時間:10時30分~
説教=「ブレスト(祝福)」
吉村厚信伝道師
聖書=ルカによる福音書10章25~37節
讃美=讃美歌21-17、21-516
頌栄=讃美歌21-24番
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。当日のライブ中継のリンクは、「こちら」←をクリック、又はタップしてください。「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
【説教要旨】
わたしが3月29日泉北ニュータウン教会で拙いメッセージを発信させて頂いて9月で丸半年となりました。色々な先生方が教会にメッセージを与えられた恵みを以って如何に神様と真摯に向き合っていかれるのか、求める方向によって神様からの教会への御旨はかなり異なってくるのだろうと思います。
今日の説教題は『祝福(ブレスト)』、内村鑑三の註解からその流れで聖書を見ていきます。
25節で内村は律法専門家を「教法師」と記しています。教法師とは法学者であり、聖書学者のことでした。26節でイエス様は「法学者たるもの、モーセの律法も知っているのだからどう読むのか、」と逆にその法学者に聞きます。27節で:法学者は二つの聖書の言葉から引用しました。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」28節でイエス様は「それを実行しなさい。」とその法学者に言います。法学者は永遠の命の意味やその命を受け継ぐ道が何なのか分からなかった、イエス様は現世に繋がる永遠の命を説かれました。29節で法学者はイエス様の簡単な答えにおそらく驚いた、自分は法学者でもないイエス様よりもっと学者としてのプライドから浅はかな自分からの質問を覆い隠すために加えて「わたしの隣人とはだれですか」と続けます。そこで、イエス様は皆さんよくご存じの「善きサマリア人」の譬え、であります。
隣人とは、「神に敬する、人を愛する、そして今から生きることが永遠の命を授かることが出来る」「自分より進んで苦しむひとの隣人となれ」とイエス様は答えています。
この箇所についての譬え、全てを尽くして神を愛するには、敵であろうと味方であろうと分け隔てなく愛する、ということを意味しています。
私は聖書を『逐語霊感主義』として捉えずその裏側に潜む意味を解釈しようとします。聖書をmetaphor(メタファー=隠喩、比喩)としてその奥に潜むイエス様からの御言葉の本質を読み取り広めることが聖書解釈である、としてこれはわたしの私見ですが新島襄先生からの伝統であると思います。
絶対的貧困は減少しつつありますが、経済格差は拡大を続けています。社会の中で周辺化され、差別化され、非人間的な扱いを受けている人々は少なくないでしょう。そのような社会構造は聖書の中にも見られました。助けを求めている人の横を通り過ぎるのではなく、手を差し伸べることが出来るのか、同志社現大学長小原先生の言からすれば、
「ルカによる福音書の10:36-37」や「マタイによる福音書25:40」の箇所、イエス様は「神の国」を多くの譬えで語りました。
最も小さなもの、空の鳥、野の花、(マタイによる福音書6:25-30)
からし種、(マルコによる福音書4:31ー32)
追いはぎに半殺しにされた者、(ルカによる福音書10:25-37)
小さきものが大きなもの(神の愛、神の国、そして神そのもの)に繋がっていく、というダイナミズムをキリスト教は持っています。
「キリスト教を現在や未来において、どのように生かすことが出来るのだろうか、どの時代でもこの逆説的な真理は本当に実践する「キリスト教主義」が求められる所以である。」と小原先生は締めくくっています。1866年、新島襄は説教「愛とは何ぞや」の中で、キリスト教とは何か、の問いに「愛以ってこれを貫く」、すなわち「愛」こそがキリスト教を貫く本質であると答えています。その「愛」とは一体何なのでしょうか。先ほどの隣人愛に他なりません。実はイエス様の本当の真理がそこにあります。「異なる宗教」や「異なる価値観」を受容し共有することによって、聖書に出て来る小さきものが大きなものへ繋がるダイナミズムの一端をそこに見ることが出来るのです。そしてその「愛」はどこから来るのでしょうか。「隣人を愛する」ためには、その前提として「自分を愛するように」ということです。現在「愛国心」のもと、アメリカなどは排外主義、昔の保護貿易主義、など自国だけの利益を求める傾向が強くなりました。その影響もあり様々な偏見とあらたな差別が広がりつつあります。「国際主義」とは、国際社会に通用するグローバルな人材、勝ち組志向の強い競争原理からの発想が世間では一般的ではないでしょうか。
以前、わたしは現在所属する就労支援法人に触れたことがありました。
私自身も初心に立ち戻って自己を顧みることがイエス様から繋がる神様の「召し」を思い返さねばなりません。神さまが私に本当の牧会を問われた瞬間だったのだ、と思います。わたしにとってそこに「祝福」(ブレスト)はありました。LINEで教会員様のやり取りを拝見しています。入院・手術のあと元気になられた小さな命の鼓動は、実は皆さんの感情を動かして魂を一つにしてくれる、ベクトルを一つにしてくれています。シュライエルマッハーをお話しましたが、神さまが下りてきてくださり、皆さんの中に「着床」しておられると思います。小さな、しかし大きな意味を神様から頂くやり取りを見させていただく幸いを貰っています。まさに「逆説のダイナミズム」であります。ここにも大きな「祝福」(ブレスト)があるのではないでしょうか。皆様に大いなる祝福(ブレスト)が導かれますように。