『ヨハネによる福音書』10章40~42節
説教:稲山聖修牧師
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『ヨハネによる福音書』の冒頭では「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とある通り、洗礼者ヨハネは『ヨハネによる福音書』ではイエス・キリストを指し示す一本の指として重要な役割を担っています。それはこの福音書の冒頭1章1~42節までに筆が及んでいるところからも分かるとおりであります。本日、わたしたちが心に留めたいのはこのような『ヨハネによる福音書』の書き手の集団と、本日の聖書の箇所で描かれる人々の言わば「温度差」です。洗礼者ヨハネはイエス・キリストを見事に指し示しました。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその方の履物のひもを解く資格もない。」1章33節にはこう記されます。「わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストを証しするという一大事業をやってのけたのであります。旧約聖書と新約聖書を繋ぐ最後の預言者とさえ呼ばれる理由がそこにあります。しかし本日の箇所ではどうだというのでしょうか。洗礼者ヨハネが最初に洗礼を授けていた所にイエスが滞在されたと記した後に描かれる人々の言葉は「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」。「ヨハネは何のしるしも行わなかった」とのワンフレーズで、果たして洗礼者ヨハネの働きは総括されるというのでしょうか。そしてイエス・キリストと対比されるべきだというのでしょうか。この温度差にわたしたちは戸惑うのです。
「ヨハネは何のしるしも行なわなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」。イエス・キリストが聞いた言葉はこのようなものでした。しるしと証し。わたしたちが聖書を読むうえで混乱するこの二つの言葉ですが、福音書でははっきりとした区別があります。しるしの場合は様々な使い方があります。それは決してよい意味ばかりではない場合もあります。『マタイによる福音書』16章1~4節で、イエス・キリストを試そうとして天からのしるしを見せて欲しいと願うファリサイ派やサドカイ派に対し、キリストは次のように答えます。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが・・・」と語ります。イエス・キリストとわたしたちという、わたしたちが全幅の信頼を置くべき相手に対して、救い主としての証拠を求めるという態度が「しるし」という言葉には見え隠れします。それは場合によっては病人への癒しであったり、5000人もの人々へ食を分かち合うわざとして表現されますが、このような「しるし」というものは、場合によっては求める者の関心や興味、必要を満たすだけのものに留まる場合もあります。今でいう福祉法人の運営であっても、人々の満足度の追求以上にイエス・キリストの宣教のわざの道を整えなければ、到底証しにはなりません。証しと申します言葉は、本来は殉教すら意味する全身全霊を賭したわざである以上に、イエス・キリストに従う喜びに満ちた働きです。そして証しに触れた人々に某かのお土産としての問いかけを残すものでもあります。
洗礼者ヨハネが水による洗礼を授けたヨルダン川。確かにヨルダン川はところによっては川幅も10メートル足らずという、決して大河とは言いがたい川です。けれども新約聖書の世界では、川に堤防が築かれて治水に万全の体制は取られてはいません。「しるし」と「証し」の間には、時折濁流押し寄せるまことに激しい川の流れがあって、それが人々とイエス・キリストの間を遮るという事態もあり得ます。わたしたちの人間関係にも時としてそれは言えます。相手に対して激しく証拠を求めるとき、そのわざは相手に対する不信が前提になっています。いくら証拠が出てきても、相手を信頼しなければ意味がないのです。けれどもイエス・キリストは、川の流れが激しくとも、ヨルダン川で洗礼者ヨハネが救い主の証しを立てた場所に来られるのです。多くの人が破れを抱えながらもイエスを信じたとあります。洗礼者ヨハネのいのちがけの証しはこのように人々の道しるべとなっていくのです。そのような証しを立てるなら、困難な時代を迎えるほどに、主の交わりは垣根を越えて広がっていくこととなります。祈りましょう。