泉北ニュータウン教会「今週の礼拝」予定・ライブ配信のお知らせ
日本基督教団泉北ニュータウン教会の聖日礼拝説教要旨を掲載。
ホームページは、 https://kohituji.sakura.ne.jp/
2014年度以前の説教要旨は、こちらからご覧になれます。
2026年8月10日月曜日
2026年8月2日日曜日
2026年 8月9日(日)礼拝ライブ配信
2026年7月27日月曜日
2026年 8月2日(日)礼拝ライブ配信
時間:10時30分~
聖書=マルコによる福音書8章34〜38節
讃美=讃美歌21-204、讃美歌2編194
頌栄=讃美歌21-27
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
当日のライブ中継のリンクは、
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方法は、こちらのページをご覧ください。
私達の信仰生活は、望むと望まないとは関わりなく、その人なりの十字架を背負って歩んでいく。
私は、1991年4月から1995年3月まで、泉北栂教会と泉佐野教会の二つの教会を兼任して仕えました。
1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生。ビルがペチャンコにつぶれていた映像を見ました。保育園の園舎も老朽化が激しく、その現状は恐怖でした。
耐震強度を検査してもらったら41%しかありませんでした。
そこで、園舎建て替えを計画しましたが、様々なハードルが立ちはだかり建設は困難をきわめました。
園舎建て替えのついでに、教会堂の建設もしました。
様々な困難がやってきましたが、私は不退転の覚悟でやり抜きました。
教会も保育園もそれほど広い施設ではありませんが、駅前通りに面した場所であるので、伝道活動も園児募集も祝されていました。
2026年7月20日月曜日
2026年 7月26日(日)礼拝ライブ配信
時間:10時30分~
讃美=讃美歌21-55番「人となりたる神のことば」
讃美歌21-456番「わが魂を愛するイェスよ」
頌栄=讃美歌21-29番
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
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【説教要旨】
1【嵐に遭う舟】
夕方になって、イエス様は「向こう岸に渡ろう」と弟子たちにいわれました。ガリラヤ湖は海抜マイナス213mの谷底にあり、周囲を山が巡っているので、たびたび山からの突風が湖に吹きつけては嵐になりました。ベトロは漁師ですからそのことを良く知っていましたが、イエス様が言われたので仕方なしに彼らも従いました。弟子たちがイエス様を舟に乗せて漕ぎ出すと、案の定、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水浸しになりました。昔からユダヤ人たちは水を怖がりました。 ノアの洪水で多くの人を滅ぼしたのも、エジプト軍を滅ぼしたのも水であって、水は滅びの道具として用いられたからです。しかしイエス様は「嘘の方で枕をして眠っておられ」 (38節)ました。 そこで弟子たちはイエス様を起こして「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。私たちも嵐の中の弟子たちと同じように祈ってきました。「神様、教会が潰れても構わないのですか。この世界が滅びても構わないのですか。神様が支配しているなら、どうして悪人を放っておかれるのですか。神様に任せておいて大丈夫なのですか。私たちの目には、あなたは眠っているようにしか見えないのです。」すると「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に『黙れ、静まれ』といわれた。すると風はやみ、すっかり凪になった。」(39節)とあります。自然を従わせることができるのは神様だけです。実は神様が彼らと共に一つの舟に乗っているのです。でも弟子たちはそれにまだ気がつきません。イエス様は弟子たちに「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか。」(40節) と言われました。どうもイエス様はわざと弟子たちに嵐に遭う試練を与えているようなのです。
2【眠るイエス様】
私は最初、この物語を読んだ時「よくまあ、この人はこんな嵐の中で眠れるものだ」と思いました。 水をかけられたら普通の人は目が覚めます。水がかかっても眠り続けるなんてよっぽどこの人は疲れているのか、鈍感なのかと思いました。しかしイエス様は水がかかり、舟が沈みそうになっても眠り続けます。まるで幼子のようです。幼子は地震の時にも親を信頼してその胸で眠ります。眠るというのは委ねる最高の行為です。イエス様の眠りは、私たちに信仰とは何かを教えているのです。 嵐のような試練にあっても、神様を信頼して、すべてを委ねなさいと教えているのです。安心して水に飲み込まれなさい、つまり安心して試練に逢い、安心して死になさい、と教えているのです。 水に飲み込まれても必ず浮いてくる、死んでも必ず復活することをイエス様は信じていたからです。
3【キリストが共にいたら必ず復活する】
先ほど4章26節以降で「成長する種」のたとえを読みました。「神の国は次のようなものである。 人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、・・・」 (26~28節) 植物の生命力というのは本当に不思議です。枯れたと思っていた木が、いつの間にか芽を出し、次の日にはもう伸びています。いつ芽が出たのか、いつ成長したのか私たちは分かりません。私たちの気づかない内に、植物は成長します。それと同じように、神の国というのは私たちが気づかない内に成長し、 どんどん大きくなって広まり、やがて実を結ばせるというのです。この土に蒔かれた種とはキリスト自身であり、キリストの命です。土とは私たちのことです。このキリストの命という神の種が私たちの中に蒔かれたのです。この神の種は決して死なない命です。人間は神様に任せてただ寝起きしていればいいのです。安心してこの神の種と共に死ねばいいのです。このキリストという種を持っていたら必ず生きることになるからです。キリストの決して死なない命の種が今も、私の中に生きています。私が死んでも、この神の種が私を蘇らせます。だから、楽しいのです。わくわくするのです。キリストに一切を委ねて、安心して眠りましょう。
2026年7月12日日曜日
2026年 7月19日(日)礼拝ライブ配信
時間:10時30分~
頌栄=讃美歌21-29番
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。礼拝当日、10時30分より
【説教要旨】
A) イエスの死後、ガリラヤに逃げた弟子たち
1. 逃げる弟子たち。イエスと共にガリラヤからエルサレムに向かった弟子たち。このチームをを応援しお世話をする女性たち。イエスと出会って新しい人生を得た人たち。意気揚々とエルサレムに入った彼らは、しかし処刑されたイエスを前に、逃げ、潜んだ。 特にイエスに近かった「弟子」と呼ばれたペトロたちは「自分たちも捕縛され処刑される」という恐怖に駆られてエルサレムから逃れ、郷里のガリラヤを目指した。
2. その弟子たちに現れたイエス。そのうちの二人が田舎(ガリラヤ)の方に向かって歩いていると、そこに甦ったイエスが現れた。16:7によれば「イエスは先にガリラヤに行かれ。そこで再会できる」。一からやり直すチャンスをいただいた、ということか?
B) 迫害から逃亡するベトロ
1. ヨハネ13:36 「主よ、どこへ行かれるのですか?」 Quo vadis, domine
2. 新約外典「ペトロ行伝」 ローマで捕縛されたペトロが処刑されるとき、イエスと同じ姿では申し訳ないという理由で「逆さ磔」を望んだ。
3. 「クオヴァディス」(原作: ヘンリク・シェンキェヴィチ着/1896年出版/1905年ノーベル文学賞、映画:ハリウッド/1951年、内容:ネロの時代。自らローマに放火したネロは、その罪を当時迫害の対象だったキリスト教徒に被せた。)
A) 及びB) 1.と2.を題材にシェンキェヴィチは「クオヴァディス」を書いた。ローマから逃げるペテロにイエスが現れ、「あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるだろう。」と告げる。直後、ペトロはローマに引き返し捕らえられ、逆さ礫に処せられる。
C) 求められているのは他でもない「あなた」
1. 福音書の行間を読むなら、エルサレムからガリラヤに逃亡する途上のペトロに現れたイエスは 「エルサレムの民を見捨てるな。エルサレムに戻れ。でも、それが無理なら私が行って、もう一度十字架にかかる」と仰ったのではないか。
2. 私も道を行くとき、突然イエスに遭遇することがある。大抵は、私が目指す方向とは逆の、私が逃げ出してきた場所を目指しておられる。イエスは「私の代わりに戻ってくれないか?」と仰る。遺巡する私にイエスは「無理ならいい。無理なのは分かっている。私があなたの代わりに行き、あなたたちのためにもう一度十字架にかかって死ぬから、大丈夫。」と仰る。
3. イエスによって「クォヴァディス(あなたは何処へいくの?)」と問われているのは、他の誰かではなく私であり、あなたです。
2026年7月5日日曜日
2026年 7月12日(日)礼拝ライブ配信
時間:10時30分~
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
【説教要旨】
産経新聞に沖縄・辺野古で「平和学習」の名目で修学旅行に抗議船が使用され、同志社国際高校の生徒が亡くなったとても辛い事件の背景を単に反国家・反右翼・急進左派の象徴の如き文面で報道をされたことに遺憾に感じたのは私だけだったでしょうか。同志社交際高校の校長以下教員の謝罪会見も、自らが預かったこれからの世界を背負って立つ大事な若者の命が奪われたことへの深い悲しみが殆ど感じられない、とても違和感を覚える記者会見でした。産経新聞6月18日一面記事に今回の事件を起こし亡くなった金井創(はじめ)牧師について触れ見出しに『反権力 反国家の原点』、小見出しに『左派隆盛の教団で伝道の道』、1970年万博のキリスト教館出展是非の教団内で揉めた事件まで触れて、日本基督教団が左派の社会運動にのめり込む牧師の集団のように誤解されてしまうのでは、と心配しています。同じく産経新聞7月7日第一面も同志社国際高校の引率教員が亡くなった生徒の顔を知らなかったの見出しに、余計に考えさせられました。交通機関に学生を乗せるとき引率の教員は点呼をして顔と名前を確認する基本的なこともできていなかった母校の教師に、遺族から学校の管理に対しする「ずさんずぎる」との声を載せています。母校の後輩、わたしが所属した体育会武道クラブ監督は、本当に平和を学ぶのであれば戦争の悲惨さだけを学ぶのではなくなぜ戦争が起きるのか、国家・外交・安全保障・人権・民主主義・国際秩序と言った複数の視点から生徒自身が考えることが出来る学習であるべき、同志社の行ったのは単なる戦争学習だけだった、と記しています。イエス様は私たちに何がいちばん優先するかを「子供を大事にする」のマルコによる福音書10:15にもしっかりと記されているではありませんか。
就労支援でも私たち支援員が最もしてはいけないこと、それは重荷を背負った利用者から一瞬たりとも注意の目をそらすこと、しっかりと彼ら彼女らを見守ることを怠ること、です。こんなことを思いつつ今日の聖書の箇所、「愚かな金持ちの譬え」の箇所です。
13-15節:貪欲と有り余るほどの財産では人の命はどうすることも出来ない、なんでもできると一瞬神さまを忘れてしまう。「貪欲」とはお金や目に見える財産を所有する、これは偶像崇拝であり、神さまを忘れる行為、とされる。16-19節:金持ちの譬え、豊かさの強調を、作物を保管するもっと大きな蔵(倉庫)を建てて穀物や財産をしまって何年も先まで蓄えをして、飲み食いしたリして楽しみ自分のことしか考えない、と記される。20-21節:自分のことしか考えられず、神さまを忘れた者になる、わたしたちの命は神様から与えられた大切なもの、その命を返えさざるを得なくなります。
売り上げを追いかけていたサラリーマンだった頃、「新しい商売をぜひ見つけてくれ。色々とサポートするから。」と言葉を発する上司、その言葉に感化されて開拓・新商品と企業戦士だったわたしは一生懸命に働きます。新しい客先の獲得、新しい商材の開発と売り込みの成功はその当時の営業マンとしてはいちばんの達成感でした。学校の試験でいい点をとったような感覚に酷似していました。商材の展開に失敗したこともあり、そんな時は多少なりともクレームが発生します。上司をして私たちを守ってくれる、と期待したことは見事に裏切られます。“受注をでかした、でかした”と称賛することばかりでこの上司は手柄が欲しかった、その一点に於いて部下を利用しただけでした。負の出来事には部下を悪者にして自らはフェイドアウトしようとする場合もある、そこそこの有名な国立大学を出ていてこのざまです。
わたしたちの本当の賢明さとはどのようなものでしょうか。はっきり言ってわたしは聡明ではありません。感情の起伏が激しく人と比べて背伸びばかりしていたかったサラリーマン時代、その本人がこの檀上に於いて聖書のお話をしていますが、心が迷い自分が愚かになるときは今でも変わりません。自分が愚かになるときに神様の御言葉を自らに語りかけ様々な物事に対する冷静な目をもつこと、悲しみに遭ったとき、主の福音を自らに語りかけて立ち直ろうとすること、このことを大事にするその心構えをわたしは大切にしたいと願っています。イエス様が教える、聖書が提示する「賢さ」とは何なのか、ご存じの「コヘレトの言葉」にも様々な賢者のメッセージとして語りかける内容があります。
分別の賢さ…現実の複雑さを見抜いていくこと、
抑制する賢さ…自分の言葉と感情をコントロールすること、
降伏出来る賢さ…不条理を前にして受け容れる強さ
愛の知恵…己の弱さを知り、他者の為に愚直に生きる賢さ
ではないでしょうか。どんなに頑張ってもひとは神にはなれない、しかし神に近づくために何かを課される必要もない。家族や周りの方々を大事にして与えられた仕事に真摯に向き合い生活する、その一点に於いてひとは十分に聖化されています。「受洗した」としてもあとにいっぱい辛いこと、苦しいこと、悲しいことを神様は私たちにお与えになるのだ、と。高齢になってから見えてくるものがあります。歳を重ねてからわかるものやわかることもあります。そこに実は主の大きな「恵み」があるのです。老いを重ねること、肉体は衰えていきますが、スピリチュアルな世界へ臨むことは増していきます。真面目に生きて来た人が突然の病に倒れ、悪賢い人間がのうのうと金持ちとして人生を謳歌する、そんな不条理も直接間接に見て来られた、経験してこられたのではないでしょうか。それはそんな理不尽な世界を見て来たからこそ対峙できる強さが生まれるのです。そのことが本当の「賢者」の第一歩なのかもしれません。おおきな成功や富ではなく、「いま此処にある」日常の生活をイエス様から神さまから与えられたことを感謝して受け取ることこそが最も「賢者」なのではないか、と聖書は教えていると思います。
讃美=讃美歌21―57番、487番
頌栄=讃美歌21-29番
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より
※当日、諸事情により
YouTubeのリンクが変更になりました。
現在は新しいリンクになっております。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
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産経新聞に沖縄・辺野古で「平和学習」の名目で修学旅行に抗議船が使用され、同志社国際高校の生徒が亡くなったとても辛い事件の背景を単に反国家・反右翼・急進左派の象徴の如き文面で報道をされたことに遺憾に感じたのは私だけだったでしょうか。同志社交際高校の校長以下教員の謝罪会見も、自らが預かったこれからの世界を背負って立つ大事な若者の命が奪われたことへの深い悲しみが殆ど感じられない、とても違和感を覚える記者会見でした。産経新聞6月18日一面記事に今回の事件を起こし亡くなった金井創(はじめ)牧師について触れ見出しに『反権力 反国家の原点』、小見出しに『左派隆盛の教団で伝道の道』、1970年万博のキリスト教館出展是非の教団内で揉めた事件まで触れて、日本基督教団が左派の社会運動にのめり込む牧師の集団のように誤解されてしまうのでは、と心配しています。同じく産経新聞7月7日第一面も同志社国際高校の引率教員が亡くなった生徒の顔を知らなかったの見出しに、余計に考えさせられました。交通機関に学生を乗せるとき引率の教員は点呼をして顔と名前を確認する基本的なこともできていなかった母校の教師に、遺族から学校の管理に対しする「ずさんずぎる」との声を載せています。母校の後輩、わたしが所属した体育会武道クラブ監督は、本当に平和を学ぶのであれば戦争の悲惨さだけを学ぶのではなくなぜ戦争が起きるのか、国家・外交・安全保障・人権・民主主義・国際秩序と言った複数の視点から生徒自身が考えることが出来る学習であるべき、同志社の行ったのは単なる戦争学習だけだった、と記しています。イエス様は私たちに何がいちばん優先するかを「子供を大事にする」のマルコによる福音書10:15にもしっかりと記されているではありませんか。
就労支援でも私たち支援員が最もしてはいけないこと、それは重荷を背負った利用者から一瞬たりとも注意の目をそらすこと、しっかりと彼ら彼女らを見守ることを怠ること、です。こんなことを思いつつ今日の聖書の箇所、「愚かな金持ちの譬え」の箇所です。
13-15節:貪欲と有り余るほどの財産では人の命はどうすることも出来ない、なんでもできると一瞬神さまを忘れてしまう。「貪欲」とはお金や目に見える財産を所有する、これは偶像崇拝であり、神さまを忘れる行為、とされる。16-19節:金持ちの譬え、豊かさの強調を、作物を保管するもっと大きな蔵(倉庫)を建てて穀物や財産をしまって何年も先まで蓄えをして、飲み食いしたリして楽しみ自分のことしか考えない、と記される。20-21節:自分のことしか考えられず、神さまを忘れた者になる、わたしたちの命は神様から与えられた大切なもの、その命を返えさざるを得なくなります。
売り上げを追いかけていたサラリーマンだった頃、「新しい商売をぜひ見つけてくれ。色々とサポートするから。」と言葉を発する上司、その言葉に感化されて開拓・新商品と企業戦士だったわたしは一生懸命に働きます。新しい客先の獲得、新しい商材の開発と売り込みの成功はその当時の営業マンとしてはいちばんの達成感でした。学校の試験でいい点をとったような感覚に酷似していました。商材の展開に失敗したこともあり、そんな時は多少なりともクレームが発生します。上司をして私たちを守ってくれる、と期待したことは見事に裏切られます。“受注をでかした、でかした”と称賛することばかりでこの上司は手柄が欲しかった、その一点に於いて部下を利用しただけでした。負の出来事には部下を悪者にして自らはフェイドアウトしようとする場合もある、そこそこの有名な国立大学を出ていてこのざまです。
わたしたちの本当の賢明さとはどのようなものでしょうか。はっきり言ってわたしは聡明ではありません。感情の起伏が激しく人と比べて背伸びばかりしていたかったサラリーマン時代、その本人がこの檀上に於いて聖書のお話をしていますが、心が迷い自分が愚かになるときは今でも変わりません。自分が愚かになるときに神様の御言葉を自らに語りかけ様々な物事に対する冷静な目をもつこと、悲しみに遭ったとき、主の福音を自らに語りかけて立ち直ろうとすること、このことを大事にするその心構えをわたしは大切にしたいと願っています。イエス様が教える、聖書が提示する「賢さ」とは何なのか、ご存じの「コヘレトの言葉」にも様々な賢者のメッセージとして語りかける内容があります。
分別の賢さ…現実の複雑さを見抜いていくこと、
抑制する賢さ…自分の言葉と感情をコントロールすること、
降伏出来る賢さ…不条理を前にして受け容れる強さ
愛の知恵…己の弱さを知り、他者の為に愚直に生きる賢さ
ではないでしょうか。どんなに頑張ってもひとは神にはなれない、しかし神に近づくために何かを課される必要もない。家族や周りの方々を大事にして与えられた仕事に真摯に向き合い生活する、その一点に於いてひとは十分に聖化されています。「受洗した」としてもあとにいっぱい辛いこと、苦しいこと、悲しいことを神様は私たちにお与えになるのだ、と。高齢になってから見えてくるものがあります。歳を重ねてからわかるものやわかることもあります。そこに実は主の大きな「恵み」があるのです。老いを重ねること、肉体は衰えていきますが、スピリチュアルな世界へ臨むことは増していきます。真面目に生きて来た人が突然の病に倒れ、悪賢い人間がのうのうと金持ちとして人生を謳歌する、そんな不条理も直接間接に見て来られた、経験してこられたのではないでしょうか。それはそんな理不尽な世界を見て来たからこそ対峙できる強さが生まれるのです。そのことが本当の「賢者」の第一歩なのかもしれません。おおきな成功や富ではなく、「いま此処にある」日常の生活をイエス様から神さまから与えられたことを感謝して受け取ることこそが最も「賢者」なのではないか、と聖書は教えていると思います。
2026年6月29日月曜日
2026年 7月5日(日)礼拝ライブ配信
時間:10時30分~
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より
■シモンの述懐 ①
あの日、いつものように網を打ってたら、突然あの人から声をかけられたんや。そもそも話したのは初めてで。でも、あの人が大工のヨセフのところの長男てことは知ってて。それと、弟や妹たちとは父親が違うのもここらの誰もが知ってる話でな。誰かが「マリアが聖霊によって身籠って生まれた子」といってバカにしたから、それから俺たちはあの人のことを「神の子」て呼ぶようになって。
そんなんやから、あの人は父親や兄弟と折り合いが悪くて、長男やのに家業も手伝わんと、ずっと湖の畔をブラブラしてた。俺とあの人は同い年で、俺たちは15くらいの時にはもう一人前に船に乗って魚を獲ってたけど、そのころからあの人は独りで、朝から晩まで、ときには焚火しながら一晩中ここにいた。家に帰っても居場所がなかったんやろな。どこに行っても「神の子や」てヒソヒソ言われて指さされるしな。きっと湖の畔が一番ほっとできる場所やったんやと思うわ。
■シモンの述懐 ②
俺が30歳になった年に、あの人が突然バプテスマのヨハネていうこれまた変わり者に弟子入りして、川の中に沈められる儀式を受けたらしいねん。その噂をきいて、俺は弟のアンデレや、ゼベダイの親父のとこのヤコブやヨハネと、「あの神の子に何が起きたんや?どないなったんや?」て噂しとったんよ。その矢先の、あの日、あの人が突然現れて、「俺についてこい。人間を獲る漁師にしたる」ていいよったんよ。
え?今まで見たことあるけど喋ったことのない奴に突然「ついてこい」て言われて、何でホイホイついていったんや、てか?
それはな、あの人が、俺らをまっすぐ見てくれたからや。俺らは決められた時間
に礼拝することもでけへんやん。安息日でも関係なく獲れるときに魚を獲るやん。
俺らは読み書きもでけへんし、貧しいし汚いし臭いし。そんなんやから、街に出ても誰も俺らをまっすぐ見てくれへん。俺らなんかそこに居てへんような扱いをしよるやろ?
そんな俺らをな。あの人は、まっすぐ見たんや。まっすぐ見てくれたんや。まっ
すぐ見て声をかけてくれたんや。俺な、あの時、「ああ生まれてきてよかった」て思えてん。「ああ生きててよかった」て思えてん。そんなことを思わせてくれた人が「俺についてこい」ていうてくれたんやで!そりゃ一緒に行こう!てなるやろ?!
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