故に無作為に身体を引きずり出され、イエス・キリストを訴える口実として利用された可能性もあります。汚れ仕事に従事しているからには今さらここで身の潔白を証明する人もおらず、本人も生きる希望を失っていたのであれば、早く楽になりたいと沈黙するしかありません。しかしイエス・キリストは訴える口実を探しているはずの律法学者たちへ逆に問いかけます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女性に石を投げなさい」。不倫に限らず613の誡めを破っていない者、律法を完成した者のみがこの女性に石を投げよというのです。期せずしてこの言葉は女性を取り囲む人々に突き刺さります。『旧約聖書』で描かれる神はイスラエルの民を愛しているからこそ律法を授けたのであって、人々を傷つけいのちを奪うための剣を与えたのではないのです。律法を完成した者であれば、この女性を責め立てるなどするはずがありません。今日の難民も含む寄留者、孤児、そしてこの女性のような寡婦の暮しを支えよという誡めはモーセ五書、すなわち『律法』には罰則規定以上の力を帯びて記されます。誰もいなくなった境内の片隅で「誰もあなたを罪に定めなかったのか」と身を起こしたイエスは女性に問います。ようやく女性は口を開きます。「主よ、誰も」。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」。イエス・キリストは自らとの関わりの中で新しい生き方を促します。今やこの名もない女性は疑いから解放されました。恐怖から解放されました。慰み者という道具としての扱いから解放され「誰もわたしを罪に定めなかった」という事実のみを、誡めを完成した救い主イエス・キリストの前に告白しているのであります。これまでの悲しみを癒して余りある深い絆がそこには生まれています。

書き込まれた新たな物語が『ヨハネによる福音書』に組み入れられた背後には、人として扱われなかった女性たちへの眼差しがあったでしょう。今や男性本位ではない、女性自らの眼差しで構成される物語が福音書全体を彩ることに至りました。


2020年8月21日金曜日

2020年8月23日(日) 礼拝説教(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

「キリストの<杭>となる勇気」

『ヨハネによる福音書』7章45~52節 

説教:稲山聖修牧師

説教動画は「こちら」をクリック、又はタップしてください。

 かつて終戦にいたるまで、出征兵士を送り出すにあたり、寄せ書きをした日章旗を贈る慣わしがありました。もしその中に「支那の子供を愛してください」とのメッセージが記されていたとするならば、わたしたちは何を思うというのでしょうか。北海道本別町の歴史民俗資料館には「支那の子供を愛してください」という一文について話を続ける語り部の細岡幸夫さん(89歳)がおられます。細岡さんによれば、このメッセージを書いたのは上美里別尋常小学校で教鞭をとっていた川原井清秀さん。細岡さんが小学校三年生の担任でもあった川原井先生。戦後しばらく経った後、川原井先生の寄せ書きを見て衝撃を覚えたと申します。細岡さんにとって川原井先生はどちらかというと浮いた感じのする先生であったそうです。川原井先生はクリスチャンでした。日の丸への寄せ書きは「極端なことをいうと、このメッセージは非国民的な言葉だということで、処罰されても不思議ではなかった」そうです。川原井先生は大正5年生まれ。8人兄弟の6番目として育ったものの、7歳から12歳までの間に母親ときょうだい5人が結核で亡くなるという幼少期を過ごした後、師範学校在学中の17歳の折に受洗されたと申します。生徒をあまり𠮟ることはなく、𠮟ったとしても「自分の手を胸に当てて瞑目していた」という先生。語り部の細岡さんは語ります。「これが本当の、平和を願う本当の短い言葉だと思います。分け隔てなくこどもを愛するということ。本当にこの言葉は永久に遺していかなくてはならないと思います。特にこどもたちに観て欲しい」。日章旗を受けとった男性は戦後無事に復員されたそうですが、川原井先生は終戦直後に急性肺炎で28歳で逝去されたと申します。穏やかな川原井先生が「支那の子供を愛してください」と出征兵士に贈った言葉。勇ましい言葉が居並ぶ中で日章旗に打ち込まれたキリストの<杭>がそこにあったと言えるのではないでしょうか。

 とは言え、出る杭は打たれる、と申します。教会に連なる方で公立中学・高校に勤務される方の中には、日本国憲法にある思想・信条の自由に基づき世の国々より大きな神の国を仰ぐという意味で国歌斉唱の際には起立されない方もいます。天皇制の問題もあるでしょう。これは大阪府の公立学校で懲戒処分の対象にされます。そのように生きる教会員の方がこの場にいたとするならば、わたしたちはどのように向き合うというのでしょうか。「あなたとわたしは関係ない」と言うべきでしょうか。わたしたちはボンヘッファーが逮捕前、ドイツ軍の戦勝報道を街頭で聞く中、群衆が右手を掲げたときに「まだ時は来ていない」と仲間に語りかけたように関わるかもしれません。なぜなら<反対する>という態度以上に「子供たちを愛してください」と呼びかける方が、より大きな力をもっているように思うからです。もちろん同調圧力の強い組織や共同体で出る杭となるのには実に勇気が要るもので、その労は測りかねます。

 しかし本日の聖書の箇所でファリサイ派の律法学者であるニコデモは「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめた上でなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」とイエス・キリストへの憎悪に湧き、捕縛するために下役を遣わした祭司長や同僚であるはずのファリサイ派に抗議いたします。すでにニコデモは『ヨハネによる福音書』3章でイエス・キリストへの出会いを経ています。3章でニコデモは議員の一人として描かれます。すなわち、相応の政治力ももった律法学者です。その彼がキリストのもとを訪れたのは夜であり、新しく生まれるとはどういうことなのかと語らいます。人目を憚るように救い主をのもとを訪ねたニコデモが、今朝の箇所では明らかに誰の目にも分かる仕方で、イエスの逮捕と裁判の不備について明言するのです。思わず口走ってしまったのかもしれませんが、彼に向けられた言葉は「あなたもガリラヤ出身なのか」という実に危うい状況を示すものです。イエス・キリストとの関わりは、ただただ安心立命を求めるものではありません。時には勇気をもって、またはわれ知らずしてイエス・キリストの杭になってしまう道が開かれる場合もあります。新型コロナウイルスへの感染の報せが近づく今、その恐怖心が転じて、感染を疑われた者は降りかかる差別に慄かずにはおれないという現状があります。そんなことは止めましょうという人にも言葉礫が投げられる場合もあるでしょう。しかしそれを恐れていては、わたしたちは何も出来ないのです。時に沈黙は不当な振る舞いに及ぶ人々を黙殺するのではなく、人々の苦しみを黙認してしまうことになりはしないでしょうか。ニコデモはキリストの苦しみを見過ごせませんでした。十字架から降ろされるイエス・キリストの骸を同じ議員であるアリマタヤのヨセフとともに受けとめてまいります。このときニコデモは明らかに「出過ぎたキリストの杭」となっています。キリストに根ざす出過ぎた杭は神の愛を証しします。「支那の子供たちを愛してください」。出過ぎた杭は決して打たれません。恐れず主なる神を仰ぎましょう。

2020年8月14日金曜日

2020年8月16日(日) 礼拝メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

 「時が来て癒される家族のつながり」

『ヨハネによる福音書』7章1~9節

説教:稲山聖修牧師

メッセージ動画は、「こちら」をクリック、もしくは、タップしてください。

 小学校4年生ごろのお話です。午後4時ぐらいになるとふらっとわが家にやってくる男の子がいました。何をするというわけでもなく、例えばその時間のあたりになると放送が始まるこども向けのテレビ番組を一緒に観た後、日によっては一緒にライスカレーを囲む。時にはおうちでお母さんが心配しているでしょ、大丈夫なのと母は言うものの、二日後にまた来る。同じように時間を過ごし、少し多めに作り大皿に盛ったコロッケを一緒に食べる。そんなことが三か月ほど続いた後ピタッとその男の子はこなくなりました。なぜ三か月という時間が思い出せるかというと、一緒に観ていたテレビ番組の四分の一、ワンクールを終えたことが後から分かったからであります。どちらかといえばマラソン選手のような体格でいつも似たようなTシャツを着ていました。暑いときに玄関から上がった時には母親が自宅で風呂に入れて服を洗濯することもあったようでした。突如として来なくなったその男の子。仮にY君くんとしておきましょう。どうして来なくなったのと母に尋ねたところ「昔はよくああいう子がいたの。あんたらはご飯を食べるときにはちゃんと手を合わせるんだよ」とこども心にはわかりづらいことを語気を強めて言うのでまた叱られたかと思い、箸を止めてしまったのを覚えています。1942(昭和17)年生まれの母には見えたはずです。親御さんからは何の挨拶もなかったそのYくんは多分、家に誰もいない鍵っ子であったか、家にいるのがつらくて仕方がなかったか、何か理由があったのではないか。今でいう児童養護施設の代わりに孤児院という言葉のあった時代でした。

 新型コロナウイルス感染症拡大対策で盛んに「ステイホーム」が叫ばれましたが、家にいるのがつらかったり、何らかの事情から自宅以外の場所で安心できたはずのこどもが暴力に遭ったという話は、PCR検査陽性者数以上にはメディアでは報道されません。親子と申しましてもあり方はばらばらです。殺人・傷害事件の最大の可能性は親子や係累関係にあるとの数値もあり、血のつながりがあるからといって家族が幸せであるかどうかは別の話になります。

 そういたしますと『創世記』にあるカインとアベルの物語は何らかの比喩的な表現でもありながら現代でも俄然現実味を帯びてきます。また「族長物語」で兄エサウが弟ヤコブに抱いた憎悪、ヨセフに兄弟が抱いた殺意、『サムエル記』でダビデの娘・息子たちの間に起きた諍いの物語は地面から現れわたしたちの足首を握って放そうとはいたしません。『ヨハネによる福音書』にあります今朝の物語にいたしましても事情は変わりません。故郷にいながら「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしているわざを弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」。殺意と憎悪が渦巻くエルサレムへと、なぜ兄弟たちはイエス・キリストを追い出そうとするのでしょうか。しかしその圧力にも拘わらずイエス・キリストは答えます。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行なっているわざは悪いと証しているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである」。『ヨハネによる福音書』ではこのように記した後、「こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた」と一旦筆を置きます。他の福音書でも故郷でナザレでのイエス・キリストへの無理解が描かれておりますが、今朝の箇所ではさらに一歩踏みこんで、兄弟たちが実に邪険にイエス・キリストを扱っているようです。そこには血のつながりはありながらも「世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる」という、神との関わり方に基づく世の態度の違いが鮮やかに描かれています。血のつながりもある家族もまたイエス・キリストには世に属する、救い主を受け入れようとはしない群れとなり得ます。けれどもイエス・キリストはそのような、針の筵になっているはずの故郷ガリラヤに「まだ、わたしの時は来ていないから」と言って留まり続けます。忍耐を続けます。それは来るべき時、すなわち民衆にとどまらずご自分に関わる全ての眼差しを自分の欲得にではなく、また名誉欲にでもなく、丘の上に立つ十字架に転じさせ、神の救いにいたる道へと向けさせるためであり、罪という名の洞穴に閉じ籠り、本来は支え養うべきいのちを傷つけ、神の恵みを前にしてなおも抵抗する人々に「戦いは終わった。神の愛にすべてを委ねて出てくるように」との講和条約を結ばせるためであります。昨日はポツダム宣言受諾の日でありましたが、その後も南の島に立て籠って戦う将兵もいました。大陸では引揚の際、足手まといになるという意味だけでなく生き延びる可能性を少しでも広げるために残留孤児となったこどもがいました。救い主の言動に無理解であったイエスの兄弟ヤコブは、後に初代教会のわざに殉じました。傷を負った全ての家族に神の平安と癒しを乞い願います。


2020年8月8日土曜日

2020年8月9日(日) 礼拝メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

 「いのちと平和のパン」

『ヨハネによる福音書』6章41~51節

説教:稲山聖修牧師

メッセージ動画は、「こちら」をクリック、またはタップしてください。

本日8月9日は、長崎で原爆忌として覚えられる日曜日です。恐らく爆心地近くにあるカトリック浦上教会では実戦使用最後の核爆弾であれかしとの祈りを込めて、齢を重ねた被爆者を中心をした記念式典が行なわれているはず。全国の教会でも核兵器の禁止を謳うメッセージが発せられていることでしょう。ローマ教皇フランシスコⅠ世は抑止力も含めた核兵器の製造と利用を悪であると発言して世界の核戦略の問題を断罪しました。

 しかし今朝の礼拝ではそのような大きな枠で論じられる事柄には敢えて言及を控えます。と申しますのも、そのようなメッセージはもうどこかで耳にされているはずだからです。むしろ今朝は、聖書が語る事柄に、より耳を澄ませた上で事柄を見つめたく存じます。今朝のメッセージの核となりますのは、「はっきり言っておく。わたしはいのちのパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を活かすためのパンである」との箇所です。神の恵みが「食」という、特にその時代の名もない人々には実に切実なかたちをとって描かれます。その恵みとはイエス・キリスト御自身です。『ヨハネによる福音書』では旧約聖書のメッセージの限界も指摘されます。ですから『出エジプト記』でエジプト脱出の旅の途中、飢え乾いたイスラエルの民に神が食べもの、すなわちマンナを幾度与えてもその心から不信の念をぬぐい去ることは出来なかったという意味でも「死んでしまった」と語ります。つまり終末の時にいたるまでには言うに及ばず、キリストがこのように語る今も眠ったままだというのです。「わたしは、天から降ってきた生きたパンである」との言葉を、わたしたちはどのように受け入れればよいというのでしょうか。

 平和のメッセージを聴くときに忘れられてしまうのは「その後の時代」を生きた人々の歩みです。当事者として言葉を発することほど辛いことはありません。助けようにも助けらなかった家族の姿が瞼にこびりついて離れないという話もあり、また人間扱いすらされなかった孤児の身の置き場はどこにあったのか定かではありません。治療のための診断をとの希望をもちながらも病院を訪ねれば、被爆調査は受けても治療につながる診察は全く行われません。あの日を境に突然孤児となったこどもは敗戦直後は親族をたらい回しにされる。貧困の中で家の土間にすら入れてもらえなかったこどもたちは数知れません。一瞬で親を亡くしたこどもたちは、アンダーグラウンドの世界に生きるのを余儀なくされる場合もあったと申します。就学機会を失い文字の読めないこどもたちもいました。靴磨きはましな方でスリや窃盗の見張りも当たり前な、過酷な生存状況がありました。そして最後には氏素性定かならずという理由で野良犬のように死んでいきました。しかし、今朝の聖書の箇所で描かれる、キリストを誤解し続けるユダヤの民とは違った意味で、こどもたちは神の国の訪れの時、目覚めの時を待ちながら今も眠っているのではないでしょうか。過剰な緊縮と節約の果てに迎えた敗戦。芋の蔓を煮て食べるしかないという話もあります。それも何もないよりはまだましだったと申します。敗戦にいたる日本を支配した「出し惜しみ」の発想。こどもはその犠牲でありました。

そのようなこどもたちにも「いのちのパン」としてのイエス・キリストは、やなせたかしさんが描いた、今のこどもたちの大好きなヒーローのように自らをお献げになったのではないでしょうか。そこでは今では考えられないような日常があったのは確かですがしかし現在とは時の流れが切断されているわけではありません。その只中でイエス・キリストの招きに応じたのが、その時代にこどもたちを無視できなかった多くのキリスト者でした。アウシュヴィッツ収容所で殺害されたコルベ神父の薫陶を受け、長崎で被爆しながら救援活動に尽力したゼノ修道士。「蟻の街のマリア」北原玲子(さとこ)さんのお名前を憶えている方もおられるのではないでしょうか。ゼノ修道士は放射性障害を免れずにはおれない当事者でもありましたし、北原玲子さんも結核で29歳の生涯を全うしています。このような方々が入れ代わり立ち代わり現れてくるのです。土山牧羔先生もそのつながりの中にあったように思います。あたかも『使徒言行録』の使徒たちのように現れる人々は、こどもたちを飢えと渇きの中で委縮させまいとの覚悟がありました。こどもたちが世の光となるために。広島や長崎、沖縄の地上戦や全国に及んだ空襲の記録の陰にいたこどもの歩みを、神は多くの器となる人を立てて癒してきたように思います。立てられた者は有名無名を問わず聖書に堅く立ち、困難な道を開拓しました。聖書に聴く態度。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。凡庸ながらも聖書に根ざした「いのちのパン」の歩みに己の姿を重ねましょう。

2020年7月31日金曜日

2020年8月2日(日) 礼拝メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

「神の平和の実現」
『ヨハネによる福音書』6章24~27節
説教:稲山聖修牧師
メッセージ動画は、「こちら」をクリック、またはタップしてください。

新型コロナウイルスが原因となり、社会のあちこちで想像しなかった変化が生じていることに、わたしたちは無関心ではおれない日々が続いています。可能な限り感染機会を避けるためにリモートワークがあちこちで奨励され、スマートフォンやタブレットパソコンがより身近な家電になっています。時差出勤が勧められた結果、ラッシュアワーも時間としては長続きしなくなりました。大学では対面授業よりもオンライン講義が主流となり、動画と資料を作成しては大学のパソコン上の窓口に張りつけるという作業が夏休みまで続きました。一度も担当学生の顔を見ないままで果たして講義と呼べるのかとの疑問を抱えながらも、多くの支えと励ましの中で乗りきることができました。
けれどもどうしても対面式でなければできない仕事もあります。医療や福祉が筆頭にあげられるでしょうし、教育でもあくまで当座をしのぐ手段としてリモートワークが勧められるのであって、それで万事問題なしというわけにはまいりません。あくまでも柔軟な対応が求められます。一度決めたからといって絶対に変更ができないというありかたは、状況が二転三転する現状には相応しくありません。なぜなら「一度決めたから二度と変更ができないという硬直したありかた」がもたらす悲惨な結果をわたしたちは75年前に見せつけられているからであります。
アジア・太平洋戦争に従軍した親族の一人に、わたしの場合は母方の祖母の弟、すなわち大叔父にあたる人物がおります。学徒出陣で出征するにいたったその人は戦争中・敗戦直後には秘匿されていたのですが、復員した仲間の報せによって、現在のミャンマーで「中国を支援するイギリス軍を撃退する」とのインパール作戦に従軍、戦死したと分かりました。インパール作戦は2000メートル級の険しい山岳地帯を重火器を抱えたまま登り降りして大河を渡り、食糧は重火器の運搬に用いた家畜とするという杜撰な内容でした。日本軍の補給線は伸びきり、弾薬も食糧も届きません。要するに作戦は初めから破綻していたのですが、将官クラスの軍人を大本営構成員の門閥で固めたため、誰も問題点を指摘せず、作戦中止を進言する者もいません。天皇の前で責任が問われるからです。下級将校や下士官・兵は満足な飲み水さえも与えられない中で飢えと悪疫で斃れていきます。雨期を迎えたジャングルの水には様々な雑菌に汚染されているからです。将官クラスの軍人は部下を見棄て状況視察の名の下に戦線を離脱します「一度決めたので絶対に変更は不可能な命令」。その中で大叔父も落命していったと思うと悔しくて仕方ありません。
祖母の話によれば、無教会主義の集会との関わりで大叔父は聖書をよく読んでいたと申します。カファルナウムという当時のユダヤの民からすれば異邦人の土地で、わたしたちと同じように日々の暮しに振り回されがちな名もない群衆に「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べものである」との箇所の意味を問われたことがあったとはっきり記憶していました。補給線の絶たれた敗残兵の中には戦場から落伍してその土地の人々のもとに落ちのび、助けてもらったお礼にその土地に住みついて、復員を諦める代わりにそこで家庭をもち、一生をかけて村への恩返しに尽くした未帰還兵が近年まで存命され、苦労されながらも家族に恵まれて生涯を全うしたとの話も少なからず聞きます。極限の中で生きる喜びに目覚めて余命を繋いだ人々もいたという話に大叔父の姿を重ねました。いのちは補充の効くものではありませんし、逝去された方々をも主なる神は決して忘れません。教会はそのような惨い歴史を聖書に重ねて受け入れながら、いのちの事柄に深く関わりをもつ交わりを育んでまいります。前線にいたるまでのその道は、戦死者や餓死者の骨で溢れ、白骨街道と呼ばれていましたが、そのような死の谷にうち捨てられた亡骸に神の霊が注がれるとき、それらの人々は復活するとの物語がすでに旧約聖書の『エゼキエル書』には記されています。雨期の長雨と高い湿度の中で軍刀や銃の部品が錆びていく中で、兵士が最後まで手放さなかったのは飯盒であったと申します。今の世にあってもひもじさを抱えているご家族のあることを一層身に詰まされている中で、絶えず移り変わる世のあり方に柔軟に応えていくことこそが、イエス・キリストの愛の力によって視野を広げられたわたしたちに求められているのではないでしょうか。責任を問われることを恐れて何もしなかったり、批判に耳を塞いで頑なになるよりも、飢えに苦しむ人が憧れた、豊かに実った麦や稲穂のように、神の前に頭を垂れつつ、今迎えている各々の困難な状況、涙とともに吠えるしかない事情に向けて柔軟に対応することこそ、世の全ての命令に先んじるイエス・キリストの約束です。それは復活の光に照らされた喜びの約束であり、永遠の命にいたる糧の約束であり、次の戦に怯えることのない、シャロームに包まれた平安なのです。風聞に惑わされず、国を超えた交わりと連帯の中で神の平和を証ししましょう。

2020年7月24日金曜日

2020年7月26日(日) 礼拝メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「荒波を踏み越えるキリスト」
『ヨハネによる福音書』6章16~21節 
説教:稲山聖修牧師

メッセージ動画は、こちらをクリック、もしくはタップしてください。
朝令暮改という言葉は、イエス・キリストが世に遣わされる180年から150年ほど前、農民の労働に苦しむ中、さらに命令が一定せず振り回される様子を訴えた古代中国の故事に源をもつとされます。今もわたしたちは二転三転する行政の指針を受けては不安の渦の中で科学的には全く根拠のない偏見や思い込みを被り消耗しているようです。豪雨の中で水害や土砂災害だけでなく衛生面での問題を乗りこえられず廃業に追い込まれた店舗や会社もまた数知れません。新型コロナウィルス感染症の行方は2011年に起きた震災と同じように状況が見極められないままでいます。嵐の中におかれた舟は雨雲が過ぎるのを何の希望もなくただ待つほかにないというのでしょうか。
 本日の聖書の箇所はイエス・キリストが湖を歩くという字義通りにとれば荒唐無稽でありながら、しかし丹念に辿ってまいりますと決して侮れないメッセージを聴きとれる箇所です。イエス・キリストが湖の上を歩くという話。これはCGなどで画像を描くほど聖書が言わんとするところから遠ざかってしまうところでもあり、またそれは浅瀬を歩いてきたというような尤もらしい説明でも同じような混乱を招く箇所でもあります。ただ実に興味深いのは、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事からおよそ40年を経て成立した『マルコによる福音書』、旧約聖書に記された預言の成就を描くためにその10年後に成立した『マタイによる福音書』、さらにその10年後に他の福音書を踏まえながらも、ギリシア語文化圏としてのローマ帝国による支配領域を視野に収めてイエス・キリストの救いの出来事をより巧みな表現でもって描いた『ヨハネによる福音書』という、それぞれ異なる課題に向き合っていたはずの異なる状況の教会で、一定の編集が行なわれながら一貫して掲載されてきた理由には、教会が決して疎かにできないメッセージが隠されているからに他ならないでしょう。三つの福音書に共通するのは、イエス・キリストが5,000人の群衆にパンと魚を分けあった物語の後であるというところ、そしてパンと魚を分けあった物語が大勢の群衆が登場する物語であるのに対して、イエス・キリストが湖の上を歩いたという物語では群衆は一旦舞台から退き、十二弟子との関わりの中で編まれているという点です。つまりイエスとその弟子、そこにはシモン・ペトロもイスカリオテのユダも含めて、キリストとの実に近い関係者を踏まえた上での話となっているのです。概して大勢の人々を喜びで満たした後には、言い尽くしがたいほどの充実感や喜びが余韻となって残るのが人間というものでありますが、イエス・キリストは自らの弟子がその余韻に浸る暇を与えません。事件は同じ日の夕方に起きます。当時の一日は日の出から日没までであり、夜は人間が本来活動する時間ではありません。それは闇の時間です。その闇の中で弟子はイエスのいないまま舟に乗り込むや否や「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」というのです。実際にガリラヤ湖で季節風が吹くときには小さなボートなど転覆するような勢いの波が舟を襲います。これがあらかじめ予測できていたならば、漁師を生業にしていた弟子もいますから舟を漕ぎ出しはしなかったはずですが後悔先に立たず。30スタディオンは概ね5,5キロメートル。今さら後戻りはできません。その中でイエス・キリストは荒波をものともせずに舟に近づいてまいります。
湖畔に暮らす人々には湖とは暮しとは切り離せない場所でした。しかし波に溺れてしまえば自力では決して助かる見込はないことも知っています。人々は荒れ狂う湖に世を重ね、舟をノアの箱舟の物語になぞらえて救いの場として教会を描きました。しかし今朝の物語に則するならば簡単にはこの世の波風は決して治まりません。その点では決して楽観的ではありません。福音書が記される途半ばの教会の礼拝はカタコーム、すなわち地下にある墓地を用いて行なわれていました。なぜならローマ帝国は公認しない結社を決して放置しなかったからです。しかしそのような世にあって、イエス・キリストは教会を世の深みの中に沈むままには決してされません。弟子一人ひとりは5,000人の群衆を五つのパンと二匹の魚で満たした、今日でいう「成功体験」からも自由にされて、目指す地に着いたのです。
世の嵐にあるとき、わたしたちは過去の成功体験にがんじがらめにされ、却って身動きがとれなくなる場合があります。思いますに、もしあの成功体験に囚われていたならば、弟子たちはイエス・キリストとの関わりを果たして保ち得たのでしょうか。「わたしに向かって『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行なう者だけが入るのである」(マタイ7章21節)。荒波のただ中で、イエス・キリストはわたしたちに迫ってまいります。闇の中にいてもなお、わたしたちが平安であるようにともにいて、行く手を示すためにであります。闇の中で輝く光を放つ御言葉を、何度も繰り返し味わいつつ、キリストが示す新たな道を求めていきましょう。

2020年7月17日金曜日

2020年7月19日(日) 礼拝メッセージ(自宅、在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

「選ばれた<棄てられた者>」
『ヨハネによる福音書』5章24~30節 
説教:稲山聖修牧師

動画は、こちらをクリック又はタップしてご覧ください。
 教会がキリストの枝として、そしてともに仕えあう交わりとして礼拝を献げる。単に世にある者の集まりに留まるのではなく、天に召された兄弟姉妹、すなわち神の家族とも仲間とも呼ぶべき方々ともともに礼拝を献げるという理解に立ちますと、イエス・キリストの十字架での死を見つめるわざを避けて通ることはできません。十字架での死。これは同時にわたしたち自らの身体も生涯を全うした際には世にある役目を終えることをも意味しています。先月・今月と教会員・教会員のご家族の訃報が相次ぎましたが、それはわたしたちの生涯に等しく向けられた厳粛な事実であり問いでもあります。ある自治体の斎場では、職員が棺を搬入し釜の扉を閉めますと、家族・近親者に点火ボタンを押すようにと勧められるところがあり、突然の申し出にご遺族が困惑する場面に居合わせました。ご心痛いかばかりかという思いに駆られ、自分がそのボタンを押す役目を申し出て「みなさんいいですか、聖書では肉体はサルクスと申します。これはやがて朽ちていく身体を指しています。けれども、この方が生きておられた、存在されていたという事実は、神がおられる限り決して忘れられることはありません」と語り、指に力を込めました。心に重い塊を抱えて帰宅したのですが、それでもなお、わたしたちもまた復活に定められているとの確信、そして神の愛が世界全体をつつむときにはキリストのみならず、逝去されたあの人この人も、新たにされた姿で再会するとの終末の約束が聖書には記されます。その時に肉体の死が決して生涯の終わりではないと深い確信とともに頷くのです。
 けれども同時にわたしたちは、肉体の死とは異なった、神に棄てられるという意味での滅びを知っています。十二弟子の一人にイスカリオテのユダという人物がいます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている」と𠮟られたシモン・ペトロと同じく、イスカリオテのユダには悪魔が入ったという書き手の言葉が『ヨハネによる福音書』では度々記され、イエスにナルドの香油を注ぐ女性に「その香油を300デナリオン」、すなわち銀貨300枚で売ればよいのにと咎め立てをしながらも、他方で『マタイによる福音書』では銀貨30枚、すなわち香油の十分の一の価格でイエス・キリストを、敵愾心に満ちた祭司長の下役に引き渡すというわざに及んでいます。ユダはイエスに接吻をして挨拶をするというまことに近い距離におりながらも「裏切者」という好ましくないラベルを貼られて今日にいたっています。しかしながら『マタイによる福音書』でイスカリオテのユダが30枚の銀貨を祭司長に返そうとしながら「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」とイエス・キリストが正しい人であったことを証言したその言葉は、『ルカによる福音書』では十字架に架けられたイエス・キリストの傍らで「この人は何も悪いことをしていない」と語るところの、同じく十字架での死を迎えようとしている死刑囚の言葉に重ねられるとの指摘があります。この十字架で交わす死刑囚との交わりが教会の本来の姿だと指摘する人もいます。それでは、イスカリオテのユダは孤独の中で絶命すべきであったと、わたしたちは今なお是が非でも言わねばならないのでしょうか。
 イスカリオテのユダが神に救われたのかどうか。それはわたしたち一人ひとりもまた、自らが救われているのかどうかを究極的には神に委ねなければならず、自分の考えを超えては断定できないところにも重なります。もちろん、文学や藝術でのイメージにも拘わらず、イスカリオテのユダが十二弟子の一人としてイエスとともにいたのは確かです。「裏切る」と言い表された言葉は実は「引き渡す」という意味をもっています。それは使徒パウロがイエスと出会う前にキリスト教徒をエルサレムに「連行」したとの言葉にも重ねられ、そして遂にはパウロ自らの手紙で用いる「言い伝える」との言葉にも重なるところを考えますと、イスカリオテのユダも神に用いられたと頷くほかありません。
それではわたしたちは何を言い伝えるのでしょうか。それは死に対して勝利されたイエス・キリストです。そしてそれは多様でかつささやかな暮しを通して伝えられます。誰が救われるのかと問われるとき、わたしたちは「わが神わが神、なぜわれを見捨て給いし」との十字架のイエスの叫びを聴きます。イエス・キリストは神に棄てられた者と歩みをともにされました。今朝の箇所では「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である」とイエス・キリストは安息日の癒しのわざを咎める人々に語りました。新型コロナウイルスの報せに狼狽えては思い悩む、破れに満ちたわたしたちではありますが、同時にこの病が世の権力を脅かしているとの事態に思いを馳せますと、暫く延期している聖餐式を重ねる主の晩餐の席に、世の力に弄ばれたように見えるユダも招かれていたとの聖書の記事を思い出します。神に棄てられた者の叫びをともにしたイエス・キリストは、神を見失いかけているわたしたちの痛みも、ともにしています。世にあるわたしたちは、すでにいのちの主であるキリストに「引き渡されて」いるのです。

2020年7月10日金曜日

2020年7月12日(日) 説教・動画(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

「真の統治者イエス・キリスト」
『ヨハネによる福音書』4章46~50節
説教:稲山聖修牧師

説教動画は「こちら」をクリック、
またはタップしてください。
社会情勢が逼迫したり、あるいは自然災害や疫病などの危機が人々の暮しを苛んだりしておりますと、たとえ自主独立を重んじる人々でさえ、頼るべき象徴を求めるようになります。権力者の神格化や個人崇拝がもたらす悲劇にわたしたちは常々心を痛めておりますが、民主主義を標榜し個人主義を重んじる国でも人々は象徴を求めます。
それでは新約聖書が描く世界となりますと誰がそのような象徴的な役割を担っていたのでしょうか。確かに政治権力の最高峰に立っていたのはローマ皇帝でありましたが、その支配に滞りが生じた場合の保険として、支配地ではかつての王の係累を担ぎ出し、その支配を強めながら民衆の反感を一身に担わせる巧みな政策が行なわれていた模様です。民衆の反感が民自らの象徴に向かうことによって、ローマ帝国は人々を分裂させ支配を一層強めるという政策が行なわれていました。紛争があれば治安部隊を派遣して監視する口実を得られます。洗礼者ヨハネの首を刎ねた領主ヘロデ・アンティパスはクリスマス物語に登場するヘロデ王の息子。その人柄はさておき、ヘロデ・アンティパスもまたローマ帝国の支配の中で、いつでも交換のできる象徴としての役目を与えられていたとも言えるでしょう。
ですから今朝の聖書の箇所で描かれるローマ帝国の軍隊が常駐する町・カファルナウムに「王の役人」がいたとしても、決して不思議な話ではありません。『ルカによる福音書』ではローマ軍の百人隊長の僕にでさえイエス・キリストは癒しのわざを行ない、隊長の任を担う将校に「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と語った舞台となる町。その町にいたと記される「王の役人」です。ヘロデ王の係累のもとで働いていたところで、カファルナウムに暮らせば領主ヘロデの立場の危うさも聞こえます。権力者は保身に汲々とするもの。そのもとで働いていたであろう「王の役人」。息子が病に罹患し、瀕死の状態にあったと申します。イエスのもとを訪ねるのは役人の身の上にとっては実に危ういことであったと思われますから、おそらくは自分の主人である王には何も言わず、役人はイエスのもとを訪ねたのではないでしょうか。
領主ヘロデは洗礼者ヨハネの首を刎ねただけでなく、十字架への歩み、その裁判の中で多くの世の権力者にたらい回しにされ、引き渡されていく中でただ沈黙するイエス・キリストを侮辱して総督ピラトのもとに送り返した人物でもあります。しかしながらそのもとで働く人々、例えばヘロデの執事の伴侶であるヨハナという女性は、実に献身的にイエスに仕え、復活の出来事の場に居合わせてもいます。危うい一線を超えているのです。イエス・キリストの救いのわざと申しますのは、世にあって属する組織や国など様々な分断の壁を問うことなく臨んでまいります。それは本日の箇所でも何ら変わりません。「あなたがたは、しるしや不思議なわざを見なければ決して信じない」。「主よ、こどもが死なないうちに、おいでください」。イエス・キリストと、助けを乞う役人の対話は当初は決して噛み合いません。しかしキリストは息子のために危うい一線を超えた役人の言葉を聞き逃しませんでした。「主よ」。本来ならばこの言葉は、この時代の世においては領主ヘロデを超えて、皇帝を呼ばわる場合にのみ用いられるはずです。けれどもローマ皇帝も領主ヘロデも、役人の息子のいのちを救う権限をもってはいません。その意味ではわが子との関わりの中で役人の新しい歩みが始まった瞬間が描かれているとも言えます。わが子のいのちを病から救いあげてくださる方こそが主であり、その主こそがイエスであると意図せずして役人は告白しているのです。分断や憎しみを超える鍵がこの物語には隠されています。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」。実に強い口調です。翌日家路を急ぐ役人のもとに使いの僕がやってまいります。「あなたの息子は生きる」とイエス・キリストが宣言したときに、息子のいのちは峠を越し、持ち直してしまった。そして、役人も家族もこぞって思わず口走った「主よ」という言葉を受け入れたのです。そこにはもはやヘロデの役人の姿はなく、一人の父親が家族とともにいたのです。役人の真の姿が露わにされた瞬間です。イエス・キリストの眼差しは、危うい一線を超えて助けを求めた役人が、世にある立場をすべてキリストに委ねたように、徹頭徹尾外に向けられています。その眼差しは、計り知れない力をもついのちを授ける父なる神に向けられています。いのちを絶つ仕業はどの為政者にもできます。隠蔽や数値の改竄もどの為政者にもできます。けれども危うい一線を超えて、憎しみや恐れの壁を越えて、いのちを活かすわざが行えるのはイエス・キリストだけです。真の統治者の姿があります。助けてくれとの切なる思いとともに、キリストを全面的に信頼する中で授かる知恵によって、混迷の時代に進むべき道、何をすればよいのかとの問いかけに相応しい道を授かりたいと願います。

2020年7月4日土曜日

2020年7月5日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

「目をあげて畑を見なさい」
 『ヨハネによる福音書』4章31~38節
説教:稲山聖修牧師
説教動画は「こちら」をクリック、またはタップしてください。

 教会への往復に、わたしは泉北高速鉄道の泉ヶ丘駅を利用しています。スーパーだけでなく駅の改札口付近にはATMもあり、ドラッグストアもありコンビニもありで少なくとも不便ではない環境が整えられており、たまに少々割高ながら文房具や電池、暑い時には業務用のアイスボックスなどを眺めもいたします。ところで、先日少々ショッキングな品物を見つけました。朝食がパン食である方にはお馴染みのメーカーにアヲハタというブランドがあります。この会社からイチゴをそのまま凍らせた「季節限定フローズンストロベリー」という商品を見つけたのです。第一印象としては何だろうと怪訝に思うほかありませんでした。と申しますのもイチゴは実に柔らかく繊細なフルーツでもあり、そのままいただく以外にはジャム以外に加工する術を概ね持ちません。イチゴミルクやイチゴジュースといった商品に入っているのはイチゴ風味のフレーバーを用いていることとなります。すっきりしない思いを抱えておりましたら、なるほどと感じ入る報道に触れました。それは本来ならばイチゴ狩りが行えず、イチゴが食べごろになっては廃棄せずにはおれないという「何のために丹精を込めてイチゴを育ててきたのか」と自問自答する農家のため息でありました。申すまでもなく緊急事態宣言下の期間です。人が集まれば三密の環境ができてしまい、小学校や家族連れの予約がキャンセルになる。しかもイチゴはインターネットでの販売にはそのままの仕方では堪えられません。となれば保存のためには凍らせるしかないのですが、解凍すれば味が損なわれてしまうのでこれも商品になりません。ではそれならばという苦肉の策が先ほどのフローズンストロベリーにいたったのだろうと気づかされました。農家も会社も生き延びるのに必死な時代であります。
 今朝の聖書の箇所では「食事」と「刈り入れ」との言葉をイエス・キリストはセットで用いています。「その間に弟子たちが『ラビ、食事をどうぞ』と勧めると、イエスは、『わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある』と言われた。弟子達は、『だれかが食べ物を持ってきたのだろうか』と互いに言った。イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、そのわざを成し遂げることである。あなたがたは『刈り入れまでまだ四ヶ月もある』と言っているではないか』」。「食事」と「刈り入れ」がセットであるということは、キリストは目の前にあるパンがどのような段取りを経て身体の養いになる道筋を見据えながら言葉を紡いでいるとも読取れます。そしてその「刈り入れ」の前提として畑があり土作りがあり、必要に応じて水路を切り拓き灌漑を行なうというところにまで思いは及んでいたことでありましょう。それら一連の作業では、一つひとつの働きが一期一会のタイミングを必要としています。「刈り入れまでまだ四ヶ月もある」というならば、その時に刈り入れなければ麦が発芽して粉にするには使い物にならなくなってしまいます。これは重大なことです。続けてイエス・キリストが語るのは「わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、ともに喜ぶのである』」とあるように「永遠の命に至る実」であり、「種を蒔く人も刈る人もともに喜ぶ」とあります。「永遠の命に至る実」とは『創世記』で「エデンの園」にあった善悪の知識の木と並んでそびえていた木にある、本来は人が触れてはいけないはずの実なのですが、その実は決して唯一のものではなく、麦の実りのように畑を埋め尽くしており「その種を蒔く人も刈る人もともに喜ぶ」とあるのです。福音書に記されているように、洗礼者ヨハネが伝えたのが神の審判であるならば、イエス・キリスト自らが宣べ伝えているのは「永遠の命を分かち合う喜び」であります。しかもキリストは、本来はユダヤの民と一緒に天を仰ぐなどあり得なかったサマリア人の土地でこの言葉を語っているというところに注目したいところ。なぜなら恩讐を超えたその実りが「イエス・キリストを世に遣わした神の御心を行ない、そのわざをなしとげる」わざでもあるというからです。わたしたちもすでに、自分では労苦することなく授かった実りを授かりながら日々を過ごしています。日常の事々もそうであり、おそらくこれからやってくるであろう新型コロナウイルスの流行の第二波にあったとしても、わたしたちも、そして教会も刈り入れのための報酬を必ず備えられるに違いありません。先週の日曜日には大切な教会員の告別式をみなさまの祈りの中で執り行うことができました。100年というご生涯は順風満帆な事柄ばかりではなかったはずです。けれどもその中で過ごされた歳月だからこその歩みを見せつけられた思いがいたしました。苦しいとき、辛いとき、イエス・キリストの示す畑を見あげて、喜びにあふれたいと願います。

2020年6月25日木曜日

2020年6月28日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

「永遠に渇くことのない水」
 『ヨハネによる福音書』4章6~10節 
説教:稲山聖修牧師

説教動画は「こちら」をクリック、又はタップしてください。

新型コロナウィルス感染症の報せを聞かない時はない日々が続いています。その中で日常の必須アイテムとして意識するようになったのがマスク、そして石鹸による手洗いやうがいという習慣です。世界中でウイルス感染による死者が増大する中で、こまめに水がふんだんに使えるというところに関しては感謝しなくてはならないと感じています。地球規模の見地からすれば、これは実に稀な生活環境であるといえるでしょう。
ところで焼けるような暑さ、強い日射しの中でイエス・キリストは、一見救い主らしからぬ姿を見せておられます。いつしか洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を連れてユダヤを去り、ガリラヤへ行く途中、サマリアを通らなければならなかったイエス・キリストは「旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」というのです。わたしたちが救い主として仰ぐイエスとは、旅に疲れる救い主でもあります。その「疲れ」とはどのようなものであったのか。「サマリアの女性が水をくみに来た。イエスは『水を飲ませてください』と言われた」。弟子は食べ物を買うために町に行っていたとありますから、名の記されないサマリアの女性にイエスは飲み水を乞うたことになります。イエス・キリストの疲れは渇きとともにあったとなりますが、この場面で心を寄せたいところは、弟子は食べ物を買いに出かけている一方で、サマリアの女性とイエス・キリストの間には、本来であればこれも金銭のやりとりによって手に入れる可能性もあるところの飲み水を贈り、そして受けるという関係が生じつつあったという点であります。ただしイエス・キリストの唐突な申し出に女性は戸惑います。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」。サマリアの女性は井戸の傍らに座り込んでいる男性がユダヤ人であるという点以外には何も分かりません。「ユダヤ人はサマリア人とは交際しなかった」とありますが、そこにはユダヤの民から寄せられる蔑みの念がありました。その中でイエス・キリストの眼差しは、決してサマリア人の女性を見下ろすのではなくて、下から女性を仰ぎながら、一連の物語は展開するのです。これは福音書に描かれた女性に対するイエスの態度として注目するべきところです。
女性の驚きにイエスは応えて、あなたが神の賜物を知り水を求めたのが誰かを知っていれば、寧ろあなたの方からその人に頼み、その人はあなたに清らかな水を与えただろうと返事をします。女性は驚き「あなたはわたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」。図らずも女性は、分断されているはずのユダヤ人とサマリア人共通の信仰の父であるヤコブの名を口にします。乾いた井戸の傍らで不倶戴天の間柄となっていたサマリア人の女性とユダヤ人でもあるイエス・キリストとの間に交わりが生まれます。「井戸の水を飲む者はまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。女性が言うには「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。水を巡る利権とは、小さな井戸ひとつだけでも、村単位・部族単位の争いに発展しかねない危うさを抱えています。単なる金銭のやりとりでは片付かない重大な危機をも秘めています。ペシャワール会の中村哲さんが殺害されたのも、現地にこの利権をめぐって快く思わない人々がいたからだとさえ言われているほどです。それほどまでに重大な事柄を引き合いに出しながら、女性とイエス・キリストとの対話の中で長い歴史の中で破壊されていたはずの交わりが、救い主の旅にくたびれた姿を皮切りにして新たにされ、潤いも豊かにされるだけでなく、わたしたちの交わりにもまた決して渇くことのない潤いが備えられるのです。
緊急事態宣言解除が行なわれ一見すると平穏な日常が還ってきたかのようにメディアでは報道されますが、わたしたちは時にその報道を聞く度知る度に渇きを覚えてまいります。どこかにごまかしがあるのではないのか、またはどこかに嘘があるのではないかと報せを聞く度に疑う態度が癖になってしまっているからです。もちろんイエス・キリストという真理に触れているわたしたちには、なおさらこの世を生きていく上では嘘も見えますし、だからこそ神の知恵を祈り求めるのでありますが、だからといってわたしたちはニヒルになるわけにはいきません。また世の中所詮そのようなものだろうと諦めるわけにもまいりません。道端に座り「水を飲ませてください」と呼び求めるイエス・キリストの声をわたしたちはすでに聞いてしまっているからです。家族に多くの不和を抱えていたサマリアの女性はその事実と向き合い、清らかな水をキリストとの関わりの中で授けられたのです。

2020年6月19日金曜日

2020年6月21日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もあります。)

「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」
『ヨハネによる福音書』3章22~30節
説教:稲山聖修牧師

説教動画は「こちら」をクリック、又はタップしてご覧ください。
(現在、泉北ニュータウン教会ホームページでは、従来の文字媒体の説教要旨に加えて、教会のメッセージ動画を視聴出来ます。
体調のすぐれない方や聖日礼拝出席が困難な場合には、教会ホームページを用いての自宅礼拝・在宅礼拝が可能です。どうぞご利用ください。)

【説教要旨】 聖書と救い主との関係を端的に示す絵画として参照される作品に、画家グリューネヴァルトによる『イーゼンハイムの祭壇画』があります。わたしたちがよく知るこの祭壇画とは、それほど高さのない十字架に釘打たれた、鞭の棘も刺さり、茨の冠も痛々しく、皮膚も場所によっては茶色から緑色に変色しているという生々しいキリストの姿と、右手の人差し指だけが異様に長く描かれた洗礼者ヨハネ、そしてその足元で十字架を見あげる小羊が象徴的に描かれているというものです。もともとは16世紀のドイツ語圏にある修道院付属施療院に置かれていました。ところでこの作品は、今日藝術一般で考えられるより、はるかに具体的な目的とともに用いられていました。この絵の置かれた修道院には、麦にとりついた細菌がもたらす毒物による症状に苦しむ患者が収容されていました。十字架のキリストには患者自らの変わり果てた姿を重ね、復活への希望を託すという役目を担っていました。洗礼者ヨハネとイエス・キリストとの関わりはその絵画の中では実に率直かつ濃密に表現されています。
しかし本日の聖書の箇所では、そのような濃密な関わりだけでなく、洗礼者ヨハネの弟子の間に広がった動揺もまた記されています。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しをされたあの人が、洗礼を授けています」。『マルコによる福音書』9章には、ある弟子がイエスに「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と告げる場面が描かれます。イエス・キリストはこの場面で「やめさせてはならない」と応えるのですが、今日の箇所ではイエス・キリスト自らが洗礼者ヨハネのわざに倣って清めの洗礼を授けているようです。ヨハネの弟子からすればこれは穏やかではありません。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と諫められても納得できたでしょうか。
洗礼者ヨハネの弟子とイエス・キリストの弟子を較べますと、ヨハネの弟子はヨハネの生き方や教えに惹かれて主体的にその道に入ったという態度がはっきりしています。それはキリストの弟子のように招きを受けて従った受動性よりは自ら進んでという思いが強いようでもあります。それだけに、洗礼者ヨハネの弟子のわだかまりには相当なものがあったと想像いたします。だからこそ、そのような弟子を諫めるヨハネの言葉「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」との言葉が記されなくてはならなかったのでしょう。「衰えねばならない」。考えてみればこの言葉にはこの弟子だけではなく、わたしたちにもまた、これまた戸惑いを覚える他ない異様な言葉として響くのです。「衰える」というありようは、わたしたちにはマイナスの言葉です。わたしたちの日常は「衰え」を拒絶し、拒否しようとする生活態度から成り立っていると申しても過言ではありません。しかしそうは申しても、時の経過とともに迫る様々な衰えからは決して自由になれません。どうすればよいのでしょうか。
そこで気づかされるのは、わたしたちは神の前に立つときに、主語を見直す必要があるという話なのです。「イエス・キリストを信じるわたしたちはどうするべきなのか」ではなく「イエス・キリストはわたしたちをどこへと招いているのか」と問うのです。そのように問うた時に、わたしたちは神さまとの関わりの中で、初めて自分の足元が見えてくるのではないでしょうか。たとえ昔の通りにはいかないとしても、その場がイエス・キリストの招いたところであれば、そこでわたしたちは精一杯神さまの招きに応えていけるのです。
現在全国の教会は感染症予防を契機として礼拝のありかたを見直しています。わたしたちも例に漏れません。これが自分のスケッチとは異なるとの呟きを生んでいるかもしれません。他方で奉仕を「当番」として担うあり方に疲れていた方には別の意味を持っているかもしれません。わたしたちは今、奉仕そのものの中に喜びを見出してこそ始めて、教会が愛に満ちた証しの場になるのだと主から言われているようです。その中でわたしたちは喜びに満ちてこう語らうことができるのです。「あの方は栄えなければならない」。「あの方」とは、ヨハネの目に映るキリストであり、キリストに隔てなく愛されている、身近で地球規模のわたしたちの隣人です。十字架で衰え息をひきとったイエス・キリストは、葬られて後に復活され、聖霊の働きによって神の愛のわざを伝える力を委ねられました。洗礼者ヨハネの言葉はイエス・キリストに託され、使徒そしてわたしたちに向けられています。神の愛の力により、キリストに招かれた場でいのちの光を見出し、喜びとともに歩む者となりましょう。

2020年6月11日木曜日

2020年6月14日(日) 説教(動画付:自宅・在宅礼拝用)

「神の恵みの再分配」『ヨハネによる福音書』3章 7~14節
説教:稲山聖修牧師
動画は「こちら」をクリック、又はタップしてご覧ください。

 旧約聖書『民数記』21章には、祭司アロンの死後も相変わらず不平を呟く、エジプト脱出の旅の途上のイスラエルの民の姿が描かれます。「なぜ、われわれをエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では気力も失せてしまいます」。その呟きに対して奴隷解放の神は炎の蛇を送り、イスラエルの民の中からは多くの死者が生じます。恐怖のあまり人々はモーセに助けを求めます。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください」。モーセが民のために主に祈ると、主はモーセに「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見あげれば、命を得る」と答えます。モーセは青銅で蛇を造り、旗竿の先に掲げます。炎の蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと命を得た、と記されています。いのちの旗印がそこにはありました。
『出エジプト記』から『申命記』にいたるまで、旧約聖書ではエジプトで奴隷となっていた人々を解放するようにとの、神からの命令に応じたモーセの物語が記されています。その中でも蛇は独特の意味合いを帯びてまいります。創世記ではアダムの伴侶を誘惑したところの、かの生き物が、エジプト脱出の物語ではいのちに関わる知恵と権威を現わす象徴として用いられます。新型コロナウイルス関連の報道で知られるようになった世界保健機構(WHO)も杖と蛇をシンボルとして用いています。古代ギリシアの文化圏ではアスクレピオスの杖として、医学の象徴にさえなります。人を活かしもし、また倒しもする力の象徴として用いられていることとなります。
 本日の聖書の箇所では夜半の訪問者ニコデモとイエス・キリストとの対話が描かれます。ユダヤ教の律法学者の中にはこのようにイエスにただならない関心をいだきながら、好意的に対話を重ねた者もいたと『ヨハネによる福音書』は書き記します。けれどもイエスの言葉はニコデモの理解を超えていました。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモはただの人ではありません。幼いころから聖書とともに暮らし、日々研鑽を重ねてきた古代ユダヤ教のファリサイ派の律法学者です。旧約聖書の預言者たちも神の国を待ち望んでいたのにも拘らず「神の国を仰ぐ」ために「新たに生まれる」という出来事は彼には隠されたままです。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことも分からないのか」とのイエスの言葉にそれは示されていますが、それではわたしたちはキリストの「新たに生まれる」との言葉に敏感でしょうか。
人はよく出会いという言葉を口にします。けれどもわたしたちが安心できるのは予定されているところの出会いであって、スケジュールにない出会いはなるべくなら避けようとします。おそらくはニコデモもそのような出会いの中でこれまで生きてきたのではないでしょうか。しかしそのゆえに、本来ならば人々に聖書を伝えるはずのニコデモでさえ、神の国を仰ぐ道につながる出会いを避け続けてきたように思います。いわんやわたしたちにおいてをやであります。電車の中でびっしりと予定の記された手帳にうっとりしている会社員の姿に異様さを記録したアメリカ人のジャーナリストがおりましたが、全てが自分の思う通りに運ぶというところでの平穏さに甘んじておりますと、わたしたちは神の国、つまり神の愛による支配をわがこととしては受け入れられないようです。
 ニコデモとイエスを結んだ青銅の蛇の物語は、イスラエルの民にとっての予定調和、約束の地を目指す旅は平穏に満ちたものという予想を覆すものでした。イスラエルの民は絶えず自らの立てた予想を覆されることによってのみ、神に助けを求めて祈りを献げることができたともいえるでしょう。『民数記』に描かれた「炎の蛇」が審判を告げ知らせた洗礼者ヨハネの役目であるならば、モーセの掲げた「青銅の蛇」には、十字架に上げられる救い主という驚天動地の出来事が重ねられています。たとえイエスが配慮に満ちた人であったとしても、十字架に上げられなければわたしたちは自らの破れに何ら気づくことはなく、そしてその破れを超えて注がれる神の恵みにも腑に落ち、生き方を変えられることはなかったでありましょう。傷を負い、身動きのとれないその人との出会いなくして、わたしたちは新たに生まれ、神の愛に潜む痛みが、わたしたちの苦しみを癒す力であると知ることはなかったでしょう。わたしは愛されもせず見捨てられているという絶望は、キリストの苦しみと痛みに満ちた愛によって大転換させられます。それはわたしたちの予想を超えた魂の震えに満ちています。幸せを人と比べず、キリストを見つめる中で、神の恵みの新たな分かち合いは見捨てられた思いを抱く人ほどに強く及びます。