開場 10:00 / 礼拝開始 10:30〜
こひつじこども園は創立55周年を迎えます。
この節目を記念して、素晴らしいゲストをお招きした特別なイベントを開催いたします。
当日は、福音歌手の森祐理さんをお迎えし、
音楽コンサートを開催します🎵
礼拝のライブ配信を致しました。
日本基督教団泉北ニュータウン教会の聖日礼拝説教要旨を掲載。
ホームページは、 https://kohituji.sakura.ne.jp/
2014年度以前の説教要旨は、こちらからご覧になれます。
開場 10:00 / 礼拝開始 10:30〜
時間:10時30分~
動画は1種類です。
動画は1種類です。
復活節第3主日礼拝
動画は1種類です。
今週とても悲しい出来事を私たちは報道で知りました。京南丹市の男児遺棄事件、犯人は亡くなった安藤結希さんの父親でした。何故その命まで奪うことしか選択肢がなかったのか、何故そのように考えて実行してしまったのか、理解に苦しみます。その理由、わたしの愚息(息子)がステップファミリーだからです。お話は控えますがそのうちの一人は足が不自由、今の私の車は福祉車両仕様になっています。「いのちの大切さ」を思うとき、何故将来のある子供に手をかけてしまったか、この犯人の動向を静かに見守りたいと思います。今回の御言葉の箇所、「マリアの賛歌」としてマリアが天使から「受胎告知」を告げられ、神を讃美する場面から始まっています。46節、47節、註解書によれば、この部分はサムエル記上の「ハンナの歌」に酷似しています。この箇所多くの牧師説教に登場してきた箇所ではないでしょう。「ルカ福音書」のこの箇所の賛歌はユダヤ人キリスト者によって採用されたとされています。そのユダヤ人キリスト者は清貧精神を持っていたとされています。(旧約聖書「サムエル記上」2:1-10の箇所は神から与えられた子宝に対して感謝の喜びを表しています。)48節の「神の恵み」を頂く、「自らを主のはしため」として、前段38節のマリアの天使への言葉、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」マリアは若く貧しい女性でしたが神に選ばれて処女降臨という壮大な神の御計画、そして身分が低くても神は必ず恵みを頂けるのだ、ということを連想します。51-53節、この箇所は神による「人の運命逆転」を表すイエス様の説教にはたくさん出てきます。ひとはどんな境遇の人であろうと神との関わりが出来た時その人がどれほど小さくても神から力を与えられ強くされます。マリアは神からの憐れみを受け容れるその覚悟と全く神を信じるその「信仰」によって神からの力がおおきく働くとこの箇所は教えています。イエス様の誕生そのものが馬小屋で生まれる、劣悪な環境と言ってもよい最も低くされた場所、イエス様は様々な奇跡を起こし十字架に架かる、まさに「清貧イエス様の運命」をそのまま表しています。この箇所の中心は人間には神の力によって「逆転する」ことが起こる、そこに「恵みがある」と言うことです。「弱さ」は「強さ」との二律背反、です。ひとは、「力」や「財産」や「地位」を求めれば私利私欲に溺れて最後は何も見えなくなるのではないか、だから「神とともに生きることを求めて行かねばならない」ことを聖書は教えてくれていると思います。註解書では「旧約聖書サムエル記上」と同じく「サムエル記下」でも『「神によるひとの運命的な逆転』」を記しています。それは社会の中で低い場所に置かれた人びとは神の力によって大きくされ、世界の中心に置かれると聖書では言っています。そこに実はキリストがおられるのだ、といっています。
しかし、私たちには必ず注意が必要です。貧しい者からと富める者への逆転は神がなさること、人間の力でその逆転を期待し実現することは、あくまで人間の欲であり、危険な状況を作り出す場合があるということです。神の力によって逆転が起こりひっくり返るときがくる、すると相手に対して一種の「復讐」に似た思いが「罪」(原罪)としてでてきます。
本当の「逆転」は起こってしまっては遅いのです。「神が裁きを起こす」そのことに身を委ねるしかよく見極め真摯に対応するしかないのです。Co2削減に反対する新興国からの地球温暖化問題、ロシアのウクライナに対する「特別軍事作戦」、もう4年を優に越えました。パレスチナ「ガザ地区」へのイスラエルの攻撃、今まで「弱い」とされてきた立場の人間が立ち回ると必ず「いびつ」に逆転してはいないでしょうか。 逆転が更なる不幸な状態を作り出してはいないでしょうか。この「逆転」は神さましか出来ないということを本当に真摯に受け止めていくことがこれからに向けて最も必要なことではないかと思います。
復活節第2主日礼拝
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| 吉村厚信伝道師 |
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| 当日の礼拝風景 |

―受難節第6主日礼拝―
――棕櫚の主日礼拝――
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
本日の聖書箇所、「ヤコブの手紙」の「ヤコブ」とはヘブライ語で「出し抜くひと」「かかとをつかむ者」、を意味します。旧約聖書創世記に登場するヤコブはアブラハムの子イサクの次男として出て来ます。聖書ではヤコブの名前はたくさん出てきます。最も可能性のあるのが主イエスの死後に書かれたとして兄弟とされているヤコブとされています。その内容は「行動が大事」と強調しています。この「ヤコブの手紙」には二つのことが神学的に主張されています。ひとつ目は「信仰」についてです。行いを軽視した「義」の誤った教えを持った人々への戒めだと思います。ふたつ目は「貧しさ」と「富」についてです。神さまはこの世で低い地位でも高い地位を与え、富める者には謙遜が無い限りその者を低くされる、この逆説は「ルカによる福音書」にも出てきます。25節で「自由をもたらす完全な律法」は「束縛」を強いるものではなくキリストの十字架ゆえの自由が神によって定めた律法、すなわち「福音」を置き換えています。その律法が守られ実行される限りそのひとは幸せになれる、とされます。26節舌を制御できないことは「ヤコブの手紙」第3章にも詳しく述べられています。ひとは言葉を制御することは極めて難しい、言葉は神から与えられたものですが、同時にその言葉によって自らを正当化したりその場を取り繕ったりしてしまうようなことはないでしょうか。15日日テレ「バンキシャ」で東日本大震災直後悲嘆にくれた宮城県南三陸町住民の大事な身内を失ってしまった悲しみに暮れた方々の心に力を与えたのがお互いを支え合う「行動」でした。祈りに合わせて「行動」することが大きな力になることを教えています。
「ヤコブの手紙」の著者が想定している相手は、先ず「イエスの教えについて語る弟子」たちのこと、わたしも「教師」ですのでこのことを真摯に受け止めます。教師たちは「自家撞着(=自己矛盾)に陥らない」努力を続けねばなりません。使徒ペテロはイエスのいちばんの弟子だと誇っていざイエスが捕まってみるとマタイによる福音書27:69-75「そんなひとは知らない」を繰り返し述べイエスの預言通り大きな後悔を残します。信仰の本当の意味は、弱い悲しいことこそ仲間がいる安心や満足を持つそれが大きな「恵み」になる、イエスの苦しみを味わったその次に来る大いなる喜びがレントのイエスの十字架は希望の初穂ではないでしょうか。
「ブレストワークス」という名前の就労支援作業所で働いています。「祝福される(blessed)働き」の意味の他に「神の聖霊(God‘s breath)の働き」と言う意味にも取れる作業所です。 知的身体的精神的重荷、彼らを支えようとする重荷、看取りをしようとする重荷、神さまが本当の牧会を問われています。
来たる主イエスの再臨に向けて信仰を見つめ直すような時間を共にさせて頂いたことを教会の皆さんに感謝します。