2024年4月4日木曜日

2024年 4月7日(日) 礼拝 説教

        ー復活節第2主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「イエスの傷とあなたの傷を重ねて」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 20 章 24~31 節
(新約聖書  210 頁).

讃美=  21-504,247,21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 英語に「IF」という言葉があります。日本語の文脈によっては「もしも~だったら、もしも~であれば」と訳される場合もあります。「あのときこうしておけばよかった」「あのときああしておけばよかった」という呟き。少年期や青年期であれば「あんたはいつもタラレバ」だねえと笑える話もあるでしょう。

 しかしこれが甚大な自然災害の被災者の方々や戦争の被害者、交通事故の被害者となれば笑えないどころか、一生消えない問いとしてことある毎に浮かんでやまない言葉となるでしょう。もしあのとき家族を逃がした後に消防団の呼び出しに応じていたら。もしもあのときに勤労奉仕にこどもを急かせていなかったら、もしもあのタイミングでブレーキを踏んでいさえすれば。福島県の浜通り南相馬市には相馬焼という焼き物がありましたが、その土はすべて放射性物質となったがために多くの窯元が廃業、元旦の能登半島の震災でも輪島塗の建物が崩壊し立ち直れなくなった工房が限りなくあります。

 『ヨハネによる福音書』で描かれるトマスの物語は、そのような深い「タラレバ」にあふれている箇所です。トマスはラザロとマルタ、そしてマリアの暮らすベタニアに人の子イエスが進もうとされたときに、動揺する弟子の中で「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」とまで仲間を鼓舞した人物です。ですからただ単に「疑い迷うトマス」ではありませんでした。しかしその熱い気持ちゆえにこそ、トマスはイエスの十字架での死に深く傷ついてしまうのです。古代ユダヤ教でも、現代のユダヤ教でも、救い主が十字架に釘打たれて処刑され、そして葬られるなどという事態はあってはなりません。もしそのようなことがあるならば、その時代の理解では人の子イエスは救い主ではなかったこととなります。死刑囚に連座する者として身柄を束縛されるよりも、その深い挫折と絶望にトマスは襲われていたのではなかったかと考えます。足の萎えた物乞いを立ちあがらせたわざはいったい何だったのか。盲人の目を開いたあのわざは何だったのか。五つのパンと二匹の魚で五千を超える人々を満たした祈りはどこへ行ったのか。十字架で処刑され、埋葬されるなどあってたまるかという深い傷を負っていたに違いありません。だからこそ他の弟子よりもトマスには時が必要だったのかもしれません。「一二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。それだけ傷が深かったとも読みとれる箇所です。「そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指に釘跡を入れてみなければ、また、この手を脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。トマスにとって、イエスの手に打ち付けられた釘の跡、とどめを刺し、その生死を確かめるための槍の傷跡は、自らに打ち込まれた釘であり、槍の穂先でもあったように思えてなりません。わたしたちはこのような絶望に覆われたことがあったでしょうか。青いはずの空が鉛色に垂れ込めるような悲しみに覆われることがあったでしょうか。ひたすら日の当たらないところに閉じこもっていたいと思い詰めたことがあったでしょうか。しかし、復活されたイエス・キリストは、人が設けた全ての閉じこもりの鍵と扉を突き抜けてトマスの前に姿を現わします。「あなたがたに平和があるように」。口語訳では「安かれ」と訳される箇所です。外部から押し迫る弾圧のもたらす恐怖からの解放としても受けとめられますが、むしろ「あなたがたのすべての深い傷は癒された」実りとしての平安として受けとめてもよいでしょう。なぜなら弟子たちの一人として、十字架の出来事の傍観者ではなかったからです。全員がこの出来事の当事者であり、とりわけトマスの傷は深い者がありました。そのトマスにイエス・キリストは語りかけます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。復活されたイエス・キリストは、この箇所でまたひとつの奇跡を起こしました。それは自暴自棄になっていたはずのトマスに自らの傷をふれさせることにより、トマス自らが抱えたところの、そのままでは癒しようのない傷を癒し、喜びに変えたというわざです。トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と答えます。トマスは傷の癒しを超えて新たに道を拓く力をイエス・キリストから授かったばかりか、主がともにいるとの確信を授かったのです。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と後の世のキリスト者、とりわけ生きづらさにあるキリスト者に向けて復活のキリストは語りかけます。「もしもキリストが復活されたなら」ではなく「すでにキリストは甦られた」のです。全ての絶望の終わりと、新しい光の道がそこにはあります。