「わたしたちを悪よりお救いください」
『ヨハネによる福音書』17章13~26節
説教:稲山聖修牧師
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『ヨハネによる福音書』を、他の福音書から際立たせる特徴として、イエス・キリストが祭司長たちの下役に身柄を拘束されるその前の「ゲツセマネの祈り」とは異なる祈りを献げており、しかもその内容が十字架刑を目前にしての恐怖と苦しみを神に訴えるというよりは、ご自身に従ってきた、世に遺される人々をとりなす遺言のようであるところに見出せます。この箇所で記されるのは「時が満ちた」という意味で、十字架での処刑と復活を通して神の栄光がいよいよ実現するとの確信です。17章11節には「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」。実に粛々と父なる神に、とりなしの祈りを献げているのが分かります。
しかしその理由はいったい何だというのでしょうか。それは次の箇所に立ち入ることで明らかにされます。「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」。「彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」。この言葉には、敵対関係にある者に対して剣を振うのは言うに及ばず、神から授かったいのちを徒に無駄にするような意味での殉教に焦るありかたを堅く誡めながら、諸々の誘惑から守るようにとの、初代教会で受けいられていくイエス・キリストの教えが記されています。
史実性には乏しいとされる『ヨハネによる福音書』は、他の福音書と較べて最も後の世に成立している分、初代教会の内外にうごめく様々な誘惑や混乱を見つめていたはずです。その中で献げられる「彼らを悪い者から守ってくださるように」とのイエス・キリストの祈りは切実です。その背景には「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という主の祈りに連なる『マタイによる福音書』6章13節だけに限りません。中でもいわゆる「荒れ野の誘惑」として名高い、マタイ伝とルカ伝にある誘惑の物語にも詳しいところです。『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』では、洗礼者ヨハネから水による洗礼を授かり、救い主としての歩みを始めるにあたり真っ先に出会う存在が、重い病に罹患した人でも心身に某かの障碍を抱えていた人でも、また異邦の民でもなくて、「誘惑する者」であったところからも窺えます。そこには石をパンに代えてみよとの誘惑、つまり養いや教会のわざを支える糧をめぐる誘惑や「神の子なら飛び降りてみろ」という、直接には神を試す誘惑、立ち入って表現すると神との関わりや隣人との関わりを「試す」ことによって事実上「疑う」という誘惑、そして「世の国々とその繁栄ぶり」を見せつけてキリストへの眼差しや交わりから引き離そうとする誘惑が記されており、以上の誘惑からイエスもまた決して縁なき者ではなかったことが記されています。イエス・キリストは悪に翻弄されるわたしたちに絶えず寄りそってくださるのです。
それだけではありません。わたしたちが最も「悪い者」の甘い言葉に弄ばれるのは、万事が首尾よくうまく運ぶという場合だけに限らず、むしろ万事休すといった場面で祈りを忘れてしまったときではないでしょうか。『マタイによる福音書』で幸いをめぐる言葉が山上の説教として記されますが、その中には「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい、大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」とあります。この言葉は当時のユダヤ教やローマ帝国といった外部からの迫害に限らず、実は教会内部にも巣くっていた争いをも暗示していると思われます。それは初代教会内部の派閥争いについてパウロが『コリントの信徒への手紙Ⅰ』で書き記し、諫めるとおりです。キリストに眼差しを向けるよりも、人の立ち振る舞いに気をとられ足下をすくわれていく混乱があります。けれども『ヨハネによる福音書』でイエス・キリストは、これから自ら味わう苦難への恐れよりも、遺される人々のために懸命になってとりなしの祈りを献げてくださっています。救い主自らの苦しみに代わって人々が、聖書の言葉の正しさによって大いに祝福されるために、です。
わたしたちが主の祈りをはじめとして、食前の祈りも含めてあらゆる祈りを献げるときには、イエス・キリストがわたしたちのためにとりなし続け、神の愛の力を注いでくださっている事実を深く胸に刻みたいと願います。