2024年3月21日木曜日

2024年 3月24日(日) 礼拝 説教

      ー受難節第6主日礼拝ー

 ―棕櫚の主日礼拝―

時間:10時30分~



説教=「濡れ衣を破る復活の兆し」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』18章 33 ~ 40 節
(新約聖書  192頁).

讃美=  讃美ファイル 5,21-298,271B,21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 イスカリオテのユダから大祭司の下役へ、大祭司の下役から大祭司へ、大祭司からピラトへと引き渡されたイエス・キリスト。誰からも罪に定められなかったからこそ、このようにたらい回しにされていき、本日の箇所にいたります。イエス・キリストの十字架にいたるまでの道は、確かに苦難の道であります。しかしその苦難は運命や定めといったものではなくて、地球規模の視点からすれば神の救いの約束の実現、わたしたち「赦された罪人」の実に偏狭な眼差しからすれば思いも寄らないほど残酷な出会いと仕打ちから生じた痛みです。大祭司アンナスのもとに連れていかれたイエスはその口の利き方が横柄だと下役から平手打ちの辱めを受けます。

「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」とこの状況下にあってなおその時代の裁判の正当な手順に、自らの逮捕が沿っていないと語ります。この救い主の示される神の愛の真実さは、却って人の子イエスを罪に定めようとする側の分裂を明らかにします。
  
  すなわち本日の箇所の直前にはイエスをカイアファのところから総督ピラトのもとに連れていく人々は「自分では官邸に入らなかった」とあります。なぜでしょうか。それは異邦人であるピラトと接触することで、安息日に汚れてしまうことを恐れたからです。「汚れないで過越の食事を済ませるためであった」とある通りです。この箇所の直前にあるのが大祭司の下役と総督ピラトとの押し問答で「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」との言葉ですがこれは偽りで、人の子イエスには『律法』による過ちが一切見いだせず結論ありきの裁判、もっといえばお互いがお互いを功利的に利用しようとする歯車に人の子イエスが架けられようとしている様子が描かれているのです。人の子イエスとピラトとの対話は、人の子イエスが無罪であることを却って明らかにいたします。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」。「わたしの国は、この世には属していない」。人の子イエスの語る神の愛による統治は、世にある政治に縛られるものではないとはっきり語ります。裏を返せば、ローマ帝国との競合関係にはないとの意味となり、十字架刑の適応外になります。ピラトはこのような仕方で救い主の処刑を望む者に陥れられたと知ります。ですからピラトには、イエス・キリストとの問答は計り知れないほどの恐怖となったことでしょう。ローマ帝国の代官が裁きを誤って騒動を起こせば皇帝から罰せられるからです。恐怖に基づく交わり、またお互いを利用しようとする交わりはこのように解体されバラバラにされてまいります。なぜなら互いに尊敬の念がまるでないからです。「真理とは何か」と問いかけるのがピラトにできる限りの言葉でした。

 その後のピラトの対応は、イエス・キリストとの間になるべく責任が生じないように行動することでした。つまり過越の祭の慣例に則して、集まった群衆に死刑囚の恩赦を申し出ます。しかし少なくともピラトはこう語っているのです。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」。これは事実上総督としての責任を丸投げにする、職務放棄のわざです。その結果、まことに恣意的に集められた民衆によって十字架刑が決定されてしまいます。相手への尊敬を欠いた神なき交わりが何をもたらすのか、キリストの苦難はその事実をあぶり出すにいたりました。

 年度末を迎え、知る限りではありますが人と人との関わりが絶たれていく現状に悲しみを覚える機会も増えてまいります。ことのほか喫緊では職員自ら密なるチームワークで臨まなければなし得ないはずの教育や保育、福祉の現場にも組織の拡大と儲けを第一とした、人を人とも扱わない管理者の態度が目立ちます。そしていつも濡れ衣を着せられるのは現場で当事者とともに涙と喜びをともにしてきた職員であったり、あるいは働き手であったりという具合です。相手を尊ぶ交わりが、そうでない暴力によって引き裂かれていく不条理がそこにはあります。そのような組織の中では、異議を唱える者には排除の刃が向けられます。しかしわたしたちの交わり、そしてわたしたちの連なる働きの場はそうであってはならず、またそうなるならば必ず神の愛の力が臨むことでしょう。神は正しい者のかたわらにいるだけでありません。人間は正しさを振りかざして弱い者を虐げられもするからです。主なる神は虐げられた者の側に立つ者、「弁護する者」であり、それは人がこしらえあげた濡れ衣を引き裂き、新しい道を必ず備えます。イエス・キリストの苦難は、そのような濡れ衣と枷を万人の知るところとし、そして人々に自らの苦しみと引き換えに解放の力を注ぎ込みます。イエス・キリストとともにある交わりには、お互いに頼りとしながら、かけがえのない特性を喜び、痛みをともにしタラントを活かす道が備えられています。