2026年6月23日火曜日

2026年 6月28日(日)礼拝ライブ配信

 時間:10時30分~

 

説教=「賜物を活かして生きる」
井上良作 牧師

聖書=イザヤ書41章8-10節(旧約1126頁)
マタイによる福音書25章14-30節(新約49頁) 

讃美=讃美歌21 303番、404番 
頌栄=
頌栄21-27
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
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【説教要旨】

「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持って いるものまでも取り上げられる。」(マタイによる福音書 25 章 29 節)

はじめまして。井上良作と申します。
今朝は、泉北ニュータウン教会の礼拝にお招きいただきありがとうございます。
本日の聖書箇所は、おそらく皆さんがよくご存知の、「タラントンのたとえ」というイエスがなさったたとえ話です。『天の国はまた次のようにたとえられる。』(14節)とあります。神様は私たちの人生の後に天国へ招いてくださるというのだけれども、それは今この人生をどんなふうに生きるかということと繋がっているということです。
『ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。』(14、15節)

「ある人」には僕が三人いました。この主人と僕との関係は神様と私たちの関係をたとえています。主人はそれぞれの僕の「力に応じて」異なる額の財産を預けました。「タラントン」というの当時の通貨名が「タレント」、「才能」、「賜物」という言葉になっていることはご承知のことと思います。では、このタラントンというお金がどれくらいの額かと云うと、一タラントンは六、〇〇〇デナリオンに相当します。「デナリオン」はいくらなのかと云うと、「ぶどう園の労働者のたとえ」では、雇い主が労働者を一日一デナリオンの賃金で雇っています。今日の日本で考えて、労働者一日分の賃金が大体一万円ということにしましょう。一タラントンは六、〇〇〇万円、二タラントンは一億二千万円、五タラントンは三億円という大変大きな金額になります。たとえ、一タラントンだとしてものすごい大金です。この主人は大変な大金持ちです。
『早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。』(16~18節)
二人の僕は預かったタラントンで「商売をして」、さらに儲けて預かった額の倍にしました。彼らは「商売=ビジネス」を起こしたということです。“business”は“busy”の名詞ですが、“busy”とは「空いているところを埋める」というような意味です。電話が話し中でふさがっているときには、“The line is busy.”と言われます。世の中の欠乏、人々の必要を満たしていくことが“business”です。二人の僕は主人から預かったお金を用いてそのようにビジネスしました。そこへ主人が旅行から帰って来て、僕たちと清算をしました。五タラントン、二タラントンの僕たちはそれぞれ預かったお金を倍の金額にして主人に返したところ、主人はたいそう喜んで、『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』(21、23節)と言いました。
ところが、一タラントンを預かった僕は何もせずに、ただ穴を掘ってそのお金を隠しておきました。そして、旅行から帰った主人に、預かったお金をビタ一文違えること無く返しました。すると、主人は非常に怒って言いました。『さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』(28~30節)
このたとえ話を理解する鍵は、一タラントンの僕が主人に報告するときに言った言い訳に秘められています。彼はこう言いました、
ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』(24、25節)
一タラントン預かった僕と他の二人の僕たちとの決定的な違いは、一タラントンの僕だけが主人に対してとても否定的なイメージを持っていたということです。「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める」という最悪な主人ですから、自分が何かやったらきっとダメ出しされる、叱られるに違いない。だから、文句を言われないように預かったお金には一切手も触れず地面の中に隠しておいた。
ところが、他の二人は異なります。彼らには主人に対する否定的なイメージは一切無く、むしろ非常に肯定的なイメージしか持っていませんでした。だから、何とかして主人を喜ばせたい。主人から預かったお金を役立てて何かをすれば主人はきっと喜んでくれるだろうとワクワクしました。彼らには恐れや不安や疑いが全く無かったのです。主人に対して抱いているイメージが僕たちの命運を決定的に分けました。はじめに言いましたように、主人と僕の関係は、創造主である、父なる神様と私たちとの関係を表しています。主人に対して持っているイメージが僕たちの人生のイメージとなりました。同じように、神様に対して持っているイメージがあなたの人生のイメージとなるのです。

創造主である父なる神様は私たち人間すべてを愛し、罪と滅びから救い出し、永遠の命を与えるために、御自分の独り子であるキリスト・イエスを十字架で死なせられた方です。私たちに本当の自由を与えるためなのです。

2026年6月14日日曜日

2026年 6月21日(日)礼拝ライブ配信

時間:10時30分~

 

説教=「もっとお気楽に~♥」
鈴木 ゴリ 宣仁 牧師

聖書=ヨハネの黙示録1章8節 

讃美=21-18 21-425
頌栄=21-27
 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
■先頭を行く者の辛さ
1. 家族や仲間、チームや組織を率いて先頭を進むとき、私たちは責任の重さに圧し潰されそうになります。

2. 右の道を行くか、左の道に進むか、あるいは目の前の急斜面を藪を掻き分けながら突破するのか。判断が誤っていれば、自分を信頼して従ってきてくれている人々の命を危険に晒す可能性があるときなど、なおさら躊躇し立ち竦んでしまいます。

■殿(しんがり)の辛さ
1. 登山でパーティーを組んだとき、その最後尾(殿/しんがり)には最も経験と体力がある人が付くのだそうです。何があっても誰一人その場に置き去りにしない覚悟と実行力がある人が「殿」を務めるのです。

2. 突然の戦禍に巻き込まれ、住み慣れた街から逃げ出さなければならなかった方の言葉。「私たちの生命と財産を奪おうとする武装した者たちが、難民となった私たちの後を追ってきていた。幼い子ども、乳飲み子を抱いた母親、足が弱った高齢者、戸板に寝かされたままの病人、そのような家族のすべてが生き延びられるように、私は逃避行の群れの最後尾を守り皆の盾となったのです。」

■アルファ(先頭)とオメガ(殿/しんがり)はイエス
1. 今日の箇所には「イエスがアルファ(先頭)でありオメガ(殿/しんがり)」だと書かれています。私が先頭に立ち、分かれ道で逡巡し立ち竦むとき、実は私の目の前にはイエスの「頼もしい背中」が見えているのです。

2. 全員が生き延びて目的地に辿り着くには、メンバーの消耗が激しすぎる。そんな絶望的な道行きの最後尾にいるとき、振り返ってみるとそこには私を赦し支えるイエスの「包み込むような笑顔」があるのです。

3. 無責任や他責は困ったものですが、逆に責任感が強すぎる・自分を責めすぎることもイエスは望んでおられない。「私が先を行く。心配せずについておいで。私が殿を守る。あとのことは任せておけ。」と背中と笑顔で伝えてくださるイエスに「委ねる」道が残されていることに感謝したいのです。

2026年6月7日日曜日

2026年 6月14日(日)礼拝ライブ配信

時間:10時30分~

 

説教= 「恵み」    
吉村厚信 伝道師

聖書=コリントの信徒への手紙Ⅱ 第12章9~10節 

讃美=「神のかぞく」「ワ・ワ・ワ一緒に」「うたいましょう」


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【説教要旨】 
本日の聖書箇所、以前「弱さ」をテーマの箇所として話しましたことがありましたが、今日は皆さんに「恵み」としてお話をします。第 9節に「恵み」と出てきます。「わたしの恵みはあなたに十分である」とあります。キリスト教を広めようと宣教をするイエスさまの弟子 (使徒)パウロの周りには様々な迫害があり、また自分が持っている身体の病気との闘いもありました。 この聖書箇所の前のところで体に刺さる「とげ」と言う言葉が出てきますが、そのいじわるや自分の病気のことを「とげ」が刺さった 痛いときの感覚として聖書は表現しました。 パウロはもともとキリスト教徒をいじめる側のひとでした。だけどイエスさまに出遭ったことで今度は命がけでイエスさまの教えを伝えます。いじめられる側になっても教会を建てて、イエスさまの教えを守ろうとする人に変わりました。

そのパウロの「恵み」は周りからいじめられる、自分の病気を持ってしまう、そんな苦しい周りや自分の環境の中でも「恵みは十分だ」と言います。それも自分が弱いとき 悲しかったり辛かったりのときでも神さまからの恵みは十分なんだ、といいます。

この本当の意味は、いつも自分の願い事がかなうことばかり追いかけると、そういう風に祈らないとやっていけない自分の精神的な弱さや自分に対しての限界がある、ひとより強いこと、ひとと比べて優劣をつけることは必要なのでしょうか。本当の弱さとは、弱さをそのまま認めることで神さまの「恵み」に満ちて神さまが働いてくれる、そのことを信じることです。神さまはお一人お一人に異なる可能性と才能を授けてくれます。マルコによる福音書10:13-14には、子どもであるみなさんの存在自体が素晴らしいとイエスさまは仰っておられます。自分たちの限界を決めつけるようなことを考えなくとも、そのことを知ることで実はもっとおおきな強さや力を、イエスさまを通じて神さまは皆さんに与えてくれます。それが大きな「恵み」です。自分ひとりだけではとても不安になったりしてイエス様を忘れてしまいます。 弱いときこそ周りに支える方がいることで安心を感じる、そのことに感謝し、そして最も大きな「恵み」、イエスさまは、しんどい、辛い、悲しい、そう感じるときに必ずあなたたちの傍らに居られます。そしてうれしい、楽しいときも、イエス様は皆さんの傍に居ながら隠れてみていてくれます。イエスさまはあなた達お一人お一人の道をいつも照らしてくれています。

いつも神さまは皆さんにその道を照らしてくれる、だからそのままの皆さんでいて、そして皆さんが素直にイエスさまを見ていてくださることを願います。


2026年6月1日月曜日

2026年 6月7日(日)礼拝ライブ配信

時間:10時30分~

 

説教= 「原点」    
吉村厚信 伝道師

聖書=ルカによる福音書 第4章1~13節

讃美=21-343 21-346
頌栄=21-27

    
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

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【説教要旨】
現在のイラン・アメリカの戦闘状態の影響で、中東からの原油に大きな支障が出ています。「ナフサ」が足らなくなり、ガソリン供給にも不安があるなど、以前のコメ不足も彷彿させて何か豊かさが失われていくようです。自分勝手なイデオロギーや権力主張から紛争が起こっても何もよいことはありません。日本は株価が6月1日で6万円台を超え会社員現役の頃の7年前2019年の3倍近い株価で経済は非常に活発に見えますが、色々な商品値上げなど一生懸命働いていても良い方向に向かっているように思えません。

今わたしたちを照らす電機の照明も化石燃料から供給された電力や生活を支えるエネルギー、そこに前述のイラン・アメリカの戦争同様人間の欲望も見え隠れしています。本日の聖書箇所は、「サタン」の様々な誘惑に対して聖霊に満ちたイエス様が対峙する、その場面では私たちがよく耳にする聖書の言葉が登場します。「サタン」は一神教の下で神や人間に敵対する悪魔的な存在を指します。キリスト教神学で「サタン」は神に対して謀反を起こした堕天使で人間を誘惑し、特にカトリック教会では教会を滅ぼそうとするものとされてきました。

1-4節:イエス様は受洗のあと、聖霊に導かれて荒れ野の中で40日間悪魔からの誘惑を受けますが、申命記9:9にありますモーセの四十日間四十夜断食をしたことを彷彿させます。悪魔からの石をパンにする誘惑、註解書では「パン」を「マナ」に変えるような内容に対して、イエス様は有名な一節「人はパンだけで生きるものではない。」「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」といいます。5-8節:悪魔がイエス様を高い山に連れていき、世界のすべての国々、当時のローマ帝国の世界の権力と繁栄をイエス様に与えようという誘惑をイエス様は「ルカによる福音書10:22」「すべてのことは父からわたしに任せられています。」異教徒たちへの宣教のメッセージとして「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と信徒と教会への励ましをも表されています。9-12節:エルサレム、この地名が明確に示されたことでイエス様の受難の死から復活された最後の勝利が示されています。悪魔はそこでイエス様にメシア(=神)であることを示せと試みを要求しますが、イエス様は、「主を試すな」と一蹴します。

13節:悪魔の誘惑はイエス様の受難のときがくるまで、「イスカリオテと呼ばれるユダの中にサタンが入る」までイエス様を離れます。

この聖書箇所はイスラエルの民が神を信じなかったがゆえに神からの信頼を失い、荒れ野の旅を全てイエス様への悪魔の都合の良いようにイエス様を誘うその誘惑=試みに遭わせず、イエス様が悪より救い出す、その場面を表しています。

先週の井上牧師からの御言葉をお聞きして、ひとは「聖人」になることではなく、「キリストを信仰せよ」の意味が「きれいなものを見てきれいなことをせよ」、とのメッセージだったと思います。どんなに頑張ってもひとは神にはなれません。しかし、自身に神に近づくために何かのノルマを課される必要もありません。家族や周りの方々を大事にして与えられた仕事に真摯に向き合い生活する、その一点に於いてひとは十分に聖化されているのだと思います。バプテスマ(洗礼)はわたしたちが神の子となる大きな機会を神様から頂くことですが、「受洗した」としてもあとにいっぱい辛いこと、苦しいこと、悲しいことを神様は私たちにお与えになります。ご存じのパウロ書簡一節をお読みします。「コリントの信徒への手紙一 10: 13」「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」苦しいとき、悲しいときにひとは必ずと言っていいほど天を仰ぎます。神さまを仰ぎます。そしてまた前を向いて歩きだす。不完全で足らないけどそれでよいのです。教会共同体で共に神様の方向を向いて共に歩み努力する、ときに受洗者という果実=同じ方へ歩もうとする仲間を神様から頂く、それが本当の神様から「洗礼を施された」という意味ではないでしょうか。18世紀のドイツの自由主義神学者フリードリヒ・シュライエルマッハーは、自らの著書『宗教論』の中で、「宗教の本質は知識や行為ではなく、直観と感情」と記しました。「神さまがわたしたちの中に着床される」という感覚、シュライエルマッハーの神学思想は、人の外側の超越的な存在、その存在への畏怖の念ではなく「人間自身の中に存在する」のです。人間は生まれたときは無垢できれい、それが様々な紆余曲折を経て経験した辛いことや悲しいことからあくまで「ひと」として学習していっぱい鎧兜を身に着けてしまいます、財産、地位、そして保身、それが本日の「サタンの仕業」だとしたら、神さまが着床してくれたことで、サタンに誘惑されて悪の方向へ向かうことを自ら止めて、神さまと同じきれいで前向きな気持ちが自然と自らの中に芽生える、そんな感覚になるのではないでしょうか。

この感覚が神さまからわたしたちに頂いたまさに「原点」になる、と聖書は教えてくれています。

2026年5月24日日曜日

2026年 5月31日(日)礼拝ライブ配信

時間:10時30分~

 

説教=「キリストを見るために」    
井上隆晶牧師

聖書=創世記3章8~13節
ルカによる福音書19章1~10節

讃美=21-18, 21-432
頌栄=讃美歌21-29番  
  
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

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【説教要旨】
①【イエス様を見ようとしたザアカイ】
エリコの町にザアカイという徴税人の人がいました。このザアカイが、なぜか「イエス様がどんな人か見ようとした」というのです。それは、自分と同じ徴税人を弟子にしている人がいるという噂を聞き、そのイエスというお方に興味が湧いたからだと思います。イエス様を見るために出かけたのですが「背が低かった」 (19:3) ため群集に遮られて見ることが出来ませんでした。しかし彼の中のイエス様を見たいという思いは収まらず、何としても望みを果たそうとします。彼は走っていって先回りし、いちじく桑の木に登り、その葉の影からイエス様を見たのです。私はこの物語を読むと、エデンの園のアダムを思い出します。その昔アダムは神の顔を避けて、園の木の間に隠れましたが、ザアカイはその神の顔を見るために木に登りました。ここに人間の回復の始まりを見ます。私たちがどんなに罪深くても、それは神と出会うための障害になりません。本当の障害は、罪深さではなく、キリストに期待しないことです。

②【回心とは=この世ではなく、キリストを見ること】
この物語には「見る」という言葉が5回も繰り返されています。この物語は「見る」ことがテーマです。人間の五感「視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚」はもともと神を知り、神と交わるための道具として造られました。しかしそれは神に向けられるのではなく、この世に向けられたのです。創世記のエデンの園の箇所で「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け」(創世記 3:6) と書かれています。その木とは善悪の知識の木であり、神が「食べると必ず死んでしまう」 (創世記2:17)と、食べることを禁じた木です。この善悪の知識の木とは神を抜きにしたこの世の象徴です。この世は神よりも魅力的に見え、私たちの目を引き付けます。この世は私たちを喜ばせ、この世の中に命があると思わせます。最初の堕落はこの世を「見ること」から始まりました。 私たちは「食べると必ず死んでしまう」(創世記2:17) という言葉を、軽く聞いています。この世を求めたくらいでは私たちは死なないと思っています。修道士たちは「悪魔は穴が空いたところから入って来る」といいましたが、目からは汚れた映像、耳からは汚れた言葉、口からは過度の飲食が入って私たちの魂は汚れてしまうのです。しかし教会に帰ると私たちの五感が神に向かって正しくリセットされるので人に戻ることができるのです。イエス様はいちじく桑の木の下まで来ると足を止められ、上を見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19:5) 驚くべきことに、イエス様の方からザアカイに声をかけられました。ザアカイは自分がイエス様を求める以上に、イエス様が自分を求めていたことを知りました。ザアカイは急いで木から降りてきて、喜んでイエス様を家に迎え入れました。

③【私は、本当は美しい】
イエス様は「この人もアブラハムの子なのだから」と言われました。私たちはみな神の子なのです。 昔の教父たちの言葉を借りるなら「わたしは黒いけれども愛らしい」(雅歌1:5)のです。「罪は私の一部であって全てではない、私は、本当は美しいのだ」と言いましょう。罪も死も病気も私たちの本性ではありません。後から着いた習性です。イエス様は私たちの中の美しいもの、神がお造りになった本当の私を信じ、見ていてくださいます。そこがキリストとつながった時、必ず開花するのです。北陸学院高校の教務教師である高田恵嗣(けいじ)牧師は、「きれいなものを見る、きれいな言葉を聞くことは力になるのです。綺麗ごとを言うな!というけれど、綺麗ごととは、人の本来あるべき姿なのです。そこを目指して生きようと思えるのです。教会は人のあるべき姿を語り続ける場所でありたい。」と言われました。神が人になったのは、人を神に似た者にするためです。キリストの愛と創造の業に期待しましょう。主は必ず、私の中に眠っている美しいキリストの似姿を開花させ、主に似た者に変容させてくださるでしょう。

2026年5月17日日曜日

2026年 5月24日(日) 礼拝ライブ配信

【ペンテコステ礼拝】

時間:10時30分~

 


説教題=「聖霊の業である教会」    
池田清樹牧師 

聖書=コロサイの信徒への手紙 1章24~29節

讃美=讃美歌21-204番 、412番
頌栄=讃美歌21-29番

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礼拝当日、10時30分より

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【説教要旨】
教会は聖霊なる神のお働きによって生み出され建てられる。

私が泉北栂教会において、特に心にとめたことは、人と人とのつながりを結んでいく努力です。

教会がどれだけほっとできる雰囲気づくりができるかを心がけていきました。

教会とは、基本的に何より愛の交わりです。

1989年9月23日 第一回目の会堂建築委員会が発足しました。その時私は週報にこう記しました。

「神は必ず私達の祈りに応えてくださる。信仰とは常に現実を見ることではなく、神にある可能性を仰ぎ見ることです。私の頭の中には十字架がそびえ立った教会のイメージが描かれている。」

1995年5月31日、泉北栂教会の会堂は一億円の資金で建ち上がったのです。そして、その際の東梅田教会からの7,000万円の借金は、教会員の献金で18年間で完済しました。


2026年5月10日日曜日

2026年5月17日 礼拝 ライブ配信

時間:10時30分~

 

説教= 「lose & lose」    
鈴木 ゴリ 宣仁牧師

聖書=旧約聖書 ヨシュア記2章1節
新約聖書 マタイによる福音書1章1~11節

讃美=讃美歌21-18番、425番
頌栄=讃美歌21-29番  
  
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は1種類です。

教会のYouTubeチャンネルは、こちらのURLです。
https://www.youtube.com/@senboku.newtown.church
※原則、ライブ中継のみとなります。当日用の新しいURLは、こちらのホームページの説教のページに、その都度掲載してまいります。よろしくお願いいたします。


礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
■win-win の関係は本当に正しいのか?

1. 田中正造と足尾銅山鉱毒事件~winner 「勝ち組」としての道を歩めたのに

正造は1841年12月15日、今の栃木県佐野市の庄屋家に長男として生まれた。 衆議院議員になった1890年(49歳)、渡良瀬川の大洪水がきっかけで足尾銅山鉱毒事件が発生。1891年(50歳)、第二回帝国議会で「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」という憲政史上に残る大演説を行い、利益を得るため政府と大企業が結託し、農地を荒廃させ農民の生活を破壊したことを猛烈に批判し責任を追及した。しかし政府と大企業が責任を取らず、鉱毒事件をなかったことにしようと画策し続けたことから、1901年(60歳)明治天皇に直訴しようと試みる。しかし官吏に取り押さえられ失敗。議員辞職。歴史の表舞台から姿を消した。


2. その後の正造 ~loser 「負け犬」としての道を選んだ 

1904年(63歳)、正造は国策として貯水池として水没させられることになった谷中村に移住。 1908年、谷中村全域が河川地域に指定され、1911年には旧谷中村村民の北海道への移住が始まる。この間、政府のやり方に反発し北海道への移住を拒否した旧谷中村住民たちと共に、旧谷中村貯水池で船上生活を送る。高みからの支援ではなく、住民に学ぶ共生へ。 1913年9月4日(71歳)、胃癌のため逝去。財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、その時持っていたのはボロボロの頭陀袋1つ。その中に帝国憲法とマタイ伝の合本、日記3冊、小石3個、川海苔、鼻紙があるのみだった。谷中村村民に倣い、「負け犬」の如き晩年を選んだ正造は、イエスのように生きたいと願っていたのではないか。 
※参照 林竹二著「田中正造の生涯」(講談社 1976)


■マタイがこの系図に込めた思い ~血筋や地位ではなく

1. 系図に登場する、歴史を繋いだ四人の女性たち

①3節 「タマル」 娼婦に化けて男(ユダ)の子を生んだ外国人女性 創世記38:1~26 
②5節「ラハブ」 イスラエルを救った敵国の遊女 ヨシュア記2:1~24 
③5節「ルツ」 1人残された姑を見捨てず支えた外国人女性 ルツ記1:1~4:22 
④6節b 「パテシバ」 ダビデ王に夫を謀殺され権力に支配された妻 サムエル記下 11:1~27

2. loser と共にloser として生きる道を選ぶ

四人の女性は、外国人差別にさらされ、貧困に悩み、権力による支配に苦しんだ人たち。勝ち組ではなく社会的に「負け犬」とされた人たち。この女性たちによってアブラハムの家系は存続した。winner 勝者によるのではなく、loser 「負け犬」が紡ぎ績んだ歴史、とマタイは理解した。 さらに、イエスは、そのような家系の末裔ヨセフとは血のつながりがないという。そして極めつけは「イエスはすべての人の奴隷となり、奴隷となって死んだ」。
「誰が一番偉いのか」で紛糾し、分裂しかけていたエルサレム教会に対して、マタイは、田中正造のように「loser としてloser と共に生きる道を敢えて選ぶ」 「それがイエスに倣うということだ。」と伝えたかったのだと思うのです。