ー復活節第1主日礼拝ー
―イースター礼拝―
時間:10時30分~
説教=「復活のイエス・キリストと出会う」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』 20章11~17節
(新約聖書 192頁).
讃美= 146 (1.3.4), 265 (1.3),讃美ファイル3(1.2), 21-29.
福音書の物語の中には、人の子イエスの筆頭弟子シモン・ペトロを始めとした弟子による「メシア告白」が記されます。それはイエス・キリストが対話の中で「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問うた折、ペトロが「あなたは、メシアです」と告白する場面で、人の子イエスは口外しないよう弟子たちを戒めるという具合で進んでまいります。しかしこの物語が記されている福音書三部作、つまりマルコ、マタイ、ルカによる福音書では、いずれにしてもこの告白はキリストが受ける苦難と十字架への道を前にして脆くも崩れ去っていきます。イエス・キリストが語る十字架と死、そして葬りと復活の出来事のうち、復活がどのような出来事であるのか分からず、結局はキリストの受難を目の当たりにしてある者は逃げ去り、ある者は無罪を訴えながらも深い後悔の中で自らを死に追いやります。どのように整った「信仰告白」を行なったところで、それがイエス・キリストの十字架の出来事と関わり、十字架を深く見つめていなければ歪みや欠けのあるものとなります。 そのような弟子に比較しますと本日の箇所でのマリアの態度は実に素直です。「マリアは墓の外に立って泣いていた」とあります。そのわけは、墓地にあるイエスの埋葬場所で、遺体が姿を消してしまい、人の子イエスの亡骸が取り去られ、どこに置かれているか分からないからだと天使に答えるところにあります。マリアには墓が空になっている様子は信仰上の問いかけでも何でもなく、遺体が失くなりただただ悲しいというその事柄に尽きます。実にその場にわたしたちがいたとしても変わらない、大切な人のいのちだけではなく身体までも失った者の素直な反応です。そのようなマリアの後ろから復活したイエスは問いかけます。「婦人よ、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのか」。マリアは復活したイエスだと気づかないまま「あなたがたあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。マリアには十字架に架けられたイエスの身体が、死刑囚の身体でもあると忘れませんでした。もし墓地の管理人がそのことを知っており、何らかの仕方で遺体まで辱めるのであれば「わたしが引き取る」とまで申します。その時代の女性には見られない、極めて強い宣言であり態度です。自分はこの処刑された死刑囚の身内であると宣言するに等しい行為です。
そのようなマリアの決意を知ってか、復活したイエスは「マリア」と声をかけます。その人だと気づいたマリアは「ラボニ」「先生!」と思わず叫ぶほかありませんでした。しかし不思議なことに復活したイエス・キリストは次のように語ります。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」。これはどういうことでしょうか。復活したイエス・キリストは、自らに気づいたマリアに対して底意地悪く殊更深い問いかけをしたのでしょうか。
決してそうではないと、わたしはこの箇所を受けとめます。それは、これまでマリアとともにいた人の子イエスの「これまでの姿」と、これから人々が仰ぐところの、死にうち勝った復活のイエス・キリストの「これからの姿」は全く異なるというところ、つまり、死に勝利し復活したところのイエス・キリストは、身体に十字架で受けた傷を刻みながらも、怯える弟子たちと一層深い交わりを育んだ後に、父なる神のもとに上るとされるからです。今や人の子イエスは、人間として人々の傷みに寄添い、その時代人の数にも入れられなった人々とともに食卓を囲み、素性や特性すら多様なこどもたちを抱いて一人ずつ祝福されたその愛情が、今やわたしたちには見えない神の愛を証ししてきたと、神の愛の統治が直ちにわたしたちのもとに訪れるその日まで、父なる神のもとで証しし続けてまいります。その神の愛のもとにわたしたちはつつまれています。
時は流れます。これまでのわたしたちとこれからのわたしたちは当然ながら異なります。あえて「変わらないなあ」と久しぶりの再会を喜ぶのも、時計の針が二度と元には戻らない厳粛さを知ればこそ、です。だからこそ、イエス・キリストはマリアに伝えます。「わたしの兄弟のところへ行ってこう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたのいのちである方、また、わたしの神であり、あなたがたの神であるところへわたしは上る』と」。マリアは素直に弟子のもとに出かけ、「わたしは主を見た」と語り、託された言葉を語ったとあります。
力のありなしによって関係性が歪められ、傷つきいのちさえ粗末にされる世は、福音書の時代もわたしたちの時代も変わるところはありません。十字架のイエスを見つめつつ復活のキリストに従いながらこれからも神の愛を証ししていきましょう。喜び、祈り、主なる神に感謝を献げるあゆみが少しずつわたしたちを変えていきます。