2026年8月18日火曜日

2026年 8月23日(日)礼拝ライブ配信 

 時間:10時30分~


 

説教=「上のものに属しなさい」    
井上隆晶牧師

聖書=ヨハネによる福音書8章21~25節
讃美=21-524番、21-510番  
頌栄=21-27番   
  
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
❶【イエス様が去ってゆかれると】
イエス様はユダヤ人たちに「わたしは去ってゆく。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」(ヨハネ8:21)と言われました。ユダヤ人は地上でせっかく人となった神(天国)に出会ったのにそれを無駄にしてしまいました。イエス様が去れば誰も救われません。光が去れば闇が支配し、命が去れば死が支配し、知恵が去れば無知が支配し、神が去れば悪魔が支配します。イエス様が近くにいる間に、救いを確かにしなければなりません。恵みはいつまでもあるわけではないのです。「見よ、あなたから遠ざかる者は滅びる。…わたしは神に近くあることを幸いとする。」(詩編73:27)

❷【この世に属すると死ぬ】
続けてイエス様は言われます。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。」(8:23~24)「下のもの」とは「この世」のことです。イエス様は「上のもの」、すなわち「神の国」に属していますが、ユダヤ人たちは「この世」に属しています。だから彼らは自分の罪のうちに死ぬことになると言われました。上のものに属さない限り、あなたは死ぬというのです。この世とは何でしょう。この世は、神のいない世界です。人間はこの世から神を追い出したのです。人間だけの世界、すべてを神抜きで考えようとする世界です。人間が主人であり、人間がこの世界を支配し、自分の思い通りに資源を使い、神に聞くことなく、自分で裁き、神を恐れません。神のみが命なのですから、神から離れたこの世は死んだ世界なのです。地上には人の罪が溢れ、死が溢れています。しかし真の命は天から降ります。この命こそキリストです。この命に結ばれて生きる人は死から命に引き上げられるのです。

❸【わたしはあるということを信じなければ死ぬ】
更に「わたしはあるということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」(8:24)とイエス様はユダヤ人に言われました。「わたしはある」というのは、モーセに現れた神の名前です。モーセが神の名を尋ねたとき、主は「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出エジプト3:14)と答えられました。この神だけが使う名前をイエス様はご自分に対して使われたのです。隠れていた神は、今イエス・キリストという姿で現れたのです。ここでイエス様は「私が神であるということを信じなければ、あなたがたは死ぬ」と言われたのです。
私は今日「上のものに属しなさい」という話しをしています。上のものに属するとは「神の国に属する」ということです。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、この世に死んだのです。死んだだけでなく、復活して神の国に属する者とされたのです。肉体はまだこの世にありますが、国籍は天にあります。それはまた「主人が変わった事」でもあるのです。私たちは二人の主人に同時に仕えることはできません。片方の目で天を見、片方の目で地上を見ることができる人がいるでしょうか。どちらかなのです。キリストを主人としたのですから、地上の主人に仕えてはなりません。だから初代のクリスチャンたちは地上の皇帝を拒否し、喜んで殉教したのです。この世に目的地はありません。この世は神の国に行くための手段に過ぎません。アトスの修道者はこう書いています。「私にとって、この世はエレベーターのようなものです。私はエレベーターの中に滞在しません。私は天に行くためにしか、ここにいないのです。私はエレベーターの中で眠りません。私は戸口で待っておられる方のことを思っているのです。」初代教会の信徒たちは、信仰とはこの世に死に、神の国に生まれることだとはっきりわかっていました。この世は過ぎ去ります。永遠に残るものにこそもっと時間を使うべきなのです。キリストに属する者、天の国に属する者として賢くこの世を生きましょう。

2026年8月10日月曜日

2026年 8月16日(日)礼拝ライブ配信 

時間:10時30分~

 

説教=「愚か者でいいじゃない」
鈴木 ゴリ 宣仁 牧師
 
聖書=コレへトの言葉12章1~8節

讃美=讃美歌21-18番、讃美歌21-529番    
頌栄=讃美歌21-27番   

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
A)聖書の訳には、翻訳者の価値観や考え方が表れる
① 「はっきり言っておく」 
1. 教会のライブ配信の視聴者からのDMでの質問。「聖書のなかでイエスが『はっきり言っておく』という場面がたくさん(74 回)あるけれど、何だか居丈高な感じで違和感があります。イエスなら『ふわっと』『やわらかく』話したんじゃないの?と思う」。 
2. この「はっきり言っておく」は直訳すると「アーメン、あなたがたに言う」の軽い言葉。「はっきり言っておく」は原文に忠実とはいえない。「アーメン」はヘブライ語で「ほんとにその通り」程度の意味。しかも昔から祈祷文の最後に唱えられる常套句。イエスのように文章の最初に「アーメン」というのはとても珍しい使い方(当時としては他に例がない)。この独特の口癖がナザレのイエスの特徴として記憶された。(田川建三『イエスという男』1980 年) 
3. イエスの風変わりな口癖を「はっきりいっておく」と訳した背景にあるのは「イエスは、ルールに厳格な、ある種高圧的な指導者だった」という翻訳者の思い込み?マタイ 5:48 の未来形を約束ではなく命令と理解し、「完全なものになりなさい」(「なるだろう」ではなく)と訳したのと同じ?「ルールの押し付けは、イエスが最も嫌ったことではなかったか?」と思っておられる質問者が違和感を持たれるのも当然かも知れません。 

B)聖書の訳には、翻訳者の価値観や考え方が表れる② 「お前の創造主に心を留めよ」 
1. コヘレト 12:1 はミッションスクールの入学式や教会学校の修養会など、特に若者に対して頻繁に使われる有名な箇所です。 
2. しかし、なかには「創造主」が「壺(妻)」と読める写本や断片があり、コヘレト 12:3~7の記述(年老いて機能が低下し、衰えていく人間の様子)と併せると、「若い時から妻を心に留め
大切にしておかないと、要支援・要介護状態になったとき妻から邪険に扱われるぞ!」「なんと空しいことかと嘆くことになるぞ!」という警告と理解することができます。 

C)自分で選ぶことが許されている 
1. 翻訳とは数ある解釈の中から一つを選ぶという作業です。私たちも聖書を読むとき、幾つかの翻訳から一つを選ぶことが出来ます。自分にとってしっくりくる、すっと受け入れられる「訳」を一つ。それと同じように、生き方・死に方もまた、自分で選ぶことが許されています。 
2. 「死に方を選べない国は生き方を選べない国」。そういう国は「同調圧力が高い」。生老病死は不可避ですが、産み方を選ぶ自由、老い方を選ぶ自由、病み方を選ぶ自由、死に方を選ぶ自由はある。それらが家庭から病院・施設に隔離されています。 
3. 私も選んでいい、あなたも選んでいい。イエスがそうであったように、愚か者と笑われても変わり者と揶揄されても、「一人一人が自分で選ぶ」を保障できるコミュニティを作りたい。「なんと空しいことか」と嘆くことのない繋がりを。 

2026年8月2日日曜日

2026年 8月9日(日)礼拝ライブ配信 

 時間:10時30分~

 


説教=「感謝は人を生かします」
井上 良作 牧師
 
聖書=詩編118編22~29節 (旧約958頁)
   使徒言行録16章16~34節(新約245頁)

讃美=讃美歌21-11番、讃美歌21-204番     
頌栄=讃美歌21-27番   

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

2026年7月27日月曜日

2026年 8月2日(日)礼拝ライブ配信

 時間:10時30分~

 

説教題=「自分の十字架を背負って」    
池田清樹牧師 

聖書=マルコによる福音書8章34〜38節

讃美=讃美歌21-204、讃美歌2編194
頌栄=讃美歌21-27

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
私達の信仰生活は、望むと望まないとは関わりなく、その人なりの十字架を背負って歩んでいく。
私は、1991年4月から1995年3月まで、泉北栂教会と泉佐野教会の二つの教会を兼任して仕えました。
1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生。ビルがペチャンコにつぶれていた映像を見ました。保育園の園舎も老朽化が激しく、その現状は恐怖でした。
耐震強度を検査してもらったら41%しかありませんでした。
そこで、園舎建て替えを計画しましたが、様々なハードルが立ちはだかり建設は困難をきわめました。
園舎建て替えのついでに、教会堂の建設もしました。
様々な困難がやってきましたが、私は不退転の覚悟でやり抜きました。
教会も保育園もそれほど広い施設ではありませんが、駅前通りに面した場所であるので、伝道活動も園児募集も祝されていました。

2026年7月20日月曜日

2026年 7月26日(日)礼拝ライブ配信

時間:10時30分~

 

説教=「眠るイエス様」    
井上隆晶牧師

聖書=マルコによる福音書4章26~29節、35~41節

讃美=讃美歌21-55番「人となりたる神のことば」
   讃美歌21-456番「わが魂を愛するイェスよ」

頌栄=讃美歌21-29番  
  
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

1【嵐に遭う舟】
夕方になって、イエス様は「向こう岸に渡ろう」と弟子たちにいわれました。ガリラヤ湖は海抜マイナス213mの谷底にあり、周囲を山が巡っているので、たびたび山からの突風が湖に吹きつけては嵐になりました。ベトロは漁師ですからそのことを良く知っていましたが、イエス様が言われたので仕方なしに彼らも従いました。弟子たちがイエス様を舟に乗せて漕ぎ出すと、案の定、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水浸しになりました。昔からユダヤ人たちは水を怖がりました。 ノアの洪水で多くの人を滅ぼしたのも、エジプト軍を滅ぼしたのも水であって、水は滅びの道具として用いられたからです。しかしイエス様は「嘘の方で枕をして眠っておられ」 (38節)ました。 そこで弟子たちはイエス様を起こして「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。私たちも嵐の中の弟子たちと同じように祈ってきました。「神様、教会が潰れても構わないのですか。この世界が滅びても構わないのですか。神様が支配しているなら、どうして悪人を放っておかれるのですか。神様に任せておいて大丈夫なのですか。私たちの目には、あなたは眠っているようにしか見えないのです。」すると「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に『黙れ、静まれ』といわれた。すると風はやみ、すっかり凪になった。」(39節)とあります。自然を従わせることができるのは神様だけです。実は神様が彼らと共に一つの舟に乗っているのです。でも弟子たちはそれにまだ気がつきません。イエス様は弟子たちに「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか。」(40節) と言われました。どうもイエス様はわざと弟子たちに嵐に遭う試練を与えているようなのです。

2【眠るイエス様】
私は最初、この物語を読んだ時「よくまあ、この人はこんな嵐の中で眠れるものだ」と思いました。 水をかけられたら普通の人は目が覚めます。水がかかっても眠り続けるなんてよっぽどこの人は疲れているのか、鈍感なのかと思いました。しかしイエス様は水がかかり、舟が沈みそうになっても眠り続けます。まるで幼子のようです。幼子は地震の時にも親を信頼してその胸で眠ります。眠るというのは委ねる最高の行為です。イエス様の眠りは、私たちに信仰とは何かを教えているのです。 嵐のような試練にあっても、神様を信頼して、すべてを委ねなさいと教えているのです。安心して水に飲み込まれなさい、つまり安心して試練に逢い、安心して死になさい、と教えているのです。 水に飲み込まれても必ず浮いてくる、死んでも必ず復活することをイエス様は信じていたからです。

3【キリストが共にいたら必ず復活する】
先ほど4章26節以降で「成長する種」のたとえを読みました。「神の国は次のようなものである。 人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、・・・」 (26~28節) 植物の生命力というのは本当に不思議です。枯れたと思っていた木が、いつの間にか芽を出し、次の日にはもう伸びています。いつ芽が出たのか、いつ成長したのか私たちは分かりません。私たちの気づかない内に、植物は成長します。それと同じように、神の国というのは私たちが気づかない内に成長し、 どんどん大きくなって広まり、やがて実を結ばせるというのです。この土に蒔かれた種とはキリスト自身であり、キリストの命です。土とは私たちのことです。このキリストの命という神の種が私たちの中に蒔かれたのです。この神の種は決して死なない命です。人間は神様に任せてただ寝起きしていればいいのです。安心してこの神の種と共に死ねばいいのです。このキリストという種を持っていたら必ず生きることになるからです。キリストの決して死なない命の種が今も、私の中に生きています。私が死んでも、この神の種が私を蘇らせます。だから、楽しいのです。わくわくするのです。キリストに一切を委ねて、安心して眠りましょう。

2026年7月12日日曜日

2026年 7月19日(日)礼拝ライブ配信

 時間:10時30分~

  


説教=「あなたのことだよ」
鈴木 ゴリ 宣仁 牧師

聖書=マルコによる福音書16章12節

讃美=讃美歌21―18番、425番
頌栄=讃美歌21-29番
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
A) イエスの死後、ガリラヤに逃げた弟子たち
1. 逃げる弟子たち。イエスと共にガリラヤからエルサレムに向かった弟子たち。このチームをを応援しお世話をする女性たち。イエスと出会って新しい人生を得た人たち。意気揚々とエルサレムに入った彼らは、しかし処刑されたイエスを前に、逃げ、潜んだ。 特にイエスに近かった「弟子」と呼ばれたペトロたちは「自分たちも捕縛され処刑される」という恐怖に駆られてエルサレムから逃れ、郷里のガリラヤを目指した。
2. その弟子たちに現れたイエス。そのうちの二人が田舎(ガリラヤ)の方に向かって歩いていると、そこに甦ったイエスが現れた。16:7によれば「イエスは先にガリラヤに行かれ。そこで再会できる」。一からやり直すチャンスをいただいた、ということか?

B) 迫害から逃亡するベトロ
1. ヨハネ13:36 「主よ、どこへ行かれるのですか?」 Quo vadis, domine
2. 新約外典「ペトロ行伝」 ローマで捕縛されたペトロが処刑されるとき、イエスと同じ姿では申し訳ないという理由で「逆さ磔」を望んだ。
3. 「クオヴァディス」(原作: ヘンリク・シェンキェヴィチ着/1896年出版/1905年ノーベル文学賞、映画:ハリウッド/1951年、内容:ネロの時代。自らローマに放火したネロは、その罪を当時迫害の対象だったキリスト教徒に被せた。)
 A) 及びB) 1.と2.を題材にシェンキェヴィチは「クオヴァディス」を書いた。ローマから逃げるペテロにイエスが現れ、「あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるだろう。」と告げる。直後、ペトロはローマに引き返し捕らえられ、逆さ礫に処せられる。

C) 求められているのは他でもない「あなた」
1. 福音書の行間を読むなら、エルサレムからガリラヤに逃亡する途上のペトロに現れたイエスは 「エルサレムの民を見捨てるな。エルサレムに戻れ。でも、それが無理なら私が行って、もう一度十字架にかかる」と仰ったのではないか。
2. 私も道を行くとき、突然イエスに遭遇することがある。大抵は、私が目指す方向とは逆の、私が逃げ出してきた場所を目指しておられる。イエスは「私の代わりに戻ってくれないか?」と仰る。遺巡する私にイエスは「無理ならいい。無理なのは分かっている。私があなたの代わりに行き、あなたたちのためにもう一度十字架にかかって死ぬから、大丈夫。」と仰る。
3. イエスによって「クォヴァディス(あなたは何処へいくの?)」と問われているのは、他の誰かではなく私であり、あなたです。

2026年7月5日日曜日

2026年 7月12日(日)礼拝ライブ配信

時間:10時30分~

 


説教= 「賢者」    
吉村厚信 伝道師

聖書=ルカによる福音書12章13節-21節

讃美=讃美歌21―57番、487番
頌栄=讃美歌21-29番

    
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
※当日、諸事情により
YouTubeのリンクが変更になりました。
現在は新しいリンクになっております。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】          
産経新聞に沖縄・辺野古で「平和学習」の名目で修学旅行に抗議船が使用され、同志社国際高校の生徒が亡くなったとても辛い事件の背景を単に反国家・反右翼・急進左派の象徴の如き文面で報道をされたことに遺憾に感じたのは私だけだったでしょうか。同志社交際高校の校長以下教員の謝罪会見も、自らが預かったこれからの世界を背負って立つ大事な若者の命が奪われたことへの深い悲しみが殆ど感じられない、とても違和感を覚える記者会見でした。産経新聞6月18日一面記事に今回の事件を起こし亡くなった金井創(はじめ)牧師について触れ見出しに『反権力 反国家の原点』、小見出しに『左派隆盛の教団で伝道の道』、1970年万博のキリスト教館出展是非の教団内で揉めた事件まで触れて、日本基督教団が左派の社会運動にのめり込む牧師の集団のように誤解されてしまうのでは、と心配しています。同じく産経新聞7月7日第一面も同志社国際高校の引率教員が亡くなった生徒の顔を知らなかったの見出しに、余計に考えさせられました。交通機関に学生を乗せるとき引率の教員は点呼をして顔と名前を確認する基本的なこともできていなかった母校の教師に、遺族から学校の管理に対しする「ずさんずぎる」との声を載せています。母校の後輩、わたしが所属した体育会武道クラブ監督は、本当に平和を学ぶのであれば戦争の悲惨さだけを学ぶのではなくなぜ戦争が起きるのか、国家・外交・安全保障・人権・民主主義・国際秩序と言った複数の視点から生徒自身が考えることが出来る学習であるべき、同志社の行ったのは単なる戦争学習だけだった、と記しています。イエス様は私たちに何がいちばん優先するかを「子供を大事にする」のマルコによる福音書10:15にもしっかりと記されているではありませんか。


就労支援でも私たち支援員が最もしてはいけないこと、それは重荷を背負った利用者から一瞬たりとも注意の目をそらすこと、しっかりと彼ら彼女らを見守ることを怠ること、です。こんなことを思いつつ今日の聖書の箇所、「愚かな金持ちの譬え」の箇所です。

13-15節:貪欲と有り余るほどの財産では人の命はどうすることも出来ない、なんでもできると一瞬神さまを忘れてしまう。「貪欲」とはお金や目に見える財産を所有する、これは偶像崇拝であり、神さまを忘れる行為、とされる。16-19節:金持ちの譬え、豊かさの強調を、作物を保管するもっと大きな蔵(倉庫)を建てて穀物や財産をしまって何年も先まで蓄えをして、飲み食いしたリして楽しみ自分のことしか考えない、と記される。20-21節:自分のことしか考えられず、神さまを忘れた者になる、わたしたちの命は神様から与えられた大切なもの、その命を返えさざるを得なくなります。

売り上げを追いかけていたサラリーマンだった頃、「新しい商売をぜひ見つけてくれ。色々とサポートするから。」と言葉を発する上司、その言葉に感化されて開拓・新商品と企業戦士だったわたしは一生懸命に働きます。新しい客先の獲得、新しい商材の開発と売り込みの成功はその当時の営業マンとしてはいちばんの達成感でした。学校の試験でいい点をとったような感覚に酷似していました。商材の展開に失敗したこともあり、そんな時は多少なりともクレームが発生します。上司をして私たちを守ってくれる、と期待したことは見事に裏切られます。“受注をでかした、でかした”と称賛することばかりでこの上司は手柄が欲しかった、その一点に於いて部下を利用しただけでした。負の出来事には部下を悪者にして自らはフェイドアウトしようとする場合もある、そこそこの有名な国立大学を出ていてこのざまです。

わたしたちの本当の賢明さとはどのようなものでしょうか。はっきり言ってわたしは聡明ではありません。感情の起伏が激しく人と比べて背伸びばかりしていたかったサラリーマン時代、その本人がこの檀上に於いて聖書のお話をしていますが、心が迷い自分が愚かになるときは今でも変わりません。自分が愚かになるときに神様の御言葉を自らに語りかけ様々な物事に対する冷静な目をもつこと、悲しみに遭ったとき、主の福音を自らに語りかけて立ち直ろうとすること、このことを大事にするその心構えをわたしは大切にしたいと願っています。イエス様が教える、聖書が提示する「賢さ」とは何なのか、ご存じの「コヘレトの言葉」にも様々な賢者のメッセージとして語りかける内容があります。

分別の賢さ…現実の複雑さを見抜いていくこと、

抑制する賢さ…自分の言葉と感情をコントロールすること、

降伏出来る賢さ…不条理を前にして受け容れる強さ

愛の知恵…己の弱さを知り、他者の為に愚直に生きる賢さ

ではないでしょうか。どんなに頑張ってもひとは神にはなれない、しかし神に近づくために何かを課される必要もない。家族や周りの方々を大事にして与えられた仕事に真摯に向き合い生活する、その一点に於いてひとは十分に聖化されています。「受洗した」としてもあとにいっぱい辛いこと、苦しいこと、悲しいことを神様は私たちにお与えになるのだ、と。高齢になってから見えてくるものがあります。歳を重ねてからわかるものやわかることもあります。そこに実は主の大きな「恵み」があるのです。老いを重ねること、肉体は衰えていきますが、スピリチュアルな世界へ臨むことは増していきます。真面目に生きて来た人が突然の病に倒れ、悪賢い人間がのうのうと金持ちとして人生を謳歌する、そんな不条理も直接間接に見て来られた、経験してこられたのではないでしょうか。それはそんな理不尽な世界を見て来たからこそ対峙できる強さが生まれるのです。そのことが本当の「賢者」の第一歩なのかもしれません。おおきな成功や富ではなく、「いま此処にある」日常の生活をイエス様から神さまから与えられたことを感謝して受け取ることこそが最も「賢者」なのではないか、と聖書は教えていると思います。