―降誕節第8主日礼拝―
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「あり得ないことが起きるとき」
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』4 章35~41 節
(新約68頁)
讃美= 21-502(326).21-404(217).21-26.
讃美= 21-502(326).21-404(217).21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
寒の戻りを繰り返しつつも紅白の梅もこぼれ、立春を過ぎれば次第に春の足音が聞こえてまいります。わたしたち大都市と関わりつつ暮らす者にとりましてはこの季節、温かさと冷え込みを繰り返しながらも春の訪れに胸躍らせる候とはなりますが、山間部や海の上となりますと話は異なってまいります。何らかの事情で山深いところに暮らす方々には雪崩が起きやすくなる季節となります。素人は山には決して入ってはならない時期です。また海上では日本海で発達した低気圧により南よりの強い風が吹き、春一番と呼ばれる風が吹くのももうそろそろです。
もともとはこの春一番、1859(安政6)年、長崎県壱岐市でおりからの強風により出漁中の漁船が転覆し53名の死者を出したところに由来するという自然災害にその名が由来します。ですから決して「冬きたりなば春遠からじ」といったのどかな風情をもとにした名前ではありませんでした。現在のような科学的な気象情報はなく、ひたすら漁師の経験則や勘に基づいて沖へ舟を漕ぎ出す他なかった時代の悲劇に由来する気象名だとも言えるでしょう。
そして同じような自然現象はガリラヤ湖にも起きやすいとされます。周囲を山に囲まれたすり鉢状の地形と、海面下約200メートルという特性のあるこの湖では、東側の谷を通って温かく湿った空気が湖に吹き下ろし、突然激しい風が吹き、小型の漁船では今でも転覆させるほどの危険な波を生じさせると言われます。ただし『新約聖書』の時代に天候に今日程まで緻密に精通した人物がいるとは思われません。先ほどの春一番のお話と同じくこのような波に襲われるのであれば、それはあまりにも突然で漁師は恐怖に青ざめるほか無かったことでしょう。
「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」。直前の物語を踏まえますと次のような流れになります。「種蒔く人の譬え」「成長する種の譬え」「からし種の譬え」と次々に群衆に向けてそれまで全く理解できなかった『旧約聖書』に記された神の愛、神の恵みの物語を人々に語り、交わりは大盛況を迎えます。その後、夕方を迎え、人の子イエスは「向こう岸に渡ろう」と弟子に呼びかけます。これまで人の子イエスに胸をときめかせ、ややのぼせた弟子には驚きのひと言です。なぜならばもう日はとっぷりと暮れ、何かあればお世話をするとまで申し出のあったかもしれない群衆を残して、舟で「向こう岸に渡る」と言い出したからです。漁師であった弟子は一転して大きな不安が襲われます。「大丈夫なのだろうか」。ほかの舟も一緒であればなおのこと、この季節は危ないとの胸騒ぎがあってもおかしくはありません。暗闇の中でとうとう突風が吹き荒れ、舟はどこへ向かっているのかも分かりません。かがり火を焚こうとしても波風でそれどころではなく、向こう岸の様子すら分かりません。肝腎の人の子イエスはと言えば、艫の方で枕をして眼を閉じて寝息を立てているようにも見えます。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」。暗闇の中で落水して溺れるとは言うまでもなく死を意味します。つまりこれは弟子が血相を変えて「先生、わたしたちが死んでも構わないのですか」とパニックに陥っているさまを明らかに示しています。目覚めた人の子イエスはやおら起き上がって湖に「黙れ、静まれ」と風を叱った途端、すっかり湖面は凪いだと申します。
この箇所をしてこの波風とは、嵐に直面して弟子の心のうろたえや心象風景として解釈したり、または字義通りに嵐を人の子イエスが鎮める物語としたりするメッセージもお伝えできるかもしれません。けれども本日はこの出来事の結果、本当のところ弟子に何が起きたのかという、その点を観たいのです。それは、この「あり得ない出来事」が起きた結果、弟子は舟に乗るまでに抱いていた人の子イエスに従うところの名声や驕りといったものがことごとく打ち砕かれ、それこそ荒れ狂う波にうち捨てられてもう一度ゼロ、いやマイナスからの出発を余儀なくされたというところです。もう一度様々な意味で裸一貫となるほかなかったのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。『旧約聖書』「族長物語」ではヤコブの組み討ちという物語が出てまいります。ヤコブがかつて長子の権利を奪い、自らを殺めるかもしれないと恐れていたエサウと出会うための旅路、ヤボクの渡しというヨルダン川の場所で家族や僕、そして家畜たちを渡らせたその最後に主の御使いと一晩中組み討ちする羽目となりましたがいのちを失うにはいたりません。その結果ヤコブは「イスラエル」との名前を授かります。この格闘を経て、ヤコブは兄エサウとの出会いを恐れる必要がなくなったのです。あり得ない出来事のなかで弟子も新たにされて、ガリラヤ湖の向こう岸・ゲラサの地に渡り、さらなるイエス・キリストの教えとわざを目撃することとなります。波風の彼方には神の愛の夜明けがあります。






