2026年8月24日月曜日

2026年 8月30日(日)礼拝ライブ配信 

 時間:10時30分~


 

説教=「宣教」    
吉村厚信伝道師 

聖書=マルコによる福音書16章15節~20節 

讃美=讃美歌21-57番、讃美歌21-442番     
頌栄=讃美歌21-27番 

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
わたしがインド・ミゾラム州の日本語学校に赴任していた時に、ネパールからバプテスト派宣教師ジャナクさんが日本語教師としてインドへ来られ同じ仲間になりました。ジャナクさんは約6か月青年たちに日本語を教えて貰いました。ジャナクさんは8月17日から21日迄大阪に来日しネパールのクリスチャンの若者たちを日本へ送り込む企画を説明にこられました。ジャナクさんは9年間大半を福岡で住まいされました。西南学院大学神学部御出身で母国・ネパールへの宣教師としてバプテスト教会から派遣されたとお聞きしています。わたしたちの校祖新島襄が会衆派牧師として宣教のためアメリカから日本へ派遣されたと同じ、そのようにわたしは彼を見ています。彼のモットー、Gospel to Japan(日本へ「福音」を届ける)です。「宣教」と言う今日のメッセージですが、今日「宣教」はなされているのでしょうか。フランスの歴史人口学、家族人類学の専門家エマニュエル・トッド氏は書物の中で信仰心は希薄になったが、キリスト教的道徳や文化はプロテスタントの価値観として社会に残っていることを「プロテスタントのゾンビ化」と称しています。人々が教会に通わなくなる、神を信じることが出来なくなりつつある、しかし文化や価値観、道徳など規範は社会の中に残っている、このような状態を指すのだそうです。本日のこの箇所について註解書にこの箇所の記載やこの箇所の正確な説明がありません。マルコ自身は復活のイエスの顕現物語を福音書の中には取り入れませんでした。

この章で弟子たちはかつての出会いの場所で復活のイエスに出会います。ガリラヤへのイエスの言及はわたしたちをイエスの活動の出発点に連れ戻す、註解書は16:1-8の説明で終わっています。「それでそのあとどうなったのか?」の疑問があったから「教会」が出来たのではないか、「教会」共同体の必然的な加筆だったのではなかったでしょうか。

『内村鑑三聖書註解全集』の中で内村がこの「マルコによる福音書16章15節」のみ内村独自の註釈があります。明治時代の文語体です。
【マルコ16:15
『イエス彼ら(弟子たち)にいいけるは、あまねく世界をめぐりて、すべての人に福音を宣べ伝えよ』
われらがキリスト教を信ずるは特にわれら自身が救われるためにあらず、神がわれらをすくいたまいしは、我らが世の人を救わんためなり。
伝道はキリスト信者の身に沿う義務なり。伝道せざるものはキリスト信者にあらざるなり。われにうるわしき名二つあり。
二者ともにJをもって始まる。イエス(Jesus)なり、日本(Japan)なり。われはこれを称して二つのJ(two Js)という。
われの宗教はこの二つを離れて存在せず。イエスのためなり。日本のためなり。イエスの栄光をあらわさんため、日本の名誉を傷つけざらんためなり。
日本を救うに日本人の力を持ってせよ。二つのJを和する忘るなかれ。】

今、アジアの緊張状態や利権をめぐる戦争の数々を見て私たちの身近な存在を守る、そのような使命をこれからわたしたちはもたねばならないかもしれません。それこそが内村が生きた明治時代の当時の西欧列強から日本を守り、家族を守ることを考えた、現代を顧みるに神さまは今そのような試練をまたわたしたちにお与えになろうとしています。ジャナクさんは「ネパール人」として誇りを以って自らの国の若者を海外で活躍してもらうべく彼の召しである宣教活動を自らの教会員の若者を通じて体現しようとしています。「宣教のための宣教」ではなく、キリスト者が仕事を通じてキリスト教的理念を顕わす、そのことを今回のジャナクさんの訪日は神様が私に語りかけています。自由主義神学のフリードリヒ・シュライエルッハーは、自らの著書『宗教論』の中で、「宗教の本質は知識や行為ではなく、直観と感情である」と記しました。「神さまが下りてきてくださってわたしたちの中に着床してくれるのだ」という感覚、シュライエルマッハーの神学思想は、人の外側にある超自然的な超越的な存在や存在への畏怖の念ではなく「人間自身の中に存在するものだ」、としました。大学時代の同僚に「佐藤優さん」がいます。彼は『愛国の罠』と言う著書の中でシュライエルマッハーを取り上げ、次のように述べています。「キリスト教において神様はひとの上にいると思われていましたが、ガリレオやコペルニクスによって地球が球体であると証明されてしまったことで「天上」という場所が否定されてしまいました。しかしシュライエルマッハーによって神様の場所をわたしたち心の中に変えてしまわれました。心はどこにあるのか、でも「心なるもの」があるのは確かです。そのことで地球は丸いが神は存在するという信仰は矛盾なく認められます。このことによって現代の自然科学的な体系と私たちの信念、わたしは信仰と置き換えてもよいと思いますが「共存」出来るようになったわけです。でもその心の中でどこまでは自分、どこまでが神様の声なのか分からなくなる、自らの中に自然科学と思想・信仰の間に境目が必要になってきます。「科学」とその科学に潜む人間の「欲」に対する「理念」とのぶつかり合いがあります。そのことをある種の制御機能として神様はシュライエルマッハーを通じて私たちにお与えになられています。」この内容は「プロテスタントのゾンビ化」への信仰の大きな御支えと指針であると思います。

2026年8月18日火曜日

2026年 8月23日(日)礼拝ライブ配信 

 時間:10時30分~


 

説教=「上のものに属しなさい」    
井上隆晶牧師

聖書=ヨハネによる福音書8章21~25節
讃美=21-524番、21-510番  
頌栄=21-27番   
  
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
❶【イエス様が去ってゆかれると】
イエス様はユダヤ人たちに「わたしは去ってゆく。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」(ヨハネ8:21)と言われました。ユダヤ人は地上でせっかく人となった神(天国)に出会ったのにそれを無駄にしてしまいました。イエス様が去れば誰も救われません。光が去れば闇が支配し、命が去れば死が支配し、知恵が去れば無知が支配し、神が去れば悪魔が支配します。イエス様が近くにいる間に、救いを確かにしなければなりません。恵みはいつまでもあるわけではないのです。「見よ、あなたから遠ざかる者は滅びる。…わたしは神に近くあることを幸いとする。」(詩編73:27)

❷【この世に属すると死ぬ】
続けてイエス様は言われます。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。」(8:23~24)「下のもの」とは「この世」のことです。イエス様は「上のもの」、すなわち「神の国」に属していますが、ユダヤ人たちは「この世」に属しています。だから彼らは自分の罪のうちに死ぬことになると言われました。上のものに属さない限り、あなたは死ぬというのです。この世とは何でしょう。この世は、神のいない世界です。人間はこの世から神を追い出したのです。人間だけの世界、すべてを神抜きで考えようとする世界です。人間が主人であり、人間がこの世界を支配し、自分の思い通りに資源を使い、神に聞くことなく、自分で裁き、神を恐れません。神のみが命なのですから、神から離れたこの世は死んだ世界なのです。地上には人の罪が溢れ、死が溢れています。しかし真の命は天から降ります。この命こそキリストです。この命に結ばれて生きる人は死から命に引き上げられるのです。

❸【わたしはあるということを信じなければ死ぬ】
更に「わたしはあるということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(8:24)とイエス様はユダヤ人に言われました。「わたしはある」というのは、モーセに現れた神の名前です。モーセが神の名を尋ねたとき、主は「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト3:14)と答えられました。この神だけが使う名前をイエス様はご自分に対して使われたのです。隠れていた神は、今イエス・キリストという姿で現れたのです。ここでイエス様は「私が神であるということを信じなければ、あなたがたは死ぬ」と言われたのです。
私は今日「上のものに属しなさい」という話しをしています。上のものに属するとは「神の国に属する」ということです。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、この世に死んだのです。死んだだけでなく、復活して神の国に属する者とされたのです。肉体はまだこの世にありますが、国籍は天にあります。それはまた「主人が変わった事」でもあるのです。私たちは二人の主人に同時に仕えることはできません。片方の目で天を見、片方の目で地上を見ることができる人がいるでしょうか。どちらかなのです。キリストを主人としたのですから、地上の主人に仕えてはなりません。だから初代のクリスチャンたちは地上の皇帝を拒否し、喜んで殉教したのです。この世に目的地はありません。この世は神の国に行くための手段に過ぎません。アトスの修道者はこう書いています。「私にとって、この世はエレベーターのようなものです。私はエレベーターの中に滞在しません。私は天に行くためにしか、ここにいないのです。私はエレベーターの中で眠りません。私は戸口で待っておられる方のことを思っているのです。」初代教会の信徒たちは、信仰とはこの世に死に、神の国に生まれることだとはっきりわかっていました。この世は過ぎ去ります。永遠に残るものにこそもっと時間を使うべきなのです。キリストに属する者、天の国に属する者として賢くこの世を生きましょう。

2026年8月10日月曜日

2026年 8月16日(日)礼拝ライブ配信 

時間:10時30分~

 

説教=「愚か者でいいじゃない」
鈴木 ゴリ 宣仁 牧師
 
聖書=コレへトの言葉12章1~8節

讃美=讃美歌21-18番、讃美歌21-529番    
頌栄=讃美歌21-27番   

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礼拝当日、10時30分より

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【説教要旨】
A)聖書の訳には、翻訳者の価値観や考え方が表れる
① 「はっきり言っておく」 
1. 教会のライブ配信の視聴者からのDMでの質問。「聖書のなかでイエスが『はっきり言っておく』という場面がたくさん(74 回)あるけれど、何だか居丈高な感じで違和感があります。イエスなら『ふわっと』『やわらかく』話したんじゃないの?と思う」。 
2. この「はっきり言っておく」は直訳すると「アーメン、あなたがたに言う」の軽い言葉。「はっきり言っておく」は原文に忠実とはいえない。「アーメン」はヘブライ語で「ほんとにその通り」程度の意味。しかも昔から祈祷文の最後に唱えられる常套句。イエスのように文章の最初に「アーメン」というのはとても珍しい使い方(当時としては他に例がない)。この独特の口癖がナザレのイエスの特徴として記憶された。(田川建三『イエスという男』1980 年) 
3. イエスの風変わりな口癖を「はっきりいっておく」と訳した背景にあるのは「イエスは、ルールに厳格な、ある種高圧的な指導者だった」という翻訳者の思い込み?マタイ 5:48 の未来形を約束ではなく命令と理解し、「完全なものになりなさい」(「なるだろう」ではなく)と訳したのと同じ?「ルールの押し付けは、イエスが最も嫌ったことではなかったか?」と思っておられる質問者が違和感を持たれるのも当然かも知れません。 

B)聖書の訳には、翻訳者の価値観や考え方が表れる② 「お前の創造主に心を留めよ」 
1. コヘレト 12:1 はミッションスクールの入学式や教会学校の修養会など、特に若者に対して頻繁に使われる有名な箇所です。 
2. しかし、なかには「創造主」が「壺(妻)」と読める写本や断片があり、コヘレト 12:3~7の記述(年老いて機能が低下し、衰えていく人間の様子)と併せると、「若い時から妻を心に留め
大切にしておかないと、要支援・要介護状態になったとき妻から邪険に扱われるぞ!」「なんと空しいことかと嘆くことになるぞ!」という警告と理解することができます。 

C)自分で選ぶことが許されている 
1. 翻訳とは数ある解釈の中から一つを選ぶという作業です。私たちも聖書を読むとき、幾つかの翻訳から一つを選ぶことが出来ます。自分にとってしっくりくる、すっと受け入れられる「訳」を一つ。それと同じように、生き方・死に方もまた、自分で選ぶことが許されています。 
2. 「死に方を選べない国は生き方を選べない国」。そういう国は「同調圧力が高い」。生老病死は不可避ですが、産み方を選ぶ自由、老い方を選ぶ自由、病み方を選ぶ自由、死に方を選ぶ自由はある。それらが家庭から病院・施設に隔離されています。 
3. 私も選んでいい、あなたも選んでいい。イエスがそうであったように、愚か者と笑われても変わり者と揶揄されても、「一人一人が自分で選ぶ」を保障できるコミュニティを作りたい。「なんと空しいことか」と嘆くことのない繋がりを。 

2026年8月2日日曜日

2026年 8月9日(日)礼拝ライブ配信 

 時間:10時30分~

 


説教=「感謝は人を生かします」
井上 良作 牧師
 
聖書=詩編118編22~29節 (旧約958頁)
   使徒言行録16章16~34節(新約245頁)

讃美=讃美歌21-11番、讃美歌21-204番     
頌栄=讃美歌21-27番   

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【説教要旨】
 『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。』(テサロニケの信徒への手紙一 5 章16〜18 節) 
 神様がわたしたちに望んでおられることについて、これほど端的に述べられているところは他にありません。このように教えたパウロ自身はどのようだったか、それを伝えてくれるのが、今朝の聖書箇所です。 
 パウロとシラスは伝道旅行最中のフィリピで、占いの霊に憑かれてた女性に出会いました。この女性がパウロたちについて来ては叫び声をあげるということを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねてその霊を女性から追い出しました。占いで金儲けをしていたこの女性の主人たちが恨みによってパウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡して偽りの訴えによって投獄させました。その際には、パウロたちは、正当な裁判も受けられず、衣服を剥ぎ取られ、鞭で何度も打たれました。「どんなことにも感謝しなさい」と教えたパウロは、このような状況で感謝できたのでしょうか。できたとすれば、一体に何に感謝したのでしょう。こんな最低な状況に置かれたとしたら、私たちは、果たして感謝することができるでしょうか。 
  『真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。』(25節)ユダヤ人にとって「祈る」とは、十中八九「感謝する」ことを意味していました。パウロやシラスたちはこの時、一体何に感謝していたのでしょう。それは、この先を読み進めるとわかります。パウロとシラスが賛美し祈っていると、ほかの囚人たちはそれに聞き入っていました。そのとき、突然、大地震が起こりました。そのため、囚人たちの鎖は外れ、牢の戸が開いてしまいました。囚人たちにとっては、自由の身になれる奇跡的なチャンスでした。牢の看守は眠って休んでいたのでしょうが、大地震のため囚人を逃してしまうことになり、自らの過失の重さに自害しようと考えました。自分が責任を取らなければ、家族にも害が及ぶと考えたのでしょうか。 
 そこに、パウロの叫び声が響きました。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」。なんと自由の身になれるはずだった、パウロも囚人たちも誰一人そこから逃げることなく、その場に残っていました。このことをどう理解すればよいのでしょう。看守は震えながら「先生方、救われるためにはどうすべきでしょう」と求めました。大地震の前と後では、それぞれの立場が変化しました。看守の畏れの対象も、ローマの権威から、主なる神へと変わりました。「愛には恐れがない」。この続きは、ぜひメッセージでお聴きください。

2026年7月27日月曜日

2026年 8月2日(日)礼拝ライブ配信

 時間:10時30分~

 

説教題=「自分の十字架を背負って」    
池田清樹牧師 

聖書=マルコによる福音書8章34〜38節

讃美=讃美歌21-204、讃美歌2編194
頌栄=讃美歌21-27

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【説教要旨】
私達の信仰生活は、望むと望まないとは関わりなく、その人なりの十字架を背負って歩んでいく。
私は、1991年4月から1995年3月まで、泉北栂教会と泉佐野教会の二つの教会を兼任して仕えました。
1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生。ビルがペチャンコにつぶれていた映像を見ました。保育園の園舎も老朽化が激しく、その現状は恐怖でした。
耐震強度を検査してもらったら41%しかありませんでした。
そこで、園舎建て替えを計画しましたが、様々なハードルが立ちはだかり建設は困難をきわめました。
園舎建て替えのついでに、教会堂の建設もしました。
様々な困難がやってきましたが、私は不退転の覚悟でやり抜きました。
教会も保育園もそれほど広い施設ではありませんが、駅前通りに面した場所であるので、伝道活動も園児募集も祝されていました。

2026年7月20日月曜日

2026年 7月26日(日)礼拝ライブ配信

時間:10時30分~

 

説教=「眠るイエス様」    
井上隆晶牧師

聖書=マルコによる福音書4章26~29節、35~41節

讃美=讃美歌21-55番「人となりたる神のことば」
   讃美歌21-456番「わが魂を愛するイェスよ」

頌栄=讃美歌21-29番  
  
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【説教要旨】

1【嵐に遭う舟】
夕方になって、イエス様は「向こう岸に渡ろう」と弟子たちにいわれました。ガリラヤ湖は海抜マイナス213mの谷底にあり、周囲を山が巡っているので、たびたび山からの突風が湖に吹きつけては嵐になりました。ベトロは漁師ですからそのことを良く知っていましたが、イエス様が言われたので仕方なしに彼らも従いました。弟子たちがイエス様を舟に乗せて漕ぎ出すと、案の定、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水浸しになりました。昔からユダヤ人たちは水を怖がりました。 ノアの洪水で多くの人を滅ぼしたのも、エジプト軍を滅ぼしたのも水であって、水は滅びの道具として用いられたからです。しかしイエス様は「嘘の方で枕をして眠っておられ」 (38節)ました。 そこで弟子たちはイエス様を起こして「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。私たちも嵐の中の弟子たちと同じように祈ってきました。「神様、教会が潰れても構わないのですか。この世界が滅びても構わないのですか。神様が支配しているなら、どうして悪人を放っておかれるのですか。神様に任せておいて大丈夫なのですか。私たちの目には、あなたは眠っているようにしか見えないのです。」すると「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に『黙れ、静まれ』といわれた。すると風はやみ、すっかり凪になった。」(39節)とあります。自然を従わせることができるのは神様だけです。実は神様が彼らと共に一つの舟に乗っているのです。でも弟子たちはそれにまだ気がつきません。イエス様は弟子たちに「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか。」(40節) と言われました。どうもイエス様はわざと弟子たちに嵐に遭う試練を与えているようなのです。

2【眠るイエス様】
私は最初、この物語を読んだ時「よくまあ、この人はこんな嵐の中で眠れるものだ」と思いました。 水をかけられたら普通の人は目が覚めます。水がかかっても眠り続けるなんてよっぽどこの人は疲れているのか、鈍感なのかと思いました。しかしイエス様は水がかかり、舟が沈みそうになっても眠り続けます。まるで幼子のようです。幼子は地震の時にも親を信頼してその胸で眠ります。眠るというのは委ねる最高の行為です。イエス様の眠りは、私たちに信仰とは何かを教えているのです。 嵐のような試練にあっても、神様を信頼して、すべてを委ねなさいと教えているのです。安心して水に飲み込まれなさい、つまり安心して試練に逢い、安心して死になさい、と教えているのです。 水に飲み込まれても必ず浮いてくる、死んでも必ず復活することをイエス様は信じていたからです。

3【キリストが共にいたら必ず復活する】
先ほど4章26節以降で「成長する種」のたとえを読みました。「神の国は次のようなものである。 人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、・・・」 (26~28節) 植物の生命力というのは本当に不思議です。枯れたと思っていた木が、いつの間にか芽を出し、次の日にはもう伸びています。いつ芽が出たのか、いつ成長したのか私たちは分かりません。私たちの気づかない内に、植物は成長します。それと同じように、神の国というのは私たちが気づかない内に成長し、 どんどん大きくなって広まり、やがて実を結ばせるというのです。この土に蒔かれた種とはキリスト自身であり、キリストの命です。土とは私たちのことです。このキリストの命という神の種が私たちの中に蒔かれたのです。この神の種は決して死なない命です。人間は神様に任せてただ寝起きしていればいいのです。安心してこの神の種と共に死ねばいいのです。このキリストという種を持っていたら必ず生きることになるからです。キリストの決して死なない命の種が今も、私の中に生きています。私が死んでも、この神の種が私を蘇らせます。だから、楽しいのです。わくわくするのです。キリストに一切を委ねて、安心して眠りましょう。

2026年7月12日日曜日

2026年 7月19日(日)礼拝ライブ配信

 時間:10時30分~

  


説教=「あなたのことだよ」
鈴木 ゴリ 宣仁 牧師

聖書=マルコによる福音書16章12節

讃美=讃美歌21―18番、425番
頌栄=讃美歌21-29番
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
A) イエスの死後、ガリラヤに逃げた弟子たち
1. 逃げる弟子たち。イエスと共にガリラヤからエルサレムに向かった弟子たち。このチームをを応援しお世話をする女性たち。イエスと出会って新しい人生を得た人たち。意気揚々とエルサレムに入った彼らは、しかし処刑されたイエスを前に、逃げ、潜んだ。 特にイエスに近かった「弟子」と呼ばれたペトロたちは「自分たちも捕縛され処刑される」という恐怖に駆られてエルサレムから逃れ、郷里のガリラヤを目指した。
2. その弟子たちに現れたイエス。そのうちの二人が田舎(ガリラヤ)の方に向かって歩いていると、そこに甦ったイエスが現れた。16:7によれば「イエスは先にガリラヤに行かれ。そこで再会できる」。一からやり直すチャンスをいただいた、ということか?

B) 迫害から逃亡するベトロ
1. ヨハネ13:36 「主よ、どこへ行かれるのですか?」 Quo vadis, domine
2. 新約外典「ペトロ行伝」 ローマで捕縛されたペトロが処刑されるとき、イエスと同じ姿では申し訳ないという理由で「逆さ磔」を望んだ。
3. 「クオヴァディス」(原作: ヘンリク・シェンキェヴィチ着/1896年出版/1905年ノーベル文学賞、映画:ハリウッド/1951年、内容:ネロの時代。自らローマに放火したネロは、その罪を当時迫害の対象だったキリスト教徒に被せた。)
 A) 及びB) 1.と2.を題材にシェンキェヴィチは「クオヴァディス」を書いた。ローマから逃げるペテロにイエスが現れ、「あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるだろう。」と告げる。直後、ペトロはローマに引き返し捕らえられ、逆さ礫に処せられる。

C) 求められているのは他でもない「あなた」
1. 福音書の行間を読むなら、エルサレムからガリラヤに逃亡する途上のペトロに現れたイエスは 「エルサレムの民を見捨てるな。エルサレムに戻れ。でも、それが無理なら私が行って、もう一度十字架にかかる」と仰ったのではないか。
2. 私も道を行くとき、突然イエスに遭遇することがある。大抵は、私が目指す方向とは逆の、私が逃げ出してきた場所を目指しておられる。イエスは「私の代わりに戻ってくれないか?」と仰る。遺巡する私にイエスは「無理ならいい。無理なのは分かっている。私があなたの代わりに行き、あなたたちのためにもう一度十字架にかかって死ぬから、大丈夫。」と仰る。
3. イエスによって「クォヴァディス(あなたは何処へいくの?)」と問われているのは、他の誰かではなく私であり、あなたです。