時間:10時30分~
讃美=讃美歌21-57番、讃美歌21-442番
頌栄=讃美歌21-27番
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
当日のライブ中継のリンクは、
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方法は、こちらのページをご覧ください。
【説教要旨】
わたしがインド・ミゾラム州の日本語学校に赴任していた時に、ネパールからバプテスト派宣教師ジャナクさんが日本語教師としてインドへ来られ同じ仲間になりました。ジャナクさんは約6か月青年たちに日本語を教えて貰いました。ジャナクさんは8月17日から21日迄大阪に来日しネパールのクリスチャンの若者たちを日本へ送り込む企画を説明にこられました。ジャナクさんは9年間大半を福岡で住まいされました。西南学院大学神学部御出身で母国・ネパールへの宣教師としてバプテスト教会から派遣されたとお聞きしています。わたしたちの校祖新島襄が会衆派牧師として宣教のためアメリカから日本へ派遣されたと同じ、そのようにわたしは彼を見ています。彼のモットー、Gospel to Japan(日本へ「福音」を届ける)です。「宣教」と言う今日のメッセージですが、今日「宣教」はなされているのでしょうか。フランスの歴史人口学、家族人類学の専門家エマニュエル・トッド氏は書物の中で信仰心は希薄になったが、キリスト教的道徳や文化はプロテスタントの価値観として社会に残っていることを「プロテスタントのゾンビ化」と称しています。人々が教会に通わなくなる、神を信じることが出来なくなりつつある、しかし文化や価値観、道徳など規範は社会の中に残っている、このような状態を指すのだそうです。本日のこの箇所について註解書にこの箇所の記載やこの箇所の正確な説明がありません。マルコ自身は復活のイエスの顕現物語を福音書の中には取り入れませんでした。
この章で弟子たちはかつての出会いの場所で復活のイエスに出会います。ガリラヤへのイエスの言及はわたしたちをイエスの活動の出発点に連れ戻す、註解書は16:1-8の説明で終わっています。「それでそのあとどうなったのか?」の疑問があったから「教会」が出来たのではないか、「教会」共同体の必然的な加筆だったのではなかったでしょうか。
『内村鑑三聖書註解全集』の中で内村がこの「マルコによる福音書16章15節」のみ内村独自の註釈があります。明治時代の文語体です。
【マルコ16:15
『イエス彼ら(弟子たち)にいいけるは、あまねく世界をめぐりて、すべての人に福音を宣べ伝えよ』
われらがキリスト教を信ずるは特にわれら自身が救われるためにあらず、神がわれらをすくいたまいしは、我らが世の人を救わんためなり。
伝道はキリスト信者の身に沿う義務なり。伝道せざるものはキリスト信者にあらざるなり。われにうるわしき名二つあり。
二者ともにJをもって始まる。イエス(Jesus)なり、日本(Japan)なり。われはこれを称して二つのJ(two Js)という。
われの宗教はこの二つを離れて存在せず。イエスのためなり。日本のためなり。イエスの栄光をあらわさんため、日本の名誉を傷つけざらんためなり。
日本を救うに日本人の力を持ってせよ。二つのJを和する忘るなかれ。】
今、アジアの緊張状態や利権をめぐる戦争の数々を見て私たちの身近な存在を守る、そのような使命をこれからわたしたちはもたねばならないかもしれません。それこそが内村が生きた明治時代の当時の西欧列強から日本を守り、家族を守ることを考えた、現代を顧みるに神さまは今そのような試練をまたわたしたちにお与えになろうとしています。ジャナクさんは「ネパール人」として誇りを以って自らの国の若者を海外で活躍してもらうべく彼の召しである宣教活動を自らの教会員の若者を通じて体現しようとしています。「宣教のための宣教」ではなく、キリスト者が仕事を通じてキリスト教的理念を顕わす、そのことを今回のジャナクさんの訪日は神様が私に語りかけています。自由主義神学のフリードリヒ・シュライエルッハーは、自らの著書『宗教論』の中で、「宗教の本質は知識や行為ではなく、直観と感情である」と記しました。「神さまが下りてきてくださってわたしたちの中に着床してくれるのだ」という感覚、シュライエルマッハーの神学思想は、人の外側にある超自然的な超越的な存在や存在への畏怖の念ではなく「人間自身の中に存在するものだ」、としました。大学時代の同僚に「佐藤優さん」がいます。彼は『愛国の罠』と言う著書の中でシュライエルマッハーを取り上げ、次のように述べています。「キリスト教において神様はひとの上にいると思われていましたが、ガリレオやコペルニクスによって地球が球体であると証明されてしまったことで「天上」という場所が否定されてしまいました。しかしシュライエルマッハーによって神様の場所をわたしたち心の中に変えてしまわれました。心はどこにあるのか、でも「心なるもの」があるのは確かです。そのことで地球は丸いが神は存在するという信仰は矛盾なく認められます。このことによって現代の自然科学的な体系と私たちの信念、わたしは信仰と置き換えてもよいと思いますが「共存」出来るようになったわけです。でもその心の中でどこまでは自分、どこまでが神様の声なのか分からなくなる、自らの中に自然科学と思想・信仰の間に境目が必要になってきます。「科学」とその科学に潜む人間の「欲」に対する「理念」とのぶつかり合いがあります。そのことをある種の制御機能として神様はシュライエルマッハーを通じて私たちにお与えになられています。」この内容は「プロテスタントのゾンビ化」への信仰の大きな御支えと指針であると思います。