2026年10月25日日曜日

2026年11月1日(日)礼拝ライブ配信

永眠者記念礼拝

時間:10時30分~

 

説教=「赦し」
吉村 厚信 伝道師
 
聖書=マタイによる福音書6章9節〜13節
 
讃美=讃美歌21-533、    21-451
頌栄=讃美歌21-29 

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
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2026年10月18日日曜日

2026年10月25日(日)礼拝ライブ配信

 時間:10時30分~

 

説教=「収獲」
吉村 厚信 伝道師
 
聖書=マタイによる福音書13章44~50節
 
讃美=讃美歌21-412  讃美歌21-419     頌栄=讃美歌21―27 

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【説教要旨】

 いつも私は申しますが、ご自分の家族や周りの方々を大事にして与えられた仕事に真摯に向き合い生活する、その一点に於いてひとは十分に聖化されています。辛いことにも対峙できる強さが本当の「賢い者」、おおきな成功や富ではなく「いま此処にある」日常の生活をイエス様から神さまから与えられたことを感謝して受け取ることこそが最も「賢者」なのではないか、と聖書は教えているとお話ししています。
今日の説教題、『収穫』ですが、「天の国のたとえ」とは実は「隠れた宝物のたとえ」なのです。その宝物とは「聖書」のこと、「収穫」とは与えられた『聖書』からの恵みなのです。
「宗教改革記念礼拝」、ラテン語で「Sola Scriptura」(ソラ スクリプトゥラ)と言う言葉があります。「聖書のみ」という意味です。教理・教会実践・クリスチャンの生活に於いて聖書のみが最終的な権威であることを示します。宗教改革の先駆者 マルティン・ルターはこの主張のためにローマカトリック教会と戦いました。贖宥状の購買と言う行為とその功績に応じて福音がもたらされるということはありえない、万人は聖書によって救われるのだ、ということです。そこに信仰義認(「Sola Fide」(ソラ フィデー)を説きました。
彼は『28箇条の論題』で「自分のうちにあることを実行することで恵みを得られると信じる者は二重に罪を重ねる」「このように語ることは絶望を与えるものではなく、神の恵みを追い求める願いを起こさせる」自分の無力さに絶望を感じると同時に希望も持っている、それはキリストと福音の中に希望を見出せる、ということ、私たちが神に背いても、神は私たちを愛し、私たちのためにキリストを遣わした私たちへの大いなる恵みがあります。修道士だったルターですが、元修道女の女性と結婚します。ニンプシェン修道院の修道女カタリーナ・フォン・ボラ、1525年にルターと結婚します。ルターは元修道士になりましたが、彼が宗教改革に精力的に進めるその夫をカタリーナは家庭を守り、6人の子どもを授かり親戚の孤児も養子として引き受けたとされています。
44節:ユダヤ人たちは家の宝物を壺(ツボ)に入れて強盗やローマの兵隊たちの略奪から守るために地中に埋めました。その土中に埋まった財宝がそのままの状態でのちの時代に発見されたりしたのでしょう。内村はこの畑を「神の畑たる教会」と紹介しました。その当時教会は俗人に踏み荒らすところとなったけれども、まことの福音は教会にありても隠れたる宝、見い出さば喜びのあまりこれをかくしそのものすべてを投じても、これをおのがものとなさんとする」。その例としてマルティン・ルターのエルフルト大学(内村は「エルフルト寺院」)での聖書との出会いを紹介しています。
「神が人間に善行を求めるのではなく、神が人間に近づいて赦す愛と恵みを与えてくれるという福音を発見した」ジョンウェスレーについても内村は言及しています。
45節:古代において真珠は貴重で高価なものでした。「真理」のたとえとして、裕福な商人が一個の真珠を見つけその真珠を手に入れるために蓄えた全財産を手放す話ですが、大事なことは発見した時の驚きと同時にその真珠(真理)を入れるために一切を捨てようとする心、です。
「人はパンのみにて生くるものにあらず。ただ神の口よりいずるすべての言による」
(マタイによる福音書13章45節)
とその真理は今でも変わらないのです。世界唯一の価値高き真珠なのです。
明治時代、西欧列強に対峙するその中にあって、混沌とした現代に通じる信仰の礎が見えるのではないでしょうか。


47節:「教会は、理想の天のホームではない。さまざまの魚を取る網のごときものである。その中によきものも入れば悪しきものも入る。悪しきものはついに焼かれて、善きものは残される。理想の天国は善悪の分別を経てのちに来たる。いまは忍耐のときである。試練のときである。霊魂研磨のときである。いまのときに完全を望んで、われらは失望せざるを得ない。『おわりまで忍ぶはさいわいなり』。「収穫」は播種の期に望むべからず。成長の期に雑草の妨害はまぬかるべからず。信者の希望はここにある。彼の忍耐はこれに基づく。なぐさめよなんじら小なる群れよ」「われらは福音の真理のためにいかなる困難に遭遇するも、あえて失望しないのである」、そののちに大きな「収穫」を迎えることを説いています。
「愚者」になれるのか、それは神さまは自分の愛するひとり子を十字架に付けてまでそれこそ世間では「価値のない者達」を愛しました。イエス様が「価値のない者」とは世間から差別され、罪のある人間のために、という使命のための十字架に架かられたこと、この「十字架の愛を身に背負う者達がキリスト者である」とわたしは思っています。そのことも私たちにとって収穫です。自分への礼讃ではなく神様への感謝や賛美の言葉が自然と出て来るかどうか、私たちが本当のキリストのための「愚か者」になることも私たちの収穫ではないか、と思うのです。
                                     




2026年10月12日月曜日

2026年10月18日(日)礼拝ライブ配信 

時間:10時30分~

 

説教=「いっつも突然すぎるねん」
鈴木 ゴリ 宣仁 牧師
 
聖書=創世記12章1~4節 

讃美=讃美歌21-533  讃美歌21-466     頌栄=讃美歌21―27 

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礼拝当日、10時30分より

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【説教要旨】

■聖書 創世記12:1~4

A)アブラハムが生まれ育った環境

1. アブラムの父テラと三人の息子

■アブラムの祖父ナホル。ナホル29歳のとき、アブラムの父テラが生まれた。ナホルは144歳で亡くなった。(創11:24)

■アブラムの父テラが70歳のとき、三人の息子アブラム、ナホル、ハランが生まれた。(創11:26)

三つ子の記述はないので、それぞれ第一夫人、第二夫人、第三夫人との間の息子たちと推定。

■アブラムの弟ハランには息子ロト、娘ミルカ、イスカが生まれたが、弟ハランは父テラより先にカルディアのウルで亡くなった。(創11:28)

■アブラムの第一夫人はサライ。ナホルの第一夫人はミルカ(ハランの娘)。(創11:29)

■アブラムの父テラ(が何歳の時かは不明だが)は長男アブラムと妻サライ、三男ハランの息子ロトを連れて、カルディアのウルを出発しカナン地方に向かい、カナン地方の「ハラン」に居留。

■アブラムが「ハラン」を出発したのはアブラムが75歳のとき。

このときアブラムの父テラは70+75=145歳。テラはその後60年生きて、205歳で亡くなっている。(創12:32)

2. 巨大都市ウルを離れて流浪の旅に出たのはなぜか? チグリス・ユーフラテス川の河口近くにあるカルディアのウルという当時栄えた巨大都市から離れカナン地方の「ハラン」に移住したアブラムの父テラ。恐らくウルで地位を得、富を築き、豊かで便利な暮らしをしていたであろうテラが何を思ってウルからカナンに向かったのか。ウルでの都市生活を捨てて、遊牧民という流浪の生活に転じた理由は何なのか。

3. さらに75歳になって家族・財産と共に「ハラン」を発ったアブラムに、いったい何があったのか。

B)それはいつも突然に

1. 日本でも、便利な都市生活を離れ、便利さよりも自由を求めて、都会を離れ、中山間地や農村に移住し自給自足の生活や、さらには放浪・流浪の生活に転じる例が増えてきている。私も35年前、バブル期に猛烈に働いて鬱になった経験から、都市生活から距離を置いた。都市生活に疲弊した子どもたちに森を開放し、【遊び】re-creationを保障するのが「使命」だと感じて、森でフリースクールを始めた。「どすこい」もその延長線上にある。

2. しかし、「使命感」と「召命」は別物だ。「使命」は命を使うと書く。なので「使命感」には「自分の命を使うのはこの道だ」「自分はこの一事に命を使うために生まれてきたのだ」といった自らの選択から生じる覚悟を含んでいるように思う。

3. 一方「召命」とは、「命を召す」と書く通り、神様が自分の思いを具体化するために、私やあなたの命を召し出して、その一事に当たらせる、ということだ。私がいくら「これこそが私が生まれてきた理由だ」と使命感に燃えて奮闘していても、神様はある時突然、私の命をとんでもない所に連れ去る。私の使命感なんて関係なく、私の命は神様の手で掴み出され思いも寄らなかった場所に据え置かれる。

4. 「いっつも突然すぎるねん!」「何でよりによって私なん?」「そんなことしたくないのに!」「ずっとここでやってたいのに!」「もっとゆっくりしたいのに!」と、神様に文句をいい、悪態をつきながら、掴み出され据え置かれた場所でまた、一からやり直しますか!?

2026年10月4日日曜日

2026年10月11日(日)礼拝ライブ配信 

時間:10時30分~

 

説教=「愚者」
吉村 厚信 伝道師
 
聖書=ルカによる福音書12章35~48節   

讃美=21-6, 21-528
頌栄=讃美歌21―27 

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礼拝当日、10時30分より

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【説教要旨】

 先週泉北ニュータウン教会は聖餐式と同時に受洗者を与えられました。ご主人を慕うこころから神さまがわたしたちと長屋淳子さんとを結びつけてくださいました。7月12日のメッセージで私は『賢者』という説教題でお話ししました。自分が愚かになるときに神様の御言葉を自らに語りかけ様々な物事に対する冷静な目をもつこと、悲しみに遭ったとき、主の福音を自らに語りかけて立ち直ろうとすること、このことを大事にするその心構えをわたしは大切にしたいと願っています。「コヘレトの言葉」にも様々な賢者のメッセージを語りかける内容があります。分別の賢さ、抑制する賢さ、降伏出来る賢さ、愛の知恵、歳を重ねてからわかるものやわかることもあります。そこに実は主の大きな「恵み」があるのです。おおきな成功や富ではなく、「いま此処にある」日常の生活をイエス様から神さまから与えられたことを感謝して受け取ることこそが最も「賢者」なのではないか、と聖書は教えていると思います。

今日の説教題、『愚か者』ですが、終末におけるキリストの再来への準備をすべきと言う註解書では「警告」がなされたとされています。中にある譬えの意味はいつ主人(イエス様)が帰って来ても大丈夫なように備えなさい、それはイエス様の再臨に対して目を覚まして備えなさい、ではないでしょうか。その「備え」とは何でしょうか。それは神様から任された務めを果たすこと、任された務め、それは神に従うこと、任された務めを忠実に果たすことが出来る僕は神様から褒められる(祝福される)、逆に自分勝手に振舞う僕は厳しく扱われる、その神に従うことによって祝福される神への忠実ではないでしょうか。そこにわたしは「真摯に生きることの深さ」を覚えました。そこに愚直に生きる愚者(愚か者)のイメージを持ちました。

将来を憂いでしまうより、今示されたことに誠実であるように備えよ、という務めを果たすことです。譬えの中心は主人が帰って来たときに目を覚ましている僕、すなわち終末期の到来又はひとの子が来臨されることの覚悟と準備を怠らない僕です。例えば、ルカ22:25「あなた方の中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」ということに繋がりになります。「ともし火」とは真理や神のことばが私たちを照らす光、として聖書では「ともし火」とは出てきますがその火を灯して待つこと、いつ主が来ても良いように信仰と行いを絶やさずに生きること、そのことに尽きるのではないでしょうか。イエス様の再臨がいつ来るかわからないから常に用意が必要であること、ここまでは全ての人々に対して注意喚起しています。41節からペトロを代表者の共同体の指導者に向けての譬えと一般の人びとへの譬えの区別をして下さい、との質問をイエス様に求めます。

42-44節:この場面での「主人」とは「キリスト」を意味します。管理人はその僕、ここでの「僕」とは教会の指導的な立場を意味します。そしてその教会内での僕たちへの世話ができているかと言う義務についていいます。その義務(此処では時間通りに食事を与えること)を果たせば帰ってきた主人、つまり再来のキリストはその僕に全財産を管理させる、というのです。全財産とは「勤勉な労働と質素な暮らしが宗教的な行為である」とするカルヴァン主義及びピューリタン(清教徒)の考えだと思います。ホーリネスの群れの創始者ジョン・ウェレーの「信仰の結果としての富とは、出来る限り稼ぎ、出来る限り倹約し、出来る限り与えること」と説いたことに同義語です。

45-46節:主人の帰りを待つ譬えが出てきますが、それは自分に課せられた義務をよりよく知っているか、その認識があっても主人の帰りは遅いと思ってた僕、つまりキリストの再臨は遅いとその教会の執事が教会員に勝手に振舞うことは主人(神)から厳しく罰せられるということを譬えています。

47-48節:知っていても従わない者、神に対して勝手な振舞いをした僕を見て見ぬふりをする者もその責任は重い、とされるということです。それでは「主人の思い通りにすること」とは一体何でしょうか。

神の愛を行う、イエス様の思い通りにすることができる実践者となるためにはイエス・キリストのために「愚かな者」になることではないか、と思います。私が尊敬する同窓の樋口和彦先生の書物の中に三つの要素として次のように述べています。

愚者とは「単純」であること、聖なる愚かさであること、「愚かさ」には使命があること、

イエス様の愚かさは「愚かな人びとに仕える愚かさ」、その使命を持っているということです。イエス様は本当に世間から聖別され、罪のある人間のために、という使命のための十字架に架かられました。この「十字架の愛を身に背負う者達がキリスト者である」とわたしは思っています。今回のこの「愚かさ」こそが数値が最優先されるこの現代で本当の「知」になるのではないでしょうか。本当の「真心を持つ人間」であることが出来るのではないでしょうか。自分が出来たと思った瞬間、自分が立派だと思った瞬間、「本当の愚かさ」に落ちて行きます。自分への礼讃ではなく神様への感謝や賛美の言葉が自然と出て来るかどうか、此処に居られる皆さんはおできになるでしょうが、今一度初めに立ち帰って私たちが本当のキリストのための「愚か者」になることを思っては如何でしょうか。



2026年9月28日月曜日

2026年10月4日(日)礼拝ライブ配信 

【世界聖餐日礼拝】

時間:10時30分~


 

説教=「洗礼にあずかる幸い」    
池田清樹 牧師

聖書=使徒言行録 8章35節〜40節
讃美=1編312. 1編199. 1編205. 1編489.
頌栄=1編543
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礼拝当日、10時30分より

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2026年9月21日月曜日

2026年 9月27日(日)礼拝ライブ配信 

 時間:10時30分~


 

説教=「罪の赦しと病の癒し」    
井上隆晶牧師

聖書=ルカによる福音書5章17~26節
讃美=讃美歌21-137番1,2,5,6番 
   21-470番
頌栄=讃美歌21-24番
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【説教要旨】

❶【信仰は行動であること】

男の人たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来ました。しかし群衆に阻まれて中に運び込むことができなかったので、屋根に上って瓦をはがして穴をあけ、病人を床ごとつり降ろしました。イエス様はその人たちの信仰を見て「人よ、あなたの罪は赦された」(ルカ5:20)といわれました。ここには「信仰を見て」と書かれていて、「信仰を聞いて」とは書かれていません。信仰というのはただ言葉だけではなく、行動を伴わなければならないものなのです。ヤコブは「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)とも語っています。今では、イエス様は福音書の中に、礼拝の中に隠れておられます。あきらめないで深く読み続ける者、捜し求める者、何度も呼び求める者は、キリストという宝を見つけるでしょう。神様は隠れておられ、人間に捜してもらいたいのです。神が隠れるのは、本当に自分を必要とする者を見つけるためなのです。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。」(マタイ7:7)

 

❷【罪の赦しと病の癒し】

この中風の人は、病気を癒してもらうためにやってきました。それなのにイエス様は病気の癒しではなく、まず罪の赦しを宣言なさいました。なぜでしょうか。教会はこの順序を重んじます。病いの癒しよりも、罪の赦しの方が重要だからです。多くの人は教会に「癒し」を求めてやって来ます。しかし教会が提供するのは「救い」なのです。癒しと救いは違います。癒しはこの世的なものであり、一時的なものです。いくら病気が癒されても、再び別の病気になり、最後は癒されずに死にます。癒しには限界があるのです。しかし救いは永遠のものです。イエス様が望まれるのは癒しではなく救いです。地上の一時的な癒しではなく、救いを求めなければなりません。すなわち、神キリストを求めるのです。

 

❸【病人の癒しは人類の復活のしるしであること】

イエス様が罪を赦す宣言をされたのを聞いて、律法学者は「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったい誰が、罪を赦すことができるだろうか。」(ルカ5:22)と非難しました。そこでイエス様は「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と言われ、中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われると、病人は立ち上がり、神を賛美しながら帰ってゆきました。

皆さんは病気を癒すのと、罪を赦すのとどちらが易しいと思いますか。聖書では「罪が赦される」というのは、神様との関係が回復することを意味しています。病気を癒すことは簡単ですが、罪を赦すこと、つまり神様との関係が回復し、人が信仰者になることはものすごく難しいのです。イエス様に重い皮膚病を癒してもらった10人の人がいましたが、信仰するために戻ってきたのはたった一人だけでした。いくら病気が癒されても人は神を信じません。奇跡では信仰者は生まれないのです。しかしイエス様は、ご自分が罪を赦す権威を持つ者、つまり学者が言った神ご自身であることを教えるために、病気を癒し、信仰者を創造されたのです。

人々が恐れに打たれますが、それは神の栄光を見たからです。神が地上に現れ、人の罪を赦し、死から命に回復させられるのを見た、ということでしょう。天が、神が自分たちの近くにおられたということに対する恐れです。この病人の癒しは、人類の復活のイメージとして行われました。

土合竹次郎(どあい・たけじろう)という牧師さんがこんなことを言っています。「歳をとらないと分らない真理がある。最近になって確信をもったことがある。天国は行く所ではなく、来るものである。主イエスも、『御国が来ますように』と祈れと教えておられる。…死は永久の眠りの永眠ではなく、やがてキリストによって復活するまでのひとときの眠りにつく就眠である。」キリストはあなたと一体になるためにこの世に来ました。キリスト自身が天国です。あなたが天に昇るのではなく、天国の方からあなたの所に来てくれたのです。あなたを神の国に入れるためです。天上で罪が赦されるのを待つことなく、地上にいる時からあなたに罪の赦しを宣言するためにキリストは来ました。来世での復活を待つのではなく、この地上にいる時からあなたの中に復活を始めるためにキリストは来たのです。もしあなたが地上で彼と一体になるなら、罪も死もあなたを支配できないのです。あなたのすぐ隣に天国が来ておられます。だから大いに喜びましょう。


2026年9月13日日曜日

2026年 9月20日(日)礼拝ライブ配信 

 時間:10時30分~

 

説教=「遊ばなければ生きていけない」
鈴木 ゴリ 宣仁 牧師
 
聖書=創世記1章1〜3節

讃美=21-18「心を高く上げよ!」
   21-289「みどりもふかき」
頌栄=讃美歌21-27番   

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】

A)アウトドアのフリースクールを始めた理由~大脳辺縁系を育てる
1. 大脳辺縁系とは。
脊椎動物(魚類以降のすべての動物)に備わっている、進化の過程のなかで最も古くからある脳の領域。逆に進化の過程で最も新しい領域が辺縁系の外側にある大脳新皮質。これは哺乳類になって発達し、特にヒトにおいて最も大きくなりました。
2. 大脳辺縁系の働き。大脳新皮質の働き。
大脳辺縁系が生命維持、記憶、本能、感情(喜怒哀楽)、自己肯定感、ノスタルジーをつかさどる基礎であるのに対して、大脳新皮質は理性や高度な思考をつかさどっています。
3. チンパンジーとヒト、DNA レベルでは 3%しか違わない。
その3%の違いが大脳新皮質(知能)に現れていると仮定すると、ヒトは 97%がチンパンジー!
極端な言い方をすると、ヒトは大脳辺縁系が育っていないと、チンパンジーにさえなれない!
4. 大脳辺縁系を鍛える方法
河合雅夫『こどもと自然』(1990 年/岩波書店)によると、チンパンジーの社会では子ザルたちは次のような環境が保障されることで、子どもから思春期を経て大人になれるといわれています。
①自然のなかで ②五感をフルに使いながら ③子どもたちだけで ④相談し調整しながら
⑤納得いくまで遊びきる。
⑥激しいアクティビティだけでなく、十分休息を取る。ぼんやりする・瞑想する時間が必要。
⑦これらを見守り、コミュニティの継続性を危うくする行為については厳しく指導する大人
(雄サル)がいる。
5. 私はこれらのことに感化を受け、1993 年アウトドアのフリースクールを始めました。
その中で、最も拘っていたのは⑤の「遊びきる」ということでした。


B)【遊び】とは“re-creation”
1. そのなかでウイニコットの「遊びにおいて、遊ぶことにおいてのみ、個人は子どもでも大人でも創造的になることができ、その全人格を使うことができる。そして、創造的である場合にのみ、自己を発見できる」という言葉に出会い、【遊び】とは re-creation 再創造であると気付きました。
2. creation 創造とは、本日の箇所にあるように「無から有へ」「混沌から秩序へ」「闇から光へ」ということです。イエスの復活の記事を想い起せば「死から生へ」ということでもあります。なので re-creatiion 再創造とは「新しく生まれ変わる経験」といえるのではないでしょうか。
3. 子どもたちに、豊かな自然のなかで「自分はいま生まれ変わったんだ!」と思えるような経験が出来る機会を保障することが、子どもたちの大脳辺縁系を育て、子どもたちが大人になっていく備えとなるのです。