時間:10時30分~
説教= 「賢者」
吉村厚信 伝道師
聖書=ルカによる福音書12章13節-21節
讃美=讃美歌21―57番、487番
頌栄=讃美歌21-29番
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。当日のライブ中継のリンクは、「こちら」←をクリック、又はタップしてください。 ※当日、諸事情により
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【説教要旨】
産経新聞に沖縄・辺野古で「平和学習」の名目で修学旅行に抗議船が使用され、同志社国際高校の生徒が亡くなったとても辛い事件の背景を単に反国家・反右翼・急進左派の象徴の如き文面で報道をされたことに遺憾に感じたのは私だけだったでしょうか。同志社交際高校の校長以下教員の謝罪会見も、自らが預かったこれからの世界を背負って立つ大事な若者の命が奪われたことへの深い悲しみが殆ど感じられない、とても違和感を覚える記者会見でした。産経新聞6月18日一面記事に今回の事件を起こし亡くなった金井創(はじめ)牧師について触れ見出しに『反権力 反国家の原点』、小見出しに『左派隆盛の教団で伝道の道』、1970年万博のキリスト教館出展是非の教団内で揉めた事件まで触れて、日本基督教団が左派の社会運動にのめり込む牧師の集団のように誤解されてしまうのでは、と心配しています。同じく産経新聞7月7日第一面も同志社国際高校の引率教員が亡くなった生徒の顔を知らなかったの見出しに、余計に考えさせられました。交通機関に学生を乗せるとき引率の教員は点呼をして顔と名前を確認する基本的なこともできていなかった母校の教師に、遺族から学校の管理に対しする「ずさんずぎる」との声を載せています。母校の後輩、わたしが所属した体育会武道クラブ監督は、本当に平和を学ぶのであれば戦争の悲惨さだけを学ぶのではなくなぜ戦争が起きるのか、国家・外交・安全保障・人権・民主主義・国際秩序と言った複数の視点から生徒自身が考えることが出来る学習であるべき、同志社の行ったのは単なる戦争学習だけだった、と記しています。イエス様は私たちに何がいちばん優先するかを「子供を大事にする」のマルコによる福音書10:15にもしっかりと記されているではありませんか。
就労支援でも私たち支援員が最もしてはいけないこと、それは重荷を背負った利用者から一瞬たりとも注意の目をそらすこと、しっかりと彼ら彼女らを見守ることを怠ること、です。こんなことを思いつつ今日の聖書の箇所、「愚かな金持ちの譬え」の箇所です。
13-15節:貪欲と有り余るほどの財産では人の命はどうすることも出来ない、なんでもできると一瞬神さまを忘れてしまう。「貪欲」とはお金や目に見える財産を所有する、これは偶像崇拝であり、神さまを忘れる行為、とされる。16-19節:金持ちの譬え、豊かさの強調を、作物を保管するもっと大きな蔵(倉庫)を建てて穀物や財産をしまって何年も先まで蓄えをして、飲み食いしたリして楽しみ自分のことしか考えない、と記される。20-21節:自分のことしか考えられず、神さまを忘れた者になる、わたしたちの命は神様から与えられた大切なもの、その命を返えさざるを得なくなります。
売り上げを追いかけていたサラリーマンだった頃、「新しい商売をぜひ見つけてくれ。色々とサポートするから。」と言葉を発する上司、その言葉に感化されて開拓・新商品と企業戦士だったわたしは一生懸命に働きます。新しい客先の獲得、新しい商材の開発と売り込みの成功はその当時の営業マンとしてはいちばんの達成感でした。学校の試験でいい点をとったような感覚に酷似していました。商材の展開に失敗したこともあり、そんな時は多少なりともクレームが発生します。上司をして私たちを守ってくれる、と期待したことは見事に裏切られます。“受注をでかした、でかした”と称賛することばかりでこの上司は手柄が欲しかった、その一点に於いて部下を利用しただけでした。負の出来事には部下を悪者にして自らはフェイドアウトしようとする場合もある、そこそこの有名な国立大学を出ていてこのざまです。
わたしたちの本当の賢明さとはどのようなものでしょうか。はっきり言ってわたしは聡明ではありません。感情の起伏が激しく人と比べて背伸びばかりしていたかったサラリーマン時代、その本人がこの檀上に於いて聖書のお話をしていますが、心が迷い自分が愚かになるときは今でも変わりません。自分が愚かになるときに神様の御言葉を自らに語りかけ様々な物事に対する冷静な目をもつこと、悲しみに遭ったとき、主の福音を自らに語りかけて立ち直ろうとすること、このことを大事にするその心構えをわたしは大切にしたいと願っています。イエス様が教える、聖書が提示する「賢さ」とは何なのか、ご存じの「コヘレトの言葉」にも様々な賢者のメッセージとして語りかける内容があります。
分別の賢さ…現実の複雑さを見抜いていくこと、
抑制する賢さ…自分の言葉と感情をコントロールすること、
降伏出来る賢さ…不条理を前にして受け容れる強さ
愛の知恵…己の弱さを知り、他者の為に愚直に生きる賢さ
ではないでしょうか。どんなに頑張ってもひとは神にはなれない、しかし神に近づくために何かを課される必要もない。家族や周りの方々を大事にして与えられた仕事に真摯に向き合い生活する、その一点に於いてひとは十分に聖化されています。「受洗した」としてもあとにいっぱい辛いこと、苦しいこと、悲しいことを神様は私たちにお与えになるのだ、と。高齢になってから見えてくるものがあります。歳を重ねてからわかるものやわかることもあります。そこに実は主の大きな「恵み」があるのです。老いを重ねること、肉体は衰えていきますが、スピリチュアルな世界へ臨むことは増していきます。真面目に生きて来た人が突然の病に倒れ、悪賢い人間がのうのうと金持ちとして人生を謳歌する、そんな不条理も直接間接に見て来られた、経験してこられたのではないでしょうか。それはそんな理不尽な世界を見て来たからこそ対峙できる強さが生まれるのです。そのことが本当の「賢者」の第一歩なのかもしれません。おおきな成功や富ではなく、「いま此処にある」日常の生活をイエス様から神さまから与えられたことを感謝して受け取ることこそが最も「賢者」なのではないか、と聖書は教えていると思います。