2024年3月1日金曜日

2024年 3月3日(日) 礼拝 説教

     ー受難節第3主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「一二人の弟子の一人であるユダ」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』6章60~71節
(新約聖書  177頁).

讃美=  258,21-575,21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 多くの弟子が離れ去る中で「あなたがたも離れて行きたいか」と問われる中、人の子イエスのもとに残ったのは一二人の弟子でした。『使徒言行録』を参考にいたしますと、この時点で一二弟子とはペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダ、そしてイスカリオテのユダであるとされます。しかしとりわけイスカリオテのユダはその中でも異彩を放っています。「裏切り者」「悪魔」というラベリングが福音書の解釈に限らず『聖書』のテキスト自体にも明かだからです。教会の交わりはおろか世のキリスト教文化圏でも「あなたはユダみたいな人ですね」などと言うならばたちまち険悪な雰囲気になります。キリスト教の価値観と葛藤し続けた近代日本文学の歴史の中で太宰治は『駆込訴へ』という作品を「裏切り者イスカリオテのユダの独白」という構成で著わしています。

 しかしながら福音書を先入観に基づいてではなく、丁寧に読み解いてまいりますとまた別のユダの姿が現われます。『マタイによる福音書』27章1~5節では全ての弟子が恐怖のあまり身を隠す中「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と人の子イエスをローマ総督ピラトのもとに送った裁判の誤りと人の子イエスの無罪を証言します。また、イスカリオテのユダが自ら命を絶った態度をその罪深さに数える人もおります。『聖書』全体を見渡して自ら命を絶つ者としてはユダの他にヘブライ統一王国の初代王サウルがおります。このサウル王もユダもその死に方によって罪深さが際立たせられるところはありません。自死が罪だとは『聖書』では規定されてはいません。むしろ後の教会が世俗権力と一体化する中で過酷な労働を強いられた農奴や奴隷を確保するための「方便」としての教説に源があると理解した方がより適切かと存じます。

 それでは『聖書』はイスカリオテのユダを「裏切り」だと説く根拠は何でしょうか。これは渡辺敏雄牧師との読書会で知ったことですが「裏切る」とは本来ギリシア語では「パラドゥーナイ」とされ、「裏切る」よりもインパクトの弱い「引き渡す・委ねる」が適切な訳であるとのことでした。さらにはイスカリオテのユダには他の弟子にはない人の子イエスへの近さをもっていることが、祭司長とその下役らへの合図である「接吻」から分かります。他の弟子に人の子イエスとの挨拶で接吻を用いた人物はおりません。イスカリオテのユダの特徴を福音書の受難物語の中で整理しますと次のようになります。①人の子イエスは、弟子と使徒のうちの一人によって、使徒の中から祭司長たちに引き渡されました。これはイスカリオテのユダによる「引き渡し」に始まります。②イスカリオテのユダはイエスを祭司長たちに引き渡し、祭司長たちはイエスを総督ピラトという異邦人へと引き渡します。そしてピラトは人の子イエスを十字架へと引き渡します。③イスカリオテのユダの「引き渡し」は最初かつ最小の局面ですが、連続する「引き渡し」全体のわざの最初という意味ではユダの行為は決定的です。この三点を踏まえますと、イスカリオテのユダはイエスの十字架での死と復活にいたる道筋の途上で、たまたまそこに居合わせたような人物ではなく、神の領域に属するイエス・キリストとこの世、十二使徒とこの世との関係に深く負い目のある者とされたことが分かります。『ヨハネによる福音書』で人の子イエスから悪魔呼ばわりされたイスカリオテのユダですが、イエス・キリストの十字架と死、そして復活の道に関わる弟子としてはペトロ以上に個性的であると捉えられます。それではイスカリオテのユダもまた神の愛につつまれ、救われたのかどうか。この問いが気になりますが、それは神の国の訪れを見なければ何とも言えません。その「沈黙」が『聖書』を様々な決めつけや自分勝手な利用から遠ざけるためには重要だと言えます。しかし後の『使徒言行録』で応急措置的な対応の後に出現し、姿を消す使徒マティアに代わって活躍した使徒パウロの異邦人伝道に賭けた情熱を踏まえるならば、パウロが律法学者であったころに名乗っていたサウロという名とユダは決して無関係ではありません。律法学者サウロはユダ以上に罪深い者でした。同時に『旧約聖書』のサウル王も神の恵みのもとで神との関わりを見失い、その弱さと罪深さによって却って神の栄光を世に顕した者として名を刻まれています。

「一二使徒の一人」として他の使徒の「罪による連帯責任」を負ったイスカリオテのユダ。そこに働いた神の秘められた計画は、パウロは救い主イエス・キリストの復活を語り、それは文化の垣根を越えた異邦人伝道へとつながり、世界へと広がりました。幾度も蔑まれてきたイスカリオテのユダもまた、神に用いられた使徒の一人であった事実を深く胸に留めましょう。その記憶の反復がキリストとの関係というわたしたちの信仰を確かにします。