時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
説教=「わたしたちを誘惑からお救いください」
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』1 章12~15 節
(新約68頁)
讃美= 21-287(272).21-514(449).21-26.
【説教要旨】
讃美= 21-287(272).21-514(449).21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
ライブ中継のリンクは、
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説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。
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方法は、こちらのページをご覧ください。
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人の子イエスが出遭った「荒れ野での誘惑」の物語。これは『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』では実に劇的な筆致で描かれていますが、本日の福音書の箇所では「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と実に一刀両断の意気込みであたかも事実のみを描こうとする意志のみを見いだせるというもの。そしてその後も「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」としか記されません。ヨハネの捕縛には『ルカによる福音書』も物語としては描きますが、本日の箇所ではこの出来事もまたごく僅かに描くのみです。「石をパンに変えてみよ」「わたしにひれ伏せばこの国々の権力と繁栄を与えよう」「神殿の端から飛び降りてみよ」という実に劇的な描写とは異なります。あくまでも『マルコによる福音書』の書き手集団は、メッセージをより多くの人に伝えようとする工夫を控えて聞き手の相手の射界を広げずに、事件だけを直球で投げ込んでまいります。逆に申しあげますと、他の福音書と比較すると、この事件が淡淡と描かれるほどに、事の重大さを推し量ることができようというものです。
一例を挙げますと『新約聖書』で「サタン」と記される言葉と「悪魔」との言葉をわたしたちは一緒くたに扱いがちです。しかし「悪魔」とは端的にその邪悪さを体現しているのに対し、「サタン」とは「試みる者」として『旧約聖書』以来物語に描かれてまいります。『ヨブ記』では義人ヨブを試みるサタンを神が統御しているのに較べますと「悪魔」とは実に無責任であり、独占的な欲望をそそり、悪の道へと誘うようでもあります。ただし、本日の箇所では「サタン」つまり「神の統御にありながら人を躓かせようとする者」が人の子イエスを誘惑しています。単に邪悪な者との関わりよりも、我知らず人を躓かせ、誘惑しようとする者のほうが恐ろしく思えます。なぜならその誘惑は分かりやすい具体的な手段を繰り出してくるからです。また時には自らも気づかずに幾ばくかの善意を含んでいるからです。
2月から3月にかけ、わたしたちのライフステージは周囲の生活環境も含めて一気に変わります。新しい学校、新しい教室、新しい職場、新しい暮らし。場合によれば何もかもが自ら培ってきた経験則が通じない局面に向きあいます。そのような状況に衝突したとき、わたしたちは失敗し傷つきたくないために、自分の願いに叶った手段や力を借りようとします。耐え忍ぶことすらも辛くなり落ち着きを失います。『イザヤ書』30章15節に「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった」とある通りです。それでは、この「静かにしている」「安らかに信頼している」とはどのようなあり方を示すのでしょうか。実際には身動きもできずにオロオロするだけでしょうか。確かにオロオロするのもまた道です。しかしそのオロオロするその先には、主なる神に備えられた現実を前にして沈黙して神に祈りを献げるわざがあります。そしてひたすら神に信頼をおく基礎に根ざし、人を信頼する態度が備えられます。神に黙して祈りを献げ、世にある猜疑心に飲み込まれる誘いから距離が置かれてまいります。わたしたちの場合にはその誘惑の出来事が瞬時に訪れます。然るに人の子イエスには四十日続いたとあります。人の子イエスを脅かす野獣と称される者も寄ってくる一方で、神の使いが野獣の行く手を阻みます。その結果、キリストに相応しい道が拓かれます。最後の預言者と呼ばれもする洗礼者ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣伝えます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。
教会はこれよりイエス・キリストへの全幅の信頼をおかねば道を切り拓くこと能わずとの年度を迎えようとしています。退く牧師への声もあれば、これより道をいかにすべきかとの声も漏れ聞こえてまいります。しかしその中で、わたしたちもまた新たな荒れ野へと足を踏み出すのではないでしょうか。それは去る牧者は言うに及ばず、いつしか招かれる牧者もまた同じでありましょう。イエス・キリストとともにいたのは野獣でしたが、わたしたちとともにいるのはイエス・キリストです。なぜそのように言えるのか。人の子イエスは一人自ら荒れ野へ赴いたのではなく、神の御霊なる聖霊により困難な状況へと押し出されていったからです。この「荒れ野の試み」の物語の示唆するところは、各々の誘惑がどれほど恐ろしいか、というメッセージではなく、善意の面をまとっているかもしれない誘惑を前にしてなおも神への祈りと他者への信頼を忘れない、主にある落ち着きを教会にイエス・キリストは求めているのです。「わたしたちを誘惑からお救いください」。イエス・キリストの福音に触れた者としてのあゆみを堅くしましょう。






