時間:10時30分~
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
礼拝当日、10時30分より
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いつも私は申しますが、ご自分の家族や周りの方々を大事にして与えられた仕事に真摯に向き合い生活する、その一点に於いてひとは十分に聖化されています。辛いことにも対峙できる強さが本当の「賢い者」、おおきな成功や富ではなく「いま此処にある」日常の生活をイエス様から神さまから与えられたことを感謝して受け取ることこそが最も「賢者」なのではないか、と聖書は教えているとお話ししています。
今日の説教題、『収穫』ですが、「天の国のたとえ」とは実は「隠れた宝物のたとえ」なのです。その宝物とは「聖書」のこと、「収穫」とは与えられた『聖書』からの恵みなのです。
「宗教改革記念礼拝」、ラテン語で「Sola Scriptura」(ソラ スクリプトゥラ)と言う言葉があります。「聖書のみ」という意味です。教理・教会実践・クリスチャンの生活に於いて聖書のみが最終的な権威であることを示します。宗教改革の先駆者 マルティン・ルターはこの主張のためにローマカトリック教会と戦いました。贖宥状の購買と言う行為とその功績に応じて福音がもたらされるということはありえない、万人は聖書によって救われるのだ、ということです。そこに信仰義認(「Sola Fide」(ソラ フィデー)を説きました。
彼は『28箇条の論題』で「自分のうちにあることを実行することで恵みを得られると信じる者は二重に罪を重ねる」「このように語ることは絶望を与えるものではなく、神の恵みを追い求める願いを起こさせる」自分の無力さに絶望を感じると同時に希望も持っている、それはキリストと福音の中に希望を見出せる、ということ、私たちが神に背いても、神は私たちを愛し、私たちのためにキリストを遣わした私たちへの大いなる恵みがあります。修道士だったルターですが、元修道女の女性と結婚します。ニンプシェン修道院の修道女カタリーナ・フォン・ボラ、1525年にルターと結婚します。ルターは元修道士になりましたが、彼が宗教改革に精力的に進めるその夫をカタリーナは家庭を守り、6人の子どもを授かり親戚の孤児も養子として引き受けたとされています。
44節:ユダヤ人たちは家の宝物を壺(ツボ)に入れて強盗やローマの兵隊たちの略奪から守るために地中に埋めました。その土中に埋まった財宝がそのままの状態でのちの時代に発見されたりしたのでしょう。内村はこの畑を「神の畑たる教会」と紹介しました。その当時教会は俗人に踏み荒らすところとなったけれども、まことの福音は教会にありても隠れたる宝、見い出さば喜びのあまりこれをかくしそのものすべてを投じても、これをおのがものとなさんとする」。その例としてマルティン・ルターのエルフルト大学(内村は「エルフルト寺院」)での聖書との出会いを紹介しています。
「神が人間に善行を求めるのではなく、神が人間に近づいて赦す愛と恵みを与えてくれるという福音を発見した」ジョンウェスレーについても内村は言及しています。
45節:古代において真珠は貴重で高価なものでした。「真理」のたとえとして、裕福な商人が一個の真珠を見つけその真珠を手に入れるために蓄えた全財産を手放す話ですが、大事なことは発見した時の驚きと同時にその真珠(真理)を入れるために一切を捨てようとする心、です。
「人はパンのみにて生くるものにあらず。ただ神の口よりいずるすべての言による」
(マタイによる福音書13章45節)
とその真理は今でも変わらないのです。世界唯一の価値高き真珠なのです。
明治時代、西欧列強に対峙するその中にあって、混沌とした現代に通じる信仰の礎が見えるのではないでしょうか。
47節:「教会は、理想の天のホームではない。さまざまの魚を取る網のごときものである。その中によきものも入れば悪しきものも入る。悪しきものはついに焼かれて、善きものは残される。理想の天国は善悪の分別を経てのちに来たる。いまは忍耐のときである。試練のときである。霊魂研磨のときである。いまのときに完全を望んで、われらは失望せざるを得ない。『おわりまで忍ぶはさいわいなり』。「収穫」は播種の期に望むべからず。成長の期に雑草の妨害はまぬかるべからず。信者の希望はここにある。彼の忍耐はこれに基づく。なぐさめよなんじら小なる群れよ」「われらは福音の真理のためにいかなる困難に遭遇するも、あえて失望しないのである」、そののちに大きな「収穫」を迎えることを説いています。
「愚者」になれるのか、それは神さまは自分の愛するひとり子を十字架に付けてまでそれこそ世間では「価値のない者達」を愛しました。イエス様が「価値のない者」とは世間から差別され、罪のある人間のために、という使命のための十字架に架かられたこと、この「十字架の愛を身に背負う者達がキリスト者である」とわたしは思っています。そのことも私たちにとって収穫です。自分への礼讃ではなく神様への感謝や賛美の言葉が自然と出て来るかどうか、私たちが本当のキリストのための「愚か者」になることも私たちの収穫ではないか、と思うのです。