2020年11月25日水曜日

2020年11月29日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「救い主の訪れは隠されたところに」
『マタイによる福音書』24章36~44節 
説教:稲山聖修牧師 

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 『マタイによる福音書』の記された時代だけでなく、そこで描かれる舞台にあっても、書き手が筆に力を込めるのが「終末」という枠組み、そしてその枠組みはそのまま旧約聖書に記された約束の完成に繋がります。不条理な苦しみに喘ぐ人々が解放されたいと願い、ある時には時代の変革や革命を、そしてまたある時には時の巨大なうねりを感じながら危機意識のもとで暮らしている世にあって、世の終末という考え方は多くの人々の間に広まっていきます。

 特に福音書におきまして終末を語る役割を担ったのは洗礼者ヨハネでした。『マタイによる福音書』3章では「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。<荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ>』」。洗礼者ヨハネは、最も初期に成立した『マルコによる福音書』で次の記事がそれとしてのクリスマス物語がない中で一層際立ちます。「神の子イエス・キリストの福音の始め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする』。<主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ>」。他の福音書では劇的なドラマとして描かれるはずのクリスマス物語を『マルコによる福音書』では「神の子イエス・キリストの福音の始め」の一行に圧縮します。歴史的な意味でイエス・キリストが世に遣わされた時に遡るほど、非常に切迫した終末思想に触れるにいたります。

 ところで洗礼者ヨハネの示す終末とは、その時代の既得権を味わっている人々を断罪するという審判の性格の強いメッセージでした。「悔い改めよ」という洗礼者ヨハネのメッセージに触れて、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、<罪>を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けます。この箇所でいう罪とは、わたしたちが概して様々な文学でいう抽象化された「因果」と重なる<罪>や<原罪>といったものではありません。<原罪>という考え方はそれとしては5世紀に始まるもので、新約聖書からすればかなり後の時代に生まれます。福音書と密に関わる『旧約聖書』では<現行罪>つまり、実際に神の誡めを破り、人や財産、いのちを心身にわたり傷つけ、その負い目に苦しんではいるけれども、そのまことの原因については聞き及ばないという場合、または病や貧困も、神の約束を破ったという実際の行いに由来するものとして理解され、人の力では計り知れない重荷として人々の心身に重くのしかかっていました。だから洗礼者ヨハネは集まってみた人々には、黙々と清めの洗礼を授ける一方、ファリサイ派やサドカイ派といった、その時代で相応の立場にある人々に対しては「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めに相応しい実を結べ」と断罪するのです。

 しかし今朝の聖書の箇所に記されたイエス・キリストの終末をめぐるメッセージは、洗礼者ヨハネの教えとはその内容が異なっていることに気づかされます。それは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と、イエス・キリスト自らもまた、終末の時がいつ訪れるのかを知らない、と語るのです。これは洗礼者ヨハネには見られないメッセージです。さらにヨハネにはないメッセージとしては「目を覚ましていなさい」「あなた方も用意しておきなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」という目覚めのメッセージを審判に先んじて語るのであります。もっといえば注意深くありなさいとの意味も含んでいることでしょう。 

 思えばクリスマス物語として実に壮大なスケールで描かれる『ルカによる福音書』の場合、キリストの誕生本編に関わるお話は2章から始まりますが、まずその名前が記されるのは、住民登録の勅令を発したローマ皇帝アウグストゥスです。初代ローマ皇帝として、支配される人々やローマ市民について生殺与奪の権限を担っていたとされる人物です。そしてその次に記されるのはシリア州の総督であるキリニウスです。次いでヨセフとマリアが描かれますが、それでは第2章の物語の中でイエス・キリストの誕生が天使に告げられるのは誰でしょうか。それはこの場面では名前すら記されない羊飼いたちでありました。最も貧しい、地主に縛られた暮しを続けていた羊飼いが、真っ先に飼い葉桶のイエスのもとへと招かれます。イエス・キリストの語る、神の愛の支配の完成である終末において、この無名の羊飼いが救いから漏れるなどとは決してあり得ないと福音書は語ります。コロナ禍で先の見えない時代。不況で先の見えない時代。世の混乱の中で先の見えない時であるからこそ、羊飼い達が救いの席に真っ先に招かれたのではないでしょうか。そこにはまことの平安があります。まことの癒しがあり慰めがあります。クランツに灯されたその小さな光は、やがて始まる神の愛による大いなる支配を語ります。主の誕生の備えである待降節を深く味わいましょう。

2020年11月20日金曜日

2020年11月22日 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「キリストとともにあるチャレンジャー」
『マタイによる福音書』26章31~35節 
説教:稲山聖修牧師

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イエス・キリストの弟子たちは、飢えた虎の母子に身を献げる仏教説話の物語とは異なり、福音書の物語の中ではその頼りなさをまことにあからさまに晒しています。エジプトで先祖が奴隷の家から解放された記念である「過越の祭の食事」を囲んだ後、12人の弟子はイエスとともに「讃美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけ」ますが、その後に聞くのは「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』とあるからだ」との言葉です。物語でイエスが用いるのは『ゼカリヤ書』13章7~9節の言葉。この短い預言者の書には次のようにあります。「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ。わたしの同僚であった男に立ち向かえと、万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ」。続く言葉には、羊の群れの三分の二は死に絶え、残った三分の一は火に投じられ、金銀を精錬するように扱われ、この残った羊の群れに重ねられた人々が「わが名を呼べば」、すなわち主なる神の名を呼べばその呼びかけは聞き届けられ、人は「主こそわたしの神」と応えると記されます。ただし『新約聖書』でこの記事に重ねられた弟子の歩みはやがては死に絶えていく羊の中に置かれていくようにも読めなくはありません。『旧約聖書』ではイスラエルの民に向けられたこの言葉が、抉りこまれるようにして投げ込まれる中、その場にいる12人の弟子全てが狼狽するのであります。この狼狽の中、主の晩餐の席でイエス抹殺を謀る祭司たちへの引き渡しの予告に弟子が狼狽えた場面と同じやりとりが繰り返されます。かの食卓では「まさかわたしのことでは」とイスカリオテのユダが語ります。本日の箇所ではシモン・ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」との決意を表明します。この態度に基づくならば「まさかわたしのことでは」とおののきながら自らを指さしたであろうイスカリオテのユダよりも、ペトロの態度の方が傲慢です。なぜならば「他の仲間はみなつまずくが、わたしは決してつまずかない」という、他の弟子に少しも配慮の念のない姿勢があらわにされているからです。もっと言えば「つまずき」という出来事が他人事であり、当事者としてのおののきが一切欠けているのです。だからこそイスカリオテのユダよりも質が悪いと申しあげた次第。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。このキリストの誡めの言葉でさえペトロの強情さをより鮮やかに際立たせるだけです。「弟子たちも皆、同じように言った」とありますから、その意味では救いようのない集まりにも見えます。

やがてイエス・キリストの誡めの言葉は実現しイエス自ら捕縛されて大祭司のもとに連行されていく中、ペトロはお言葉通りの頼りなさをさらけ出してしまいます。ペトロはイエスとともに捕らえられるのが怖くなり逃げだし、大祭司の家の外で泣き出すという様です。実に無様です。無様さのどん底の中で十字架のキリストになおも背を向けて姿を隠すのもこの人たちです。何とも無責任極まりありません。

それから月日が経ちました。十字架と復活の出来事から50年を経て編まれた物語の中で、弟子とキリストとの出会いの原点はどのように描かれているというのでしょうか。ガリラヤの湖畔。一晩中働いても実りを授からず、茫然自失の漁師たちは虚ろな眼差しでただただ網のほつれや破れを繕うほかありません。湖の岸辺に響く声がします。「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。昼日中に漁をするという、漁師の常識からすれば実に荒唐無稽な言葉を投げかける人がそこには立っていました。「夜通し苦労したが収穫はなかった」というため息の中でなおも「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と、その声が示した可能性に賭ける無学な人の姿がありました。湖の真中で、この世のただ中で網を降ろしていこうとする弟子の姿があります。かくして網が破れそうになるほどの収穫を漁師は授かりました。漁師はキリスト以外の誰かに相談して網を投げたのではありません。相談しながら網を投げたのはむしろ夜の闇の中でした。漁師たちは戸惑い、時にはイエス・キリストの言葉に憤りさえ覚えながら昼日中に網を降ろしました。その収穫に驚いたのは漁師であった弟子。「主よわたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。ひれ伏すペトロの姿には、キリストに背を向けた後ろめたさと、新たに響く「沖に漕ぎ出しなさい」との言葉への従順さが同居しています。わたしたちはこの「沖へ漕ぎ出して網を降ろしなさい」との声を受けとめているでしょうか。教会も、教会に根を降ろす関連事業にも、そしてわたしたち各々の日常にもこの声は絶えず響いています。証しの多様性という豊かさには、キリストがともにおられます。主とともにあるチャレンジャーとして、恐れず網を投げていきましょう。

2020年11月13日金曜日

2020年11月15日(日) 説教 (自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「倍返しを超えていくキリストの道」
『マタイによる福音書』5章38~48節  

説教:稲山聖修牧師

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 新約聖書の時からさらにさかのぼること1700年と半ば。旧約聖書の物語の世界では族長時代が相当するかもしれません。この時代、現代のイラク周辺に栄えた文明の中で画期的な出来事が起きます。人類史上最も古い成文法である『ハンムラビ法典』の誕生。それは旧約聖書の誡めにも影響を及ぼしています。ところで『ハンムラビ法典』と言えば同害復讐法。ただしそれは単なる「目には目を、歯には歯を」では終わりませんでした。その対象としては自由人と奴隷、そして国家に所有された隷属民とされる半自由人が扱われています。条文では外科医の料金と手術に失敗した折の損害賠償、大工の賃料や家が倒壊し死者が出た際の損害賠償など多岐にわたりますが、代表としては「もし人がほかの人の目を損なったならば、彼らはその目を損なわなければならない」「もし人が人の骨を折ったならば、彼らは彼の骨を折らなければならない」「もし人が半自由人の目を損なったか、半自由人の骨を折ったならば、彼は銀1マナを支払わなければならない」「もし人が他の人の奴隷の目を損なったか、人の奴隷の骨を折ったならば、彼は奴隷の値段の半分を支払わなければならない」。『ハンムラビ法典』の同害復讐法は、被害者も加害者も自由人の場合にのみ適用され、被害者が半自由人の場合や奴隷の場合は賠償になると申します。裁判の場では裁判官の自由裁量の余地があり、自由人同士でさえ必ずしも厳格に適用されてはいなかったと申します。

 そのように考えますと、主人と奴隷が、例えばアブラハムとハガルのようなもはや金銭では測りがたい絆のもとで暮らしていた場合には、根本的には人と人の関係ですから、杓子定規的な運用はされなかったと考えられます。むしろ調停で済む場合には示談を進める手続きとして、個別のケースによるさまざまな判例があった可能性もあります。さらに当事者だけではなく裁判官がその場にいたとなると、今でいう報復原理というよりも「どうすれば立場の弱い者、または被害の大きかった者を救済できるのか」との態度は無視できないでしょう。大根一本盗んだからといって、村の掟に従ってこどもを撲殺するというような残虐さを認めるというのであれば、別段法律を設ける必要もなかったでしょうし、憎しみに満ちた私刑で充分であると考えられるからです。

 けれども福音書の世界では、すでに同害復讐法が含む救済措置の側面は全く抜け落ちてしまっているようです。それはイエス・キリストの教えとして記される本日の箇所から明らかです。「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。単なる報復原理に堕落した同害復讐法とは全く異なる愛の教えを、イエス・キリストは人々に語るのです。なぜでしょうか。人は憎しみを正当化するために仮初の正義を設けます。しかしその見せかけの正義は極めて小さな枠に留まり必ずそこには情念を正当化するための嘘が入り込みます。神の真理は一つであるとしても、人の正義は星の数ほどあり、その正義が振りかざされた場合、決して出会いや交わりは生まれません。さらに質の悪い事には、憎しみはその人の感情だけではなく、その人の時間までも止めてしまいます。人を育むことがないのです。成熟に至る道を止めてしまうのです。それよりも、その人がなぜそのような行為に及んだのかを辿る方が、剣を振るうよりもはるかに実りをもたらすというものです。テレビドラマを賑わせた「倍返し」には確かに爽快感が伴いますが、あまりに刹那的なガス抜きに終わってしまいます。そのような世知辛い時代にわたしたちは立っているのかもしれません。

 人々の前にそびえる分断という名の壁。もしわたしたちの時代に、国家単位で報復原理しかもたらさない、劣化した同害復讐法を持ち込むのであれば、結果は知れています。それは身の破滅だけでなく地球そのものの破滅をも意味します。イエス・キリストはその人の、その民の、神が創造された世界全体の実りを喜ぶのであって、破滅を見てほくそ笑む方ではありません。「右の頬を向けられたら左の頬も」は、恥をものともしない生き方を可能にします。「下着をとる者には上着をも」というあり方は簒奪を恐れない在り方を可能にします。1ミリオン、すなわち厳密には1キロ480メートルの独り歩きを強いる者は、その人自らが恐れるその道をともに倍歩めという「愛の倍返し」を語ります。敵を愛し、迫害する者のために祈るあゆみは、安っぽい報復原理に基づく憎しみの奴隷にはならない道へとつながります。そしてイエス・キリストはよどんだ人間の情念を白日のもとにさらけ出すのです。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」。死刑が執行されたところで、遺族の殆どはそれを本懐として報告することは稀で、むしろ深い空しさに包まれる場合が殆どだと申します。道理のよるべをイエス・キリストは人心にではなく天を指さし語ります。憎しみに屈しないあゆみが世の光となるとわたしたちは知っています。

2020年11月6日金曜日

2020年11月8日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「誘惑に打ち勝つ幼児の声」   
『マタイによる福音書』3章7~12節   
説教:稲山聖修牧師

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 洗礼者ヨハネはイエス・キリストを指し示した、日本語でいう露払いのような仕方で福音書では描かれます。イエス・キリストを通して神の愛が人々に注がれるという聖霊のそそぎによる洗礼に先立って、洗礼者ヨハネは水による清めの洗礼を授けてまいります。福音書で描かれる洗礼者ヨハネの役割は、世にあるまことの穢れとは何か、そしてその穢れをイエス・キリストがどのように清めていくのかを明らかにする、いわば先陣です。

 それでは洗礼者ヨハネは何を「清められるべき」だとし、白日の下にさらしていったというのでしょうか。その様子が今朝の聖書の箇所には記されています。彼はエルサレムとユダヤ全土、またヨルダン川沿いの地方一帯から出てきて罪を告白する人々にヨルダン川で清めの洗礼をに授けておりました。この場でいう罪とは、過去に行いながらも誡め通りの仕方では償いきれなかった「重荷」であり、その重荷を抱えた人々を結果として癒す役目をも担っていたと思われます。もちろんその重荷はその人自らには、今でいう自己責任や自業自得という意味合いで理解されるものでも、また理解されるべきものでもなく様々な社会の歪みがもたらした苦しみや悲しみでもあるのですが、洗礼者ヨハネはそのような人々を決して非難したり責め立てたりはいたしません。そのような人々には清めの洗礼とは預言者による癒しのわざでもあり、ヨハネはそのわざに黙々と取り組みます。

 しかしヨハネの眼差しが鋭くなるのは、そのような人々の群れの中にその時代のユダヤ教の律法学者でもあるファリサイ派、またエルサレムの神殿で祈りを献げるほか、ローマ帝国の役人との関わりの中、今でいう植民地に近い「属州」という仕方でエルサレムの神殿や人々の自治を守ろうと、謀りごとを駆使したサドカイ派を見出した時でした。「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来た」。その際に洗礼者ヨハネは次のように申します。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『われわれの父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。実に激しく憤りを露わにします。本来は人々を導く立場にあるべきファリサイ派やサドカイ派の人々がどうして群衆に紛れて身を隠すように、しかも大勢で洗礼者ヨハネを訪ねたのか。それは自らの負い目を除くためだけであって、生き方そのものを変える悔い改めのためではなかったと考えれば、合点がいきます。ファリサイ派やサドカイ派の人々には、洗礼者ヨハネの水による洗礼とは文字通りの禊ぎ以上の意味はなく、良心の呵責から解放されたこの人々は、本当のところ神から委託されているはずの群衆に向けた働きかけ、すなわち聖書の教えを広めるだけでなく希望を人々と分かち合い、さらに人々の痛みを神の前に執成し祈りを献げて癒すというわざを放棄して、ただ自分のためだけの赦しを得ようと群がっています。洗礼者ヨハネが叫ぶのは「悔い改めにふさわしい実を結べ」との声。彼は大きな組織のもつ力をわがものと勘違いする者に対して警告を発します。しかしこのように悔い改めを呼びかけられるファリサイ派の人々やサドカイ派の人々も生まれたときからそうであったかと考えると、果たしてどうであったことでしょうか。教育や出会いの中でこのような道を選ぶほかはなかったのではないか、とも考えられます。洗礼者ヨハネは「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」とありますが、実際にイエス・キリストがなしとげたことと言えば、本来は焼き払われるべき人々に代わって、焼かれるような苦しみを十字架で味わわれ、神の力の何たるかを洗礼者ヨハネが叱りつけた人々よりもさらに権力をもつ人々に突きつけたと言えましょう。キリストは人の罪を個人にではなく、実に御しがたい構造悪だと見抜いています。叱りつけられた人々も神の救いのわざから決して遠くはありません。

 本日は幼児祝福式です。幼児の眼差しは時に純粋であり、だからこそ大人社会の理屈が通じないことしばしば。正直にものを言う幼児に「口は禍のもとだ」と蓋をする大人がいるとすれば災いであります。大人社会の様々な課題を泣き声や涙で訴えます。「こどもだまし」という言葉が全く通じないのが幼児です。言うことは聞かないが、することは真似をするのが幼児です。大人社会の誘惑が通じない幼児を弟子は遠ざけましたが、イエス・キリストは招いて祝福されました。キリストに従う道とは、安易には楽だとは申せませんが、決して難行苦行でもありません。神が独り子を世にお遣わしになったほどに、世を愛されたという言葉の示す道を、こどもたちに備えてまいりましょう。