時間:10時30分~
頌栄=21-27
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
【説教要旨】
現在のイラン・アメリカの戦闘状態の影響で、中東からの原油に大きな支障が出ています。「ナフサ」が足らなくなり、ガソリン供給にも不安があるなど、以前のコメ不足も彷彿させて何か豊かさが失われていくようです。自分勝手なイデオロギーや権力主張から紛争が起こっても何もよいことはありません。日本は株価が6月1日で6万円台を超え会社員現役の頃の7年前2019年の3倍近い株価で経済は非常に活発に見えますが、色々な商品値上げなど一生懸命働いていても良い方向に向かっているように思えません。
今わたしたちを照らす電機の照明も化石燃料から供給された電力や生活を支えるエネルギー、そこに前述のイラン・アメリカの戦争同様人間の欲望も見え隠れしています。本日の聖書箇所は、「サタン」の様々な誘惑に対して聖霊に満ちたイエス様が対峙する、その場面では私たちがよく耳にする聖書の言葉が登場します。「サタン」は一神教の下で神や人間に敵対する悪魔的な存在を指します。キリスト教神学で「サタン」は神に対して謀反を起こした堕天使で人間を誘惑し、特にカトリック教会では教会を滅ぼそうとするものとされてきました。
1-4節:イエス様は受洗のあと、聖霊に導かれて荒れ野の中で40日間悪魔からの誘惑を受けますが、申命記9:9にありますモーセの四十日間四十夜断食をしたことを彷彿させます。悪魔からの石をパンにする誘惑、註解書では「パン」を「マナ」に変えるような内容に対して、イエス様は有名な一節「人はパンだけで生きるものではない。」「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」といいます。5-8節:悪魔がイエス様を高い山に連れていき、世界のすべての国々、当時のローマ帝国の世界の権力と繁栄をイエス様に与えようという誘惑をイエス様は「ルカによる福音書10:22」「すべてのことは父からわたしに任せられています。」異教徒たちへの宣教のメッセージとして「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と信徒と教会への励ましをも表されています。9-12節:エルサレム、この地名が明確に示されたことでイエス様の受難の死から復活された最後の勝利が示されています。悪魔はそこでイエス様にメシア(=神)であることを示せと試みを要求しますが、イエス様は、「主を試すな」と一蹴します。
13節:悪魔の誘惑はイエス様の受難のときがくるまで、「イスカリオテと呼ばれるユダの中にサタンが入る」までイエス様を離れます。
この聖書箇所はイスラエルの民が神を信じなかったがゆえに神からの信頼を失い、荒れ野の旅を全てイエス様への悪魔の都合の良いようにイエス様を誘うその誘惑=試みに遭わせず、イエス様が悪より救い出す、その場面を表しています。
先週の井上牧師からの御言葉をお聞きして、ひとは「聖人」になることではなく、「キリストを信仰せよ」の意味が「きれいなものを見てきれいなことをせよ」、とのメッセージだったと思います。どんなに頑張ってもひとは神にはなれません。しかし、自身に神に近づくために何かのノルマを課される必要もありません。家族や周りの方々を大事にして与えられた仕事に真摯に向き合い生活する、その一点に於いてひとは十分に聖化されているのだと思います。バプテスマ(洗礼)はわたしたちが神の子となる大きな機会を神様から頂くことですが、「受洗した」としてもあとにいっぱい辛いこと、苦しいこと、悲しいことを神様は私たちにお与えになります。ご存じのパウロ書簡一節をお読みします。「コリントの信徒への手紙一 10: 13」「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」苦しいとき、悲しいときにひとは必ずと言っていいほど天を仰ぎます。神さまを仰ぎます。そしてまた前を向いて歩きだす。不完全で足らないけどそれでよいのです。教会共同体で共に神様の方向を向いて共に歩み努力する、ときに受洗者という果実=同じ方へ歩もうとする仲間を神様から頂く、それが本当の神様から「洗礼を施された」という意味ではないでしょうか。18世紀のドイツの自由主義神学者フリードリヒ・シュライエルマッハーは、自らの著書『宗教論』の中で、「宗教の本質は知識や行為ではなく、直観と感情」と記しました。「神さまがわたしたちの中に着床される」という感覚、シュライエルマッハーの神学思想は、人の外側の超越的な存在、その存在への畏怖の念ではなく「人間自身の中に存在する」のです。人間は生まれたときは無垢できれい、それが様々な紆余曲折を経て経験した辛いことや悲しいことからあくまで「ひと」として学習していっぱい鎧兜を身に着けてしまいます、財産、地位、そして保身、それが本日の「サタンの仕業」だとしたら、神さまが着床してくれたことで、サタンに誘惑されて悪の方向へ向かうことを自ら止めて、神さまと同じきれいで前向きな気持ちが自然と自らの中に芽生える、そんな感覚になるのではないでしょうか。
この感覚が神さまからわたしたちに頂いたまさに「原点」になる、と聖書は教えてくれています。

