『マタイによる福音書』23章25~36節
説教:稲山聖修牧師
説教動画は「こちら」をクリック、もしくは、タップしてください。
わたしたちの手元にある、永眠者名簿を開き、天に召されている教会員ならびに教会関係者の人数を数えましたところ、95名の方々のお名前を確認いたしました。実際の教会員を示す現住陪餐会員数が現時点67名ですから、天に召されている兄弟姉妹の方が多いということになります。この事実を聞いて、この場に集められた方々は果たしてお嘆きになるでしょうか。それとも組織としての教会の将来を憂いて、マイペースに見える牧師に違和感を感じられるでしょうか。
確かに世に遺されて、わたしたちは時折深い寂しさや悲しみに塞ぎこむことはないと言えば嘘でしょうし、わけもなく流れる涙にいったいどうしたことかと途方に暮れたり、いつの間にか時間が経つ早さに驚かずにはおれない時があります。けれども牧師個人の所感としてではなく、聖書の言葉がわたしたちに語りかけるメッセージに基づきますと、わたしたちが献げているこの礼拝は、永眠者記念礼拝に限らず、一年間全てに及んで天に召されたわたしたちの大切な方々とともに献げている感謝に満ちた交わりでもあると申せましょう。仏教の法事では初七日、四十九日といった七の倍数の日に法要あるいは法事が行われますが、わたしたちにとりましてはそのようなわざは意味合いが異なるだけでなく、何もとりたてて特別でもありません。一週間に一度必ず聖日礼拝を献げて、召された兄弟姉妹との交わりを一層重ねていくこととなります。ともにおられる神、そして神の子イエス・キリストがおられる以上、わたしたちは必ずこの礼拝で召された方々を思い出し、交わりを重ねているのであります。
思い起せば今年度はその始めから、例年とは異なる仕方で礼拝を捧げる期間が続きました。新型コロナウイルス感染症拡大への対策としてほぼひと月にわたり、在宅礼拝という仕方で献げる礼拝を第一として、礼拝堂に集まる必要はないとの立場を表明いたしました。四月下旬からほぼひと月、主たる礼拝の場は各々のご家庭といたしましたが、他方でそれでは礼拝堂には誰もいなくてよいのだろうか、との煩悶がありました。礼拝は単なるこの世の集まりには留まらないとの声なき声を聴きながら、結果としては復活節にあって、たとえそこに目に見える仕方で誰もいなくても、必ず誰かがそこにいる、誰かがともにいるとの心情を捨てきれず、たとえ牧師だけであっても、各々の在宅礼拝を支えたいとの願いもあり、円形に椅子を並べてメッセージを整え、召された兄弟姉妹に語りかけながら強く励まされた者でありました。その体験は今やかけがえのない財産となって聖書の言葉のとりつぎに活かされています。
本日の聖書の箇所は、イエス・キリストがその時代のユダヤ教の律法学者、つまり旧約聖書を徹底的に読みぬきながら人々にその教えを宣べ伝える役目を担っているはずの人々への批判が記されています。その内容は、杯や皿の外側はきれいにするが内側は強欲と放縦で満ちているという、形ばかりとなった、今日で言えばファッションに過ぎなくなった立ち振る舞いとしての信仰のあり方、そして外側は美しく装いながらも、内側は死者の骨とあらゆる汚れ、すなわち聖書からいのちの希望を汲みだして人々に分かち合うというあり方ができなくなっているあり方、さらには、隣にいる神の人の言葉、御使いの言葉、神から託された言葉を語る人々には耳を塞ぎながら、時を置けばその人々を崇め奉るという、神との関わりを忘れてしまったあり方への指摘があります。鼻から息をする者に拠り頼んでも、人を活かし、そして死の淵より復活させる神のわざが見えないとの怠慢さを「不幸である」と断言するのです。
それでは反対に、イエス・キリストが幸いであると語るのはどのような人々を指しているのでしょうか。それは「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「神の義に飢え渇く人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「神の正義のために迫害される人々」「キリストのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人々」です。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」とイエス・キリストは語ります。幸いな人々が何人いるのか、具体的には誰なのかということについては、イエス・キリストは直接には語りません。けれども「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」とされる人々の中に、先に述べた95名の方々は含まれているのです。これほど心強いことはないと思うのです。
今年度の主題聖句は「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」という『ヨハネの黙示録』の言葉です。いずれわたしたちも眠りにつくときが訪れます。汝の死を覚えよとの言葉の通りですが、神の愛は、その死を呑み込む力があります。召された人々にいつお会いしても恥ずかしくない生き方をしてまいりましょう。95名の方々は確かな足跡を遺されました。キリストに従う道。今もわたしたちを勇気づけ励ましています。
確かに世に遺されて、わたしたちは時折深い寂しさや悲しみに塞ぎこむことはないと言えば嘘でしょうし、わけもなく流れる涙にいったいどうしたことかと途方に暮れたり、いつの間にか時間が経つ早さに驚かずにはおれない時があります。けれども牧師個人の所感としてではなく、聖書の言葉がわたしたちに語りかけるメッセージに基づきますと、わたしたちが献げているこの礼拝は、永眠者記念礼拝に限らず、一年間全てに及んで天に召されたわたしたちの大切な方々とともに献げている感謝に満ちた交わりでもあると申せましょう。仏教の法事では初七日、四十九日といった七の倍数の日に法要あるいは法事が行われますが、わたしたちにとりましてはそのようなわざは意味合いが異なるだけでなく、何もとりたてて特別でもありません。一週間に一度必ず聖日礼拝を献げて、召された兄弟姉妹との交わりを一層重ねていくこととなります。ともにおられる神、そして神の子イエス・キリストがおられる以上、わたしたちは必ずこの礼拝で召された方々を思い出し、交わりを重ねているのであります。
思い起せば今年度はその始めから、例年とは異なる仕方で礼拝を捧げる期間が続きました。新型コロナウイルス感染症拡大への対策としてほぼひと月にわたり、在宅礼拝という仕方で献げる礼拝を第一として、礼拝堂に集まる必要はないとの立場を表明いたしました。四月下旬からほぼひと月、主たる礼拝の場は各々のご家庭といたしましたが、他方でそれでは礼拝堂には誰もいなくてよいのだろうか、との煩悶がありました。礼拝は単なるこの世の集まりには留まらないとの声なき声を聴きながら、結果としては復活節にあって、たとえそこに目に見える仕方で誰もいなくても、必ず誰かがそこにいる、誰かがともにいるとの心情を捨てきれず、たとえ牧師だけであっても、各々の在宅礼拝を支えたいとの願いもあり、円形に椅子を並べてメッセージを整え、召された兄弟姉妹に語りかけながら強く励まされた者でありました。その体験は今やかけがえのない財産となって聖書の言葉のとりつぎに活かされています。
本日の聖書の箇所は、イエス・キリストがその時代のユダヤ教の律法学者、つまり旧約聖書を徹底的に読みぬきながら人々にその教えを宣べ伝える役目を担っているはずの人々への批判が記されています。その内容は、杯や皿の外側はきれいにするが内側は強欲と放縦で満ちているという、形ばかりとなった、今日で言えばファッションに過ぎなくなった立ち振る舞いとしての信仰のあり方、そして外側は美しく装いながらも、内側は死者の骨とあらゆる汚れ、すなわち聖書からいのちの希望を汲みだして人々に分かち合うというあり方ができなくなっているあり方、さらには、隣にいる神の人の言葉、御使いの言葉、神から託された言葉を語る人々には耳を塞ぎながら、時を置けばその人々を崇め奉るという、神との関わりを忘れてしまったあり方への指摘があります。鼻から息をする者に拠り頼んでも、人を活かし、そして死の淵より復活させる神のわざが見えないとの怠慢さを「不幸である」と断言するのです。
それでは反対に、イエス・キリストが幸いであると語るのはどのような人々を指しているのでしょうか。それは「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「神の義に飢え渇く人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「神の正義のために迫害される人々」「キリストのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる人々」です。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」とイエス・キリストは語ります。幸いな人々が何人いるのか、具体的には誰なのかということについては、イエス・キリストは直接には語りません。けれども「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」とされる人々の中に、先に述べた95名の方々は含まれているのです。これほど心強いことはないと思うのです。
今年度の主題聖句は「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」という『ヨハネの黙示録』の言葉です。いずれわたしたちも眠りにつくときが訪れます。汝の死を覚えよとの言葉の通りですが、神の愛は、その死を呑み込む力があります。召された人々にいつお会いしても恥ずかしくない生き方をしてまいりましょう。95名の方々は確かな足跡を遺されました。キリストに従う道。今もわたしたちを勇気づけ励ましています。