ー受難節第4主日礼拝ー
時間:10時30分~
しかしIT技術がどのように発達したとしても再現も通信もできない感覚があります。それは触覚と味覚と嗅覚です。五感のうち視聴覚はデジタル化できても、それ以外の感覚は再現できないままです。
本日の場面では人の子イエスがマルタとマリアの姉妹のうち、妹マリアからナルドの香油で足を拭われるという場面です。『マルコによる福音書』と『マタイによる福音書』では頭であり、香油を注ぐ女性の振る舞いに憤慨するのは『マルコによる福音書』の場合は「そこにいた人の何人か」、『マタイによる福音書』では「弟子たち」となります。いずれにしても人の子イエスに近しい人物がそこにおり女性に憤慨したとの理解は変わりません。『ヨハネによる福音書』でこの場面は口を挟む人物が「イスカリオテのユダ」とされるところにその重点もまた置かれています。
この箇所でイスカリオテのユダは目利きとしての才能を発揮しています。それは注がれたこの香油の値打ちを「三百デナリオン」と瞬時に見抜いている態度から分かります。しかし人の子イエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとって置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。最初に記されたとされる『マルコによる福音書』では「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」との呟きさえ聞こえます。しかし果たして、イエス・キリストとの関わりの中で無駄なものなどあるというのでしょうか。わたしたちは神から様々な賜物をイエス・キリストとの関わりの中で発見します。そのどれ一つとして「無駄なもの」などありません。人の子イエスはすでに十字架への歩みを始めています。十字架刑で処刑された者は一般には弔われず、野晒しにされました。処刑場は鳥獣の餌としてあたりに骨が転がっていたところから「ゴルゴダ(されこうべ:元来は仏教でお骨を『舎利』と呼んだ語から『舎利頭』と記される)」と呼ばれていました。しかしそのような人々のただ中から、自らの社会的立場をなげうちその遺体をひきとったアリマタヤのヨセフが描かれます。救い主イエス・キリストのドラマは死によって決して終りません。
思うにイスカリオテのユダは今を生きるわたしたちと同じ課題を抱えていたのではないでしょうか。それはすべてを効率的に考え、無駄なく対応するという姿勢です。ひょっとしたら注がれた香油に表現される経済価値を、イエス・キリストの道とはかけ離れた自分本位の善意で用いようとしたのかも知れません。しかしこの姿勢にイスカリオテのユダの課題があったのであり、わたしたちの課題も重なります。それはわたしたちが神なき善意の中で争い、神なき善意の中で人を苦しめ、神なき善意の中で傲慢になるというあり方です。世にあるあらゆる差別や排除も戦争も殆どが善意の名の下で行なわれます。それが神のもとから略奪された善悪の知識の実であることに誰も気づかないのです。便利さの美名に隠れる効率性に選別と排除が隠されている現実を、わたしたちはそのようなものだと知りつつ、神との関わりの中で受けとめなくてはなりません。あくまでもすべては授かるものであって、わが意のままに操作できるものではないのです。
イエス・キリストはゲツセマネという場所で身柄を拘束される前に苦しみの中で祈りを献げました。それは『マルコによる福音書』では「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取除けてください」との祈りでした。しかしそのような苦しみの中で「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」と続けます。イエス・キリストを包んだナルドの香油は、暗闇の中でそのような苦しみに喘ぐ人の子イエスの姿を、いのちの光のなかでわたしたちに示します。わたしたちの味わう不条理さがあるとするならば、イエス・キリストがすでにわたしたちに成り代わって神のご計画のもとにわたしたちを引き戻してくださります。それは冷たい運命などという歯車ではなく、どのようないのちにも分かちあわれ、備えられる希望の光でもあります。わたしのものは「わたしのもの」、あなたの時間も「わたしのもの」という独占欲で占められているのではなく、わたしのもの・わたしたちのものはすでに主なる神に献げられている世界でもあります。
説教=「非効率の中に潜むいのちの希望の光」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』12章1~8節
(新約聖書 191頁).
讃美= 511,21-309,21-27.
コロナ禍以降に急速に進んだIT社会。今や国際会議ですらリモート技術で行なわれ、電子通貨も普及を見せ、スマートフォンと銀行の口座が直結されて買い物もできるようになりました。天井からぶら下げたザルにあるお金で会計を済ませた時代とは全く異なり、実にスマートな精算システムが導入されて久しいところ。20世紀なら宇宙船に搭載するレベルのIT技術が、名刺入れほどの大きさの「携帯電話」には凝縮されています。仮想現実システムも生成型AI(人工知能)も身近になりました。しかしIT技術がどのように発達したとしても再現も通信もできない感覚があります。それは触覚と味覚と嗅覚です。五感のうち視聴覚はデジタル化できても、それ以外の感覚は再現できないままです。
本日の場面では人の子イエスがマルタとマリアの姉妹のうち、妹マリアからナルドの香油で足を拭われるという場面です。『マルコによる福音書』と『マタイによる福音書』では頭であり、香油を注ぐ女性の振る舞いに憤慨するのは『マルコによる福音書』の場合は「そこにいた人の何人か」、『マタイによる福音書』では「弟子たち」となります。いずれにしても人の子イエスに近しい人物がそこにおり女性に憤慨したとの理解は変わりません。『ヨハネによる福音書』でこの場面は口を挟む人物が「イスカリオテのユダ」とされるところにその重点もまた置かれています。
この箇所でイスカリオテのユダは目利きとしての才能を発揮しています。それは注がれたこの香油の値打ちを「三百デナリオン」と瞬時に見抜いている態度から分かります。しかし人の子イエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとって置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。最初に記されたとされる『マルコによる福音書』では「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」との呟きさえ聞こえます。しかし果たして、イエス・キリストとの関わりの中で無駄なものなどあるというのでしょうか。わたしたちは神から様々な賜物をイエス・キリストとの関わりの中で発見します。そのどれ一つとして「無駄なもの」などありません。人の子イエスはすでに十字架への歩みを始めています。十字架刑で処刑された者は一般には弔われず、野晒しにされました。処刑場は鳥獣の餌としてあたりに骨が転がっていたところから「ゴルゴダ(されこうべ:元来は仏教でお骨を『舎利』と呼んだ語から『舎利頭』と記される)」と呼ばれていました。しかしそのような人々のただ中から、自らの社会的立場をなげうちその遺体をひきとったアリマタヤのヨセフが描かれます。救い主イエス・キリストのドラマは死によって決して終りません。
思うにイスカリオテのユダは今を生きるわたしたちと同じ課題を抱えていたのではないでしょうか。それはすべてを効率的に考え、無駄なく対応するという姿勢です。ひょっとしたら注がれた香油に表現される経済価値を、イエス・キリストの道とはかけ離れた自分本位の善意で用いようとしたのかも知れません。しかしこの姿勢にイスカリオテのユダの課題があったのであり、わたしたちの課題も重なります。それはわたしたちが神なき善意の中で争い、神なき善意の中で人を苦しめ、神なき善意の中で傲慢になるというあり方です。世にあるあらゆる差別や排除も戦争も殆どが善意の名の下で行なわれます。それが神のもとから略奪された善悪の知識の実であることに誰も気づかないのです。便利さの美名に隠れる効率性に選別と排除が隠されている現実を、わたしたちはそのようなものだと知りつつ、神との関わりの中で受けとめなくてはなりません。あくまでもすべては授かるものであって、わが意のままに操作できるものではないのです。
イエス・キリストはゲツセマネという場所で身柄を拘束される前に苦しみの中で祈りを献げました。それは『マルコによる福音書』では「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取除けてください」との祈りでした。しかしそのような苦しみの中で「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」と続けます。イエス・キリストを包んだナルドの香油は、暗闇の中でそのような苦しみに喘ぐ人の子イエスの姿を、いのちの光のなかでわたしたちに示します。わたしたちの味わう不条理さがあるとするならば、イエス・キリストがすでにわたしたちに成り代わって神のご計画のもとにわたしたちを引き戻してくださります。それは冷たい運命などという歯車ではなく、どのようないのちにも分かちあわれ、備えられる希望の光でもあります。わたしのものは「わたしのもの」、あなたの時間も「わたしのもの」という独占欲で占められているのではなく、わたしのもの・わたしたちのものはすでに主なる神に献げられている世界でもあります。