2026年7月12日日曜日

2026年 7月19日(日)礼拝ライブ配信

 時間:10時30分~

  


説教=「あなたのことだよ」
鈴木 ゴリ 宣仁 牧師

聖書=マルコによる福音書16章12節

讃美=讃美歌21―18番、425番
頌栄=讃美歌21-29番
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

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2026年7月5日日曜日

2026年 7月12日(日)礼拝ライブ配信

時間:10時30分~

 


説教= 「賢者」    
吉村厚信 伝道師

聖書=ルカによる福音書12章13節-21節

讃美=讃美歌21―57番、487番
頌栄=讃美歌21-29番

    
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

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【説教要旨】          
産経新聞に沖縄・辺野古で「平和学習」の名目で修学旅行に抗議船が使用され、同志社国際高校の生徒が亡くなったとても辛い事件の背景を単に反国家・反右翼・急進左派の象徴の如き文面で報道をされたことに遺憾に感じたのは私だけだったでしょうか。同志社交際高校の校長以下教員の謝罪会見も、自らが預かったこれからの世界を背負って立つ大事な若者の命が奪われたことへの深い悲しみが殆ど感じられない、とても違和感を覚える記者会見でした。産経新聞6月18日一面記事に今回の事件を起こし亡くなった金井創(はじめ)牧師について触れ見出しに『反権力 反国家の原点』、小見出しに『左派隆盛の教団で伝道の道』、1970年万博のキリスト教館出展是非の教団内で揉めた事件まで触れて、日本基督教団が左派の社会運動にのめり込む牧師の集団のように誤解されてしまうのでは、と心配しています。同じく産経新聞7月7日第一面も同志社国際高校の引率教員が亡くなった生徒の顔を知らなかったの見出しに、余計に考えさせられました。交通機関に学生を乗せるとき引率の教員は点呼をして顔と名前を確認する基本的なこともできていなかった母校の教師に、遺族から学校の管理に対しする「ずさんずぎる」との声を載せています。母校の後輩、わたしが所属した体育会武道クラブ監督は、本当に平和を学ぶのであれば戦争の悲惨さだけを学ぶのではなくなぜ戦争が起きるのか、国家・外交・安全保障・人権・民主主義・国際秩序と言った複数の視点から生徒自身が考えることが出来る学習であるべき、同志社の行ったのは単なる戦争学習だけだった、と記しています。イエス様は私たちに何がいちばん優先するかを「子供を大事にする」のマルコによる福音書10:15にもしっかりと記されているではありませんか。


就労支援でも私たち支援員が最もしてはいけないこと、それは重荷を背負った利用者から一瞬たりとも注意の目をそらすこと、しっかりと彼ら彼女らを見守ることを怠ること、です。こんなことを思いつつ今日の聖書の箇所、「愚かな金持ちの譬え」の箇所です。

13-15節:貪欲と有り余るほどの財産では人の命はどうすることも出来ない、なんでもできると一瞬神さまを忘れてしまう。「貪欲」とはお金や目に見える財産を所有する、これは偶像崇拝であり、神さまを忘れる行為、とされる。16-19節:金持ちの譬え、豊かさの強調を、作物を保管するもっと大きな蔵(倉庫)を建てて穀物や財産をしまって何年も先まで蓄えをして、飲み食いしたリして楽しみ自分のことしか考えない、と記される。20-21節:自分のことしか考えられず、神さまを忘れた者になる、わたしたちの命は神様から与えられた大切なもの、その命を返えさざるを得なくなります。

売り上げを追いかけていたサラリーマンだった頃、「新しい商売をぜひ見つけてくれ。色々とサポートするから。」と言葉を発する上司、その言葉に感化されて開拓・新商品と企業戦士だったわたしは一生懸命に働きます。新しい客先の獲得、新しい商材の開発と売り込みの成功はその当時の営業マンとしてはいちばんの達成感でした。学校の試験でいい点をとったような感覚に酷似していました。商材の展開に失敗したこともあり、そんな時は多少なりともクレームが発生します。上司をして私たちを守ってくれる、と期待したことは見事に裏切られます。“受注をでかした、でかした”と称賛することばかりでこの上司は手柄が欲しかった、その一点に於いて部下を利用しただけでした。負の出来事には部下を悪者にして自らはフェイドアウトしようとする場合もある、そこそこの有名な国立大学を出ていてこのざまです。

わたしたちの本当の賢明さとはどのようなものでしょうか。はっきり言ってわたしは聡明ではありません。感情の起伏が激しく人と比べて背伸びばかりしていたかったサラリーマン時代、その本人がこの檀上に於いて聖書のお話をしていますが、心が迷い自分が愚かになるときは今でも変わりません。自分が愚かになるときに神様の御言葉を自らに語りかけ様々な物事に対する冷静な目をもつこと、悲しみに遭ったとき、主の福音を自らに語りかけて立ち直ろうとすること、このことを大事にするその心構えをわたしは大切にしたいと願っています。イエス様が教える、聖書が提示する「賢さ」とは何なのか、ご存じの「コヘレトの言葉」にも様々な賢者のメッセージとして語りかける内容があります。

分別の賢さ…現実の複雑さを見抜いていくこと、

抑制する賢さ…自分の言葉と感情をコントロールすること、

降伏出来る賢さ…不条理を前にして受け容れる強さ

愛の知恵…己の弱さを知り、他者の為に愚直に生きる賢さ

ではないでしょうか。どんなに頑張ってもひとは神にはなれない、しかし神に近づくために何かを課される必要もない。家族や周りの方々を大事にして与えられた仕事に真摯に向き合い生活する、その一点に於いてひとは十分に聖化されています。「受洗した」としてもあとにいっぱい辛いこと、苦しいこと、悲しいことを神様は私たちにお与えになるのだ、と。高齢になってから見えてくるものがあります。歳を重ねてからわかるものやわかることもあります。そこに実は主の大きな「恵み」があるのです。老いを重ねること、肉体は衰えていきますが、スピリチュアルな世界へ臨むことは増していきます。真面目に生きて来た人が突然の病に倒れ、悪賢い人間がのうのうと金持ちとして人生を謳歌する、そんな不条理も直接間接に見て来られた、経験してこられたのではないでしょうか。それはそんな理不尽な世界を見て来たからこそ対峙できる強さが生まれるのです。そのことが本当の「賢者」の第一歩なのかもしれません。おおきな成功や富ではなく、「いま此処にある」日常の生活をイエス様から神さまから与えられたことを感謝して受け取ることこそが最も「賢者」なのではないか、と聖書は教えていると思います。

2026年6月29日月曜日

2026年 7月5日(日)礼拝ライブ配信

 時間:10時30分~

  

説教=「見えないものに眼差しを」
鈴木 ゴリ 宣仁 牧師

聖書=マルコによる福音書1章16節~20節

讃美=讃美歌21-18番、425番
頌栄=讃美歌21-29番
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

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【説教要旨】

■シモンの述懐 ①
 あの日、いつものように網を打ってたら、突然あの人から声をかけられたんや。そもそも話したのは初めてで。でも、あの人が大工のヨセフのところの長男てことは知ってて。それと、弟や妹たちとは父親が違うのもここらの誰もが知ってる話でな。誰かが「マリアが聖霊によって身籠って生まれた子」といってバカにしたから、それから俺たちはあの人のことを「神の子」て呼ぶようになって。
 そんなんやから、あの人は父親や兄弟と折り合いが悪くて、長男やのに家業も手伝わんと、ずっと湖の畔をブラブラしてた。俺とあの人は同い年で、俺たちは15くらいの時にはもう一人前に船に乗って魚を獲ってたけど、そのころからあの人は独りで、朝から晩まで、ときには焚火しながら一晩中ここにいた。家に帰っても居場所がなかったんやろな。どこに行っても「神の子や」てヒソヒソ言われて指さされるしな。きっと湖の畔が一番ほっとできる場所やったんやと思うわ。

■シモンの述懐 ②
 俺が30歳になった年に、あの人が突然バプテスマのヨハネていうこれまた変わり者に弟子入りして、川の中に沈められる儀式を受けたらしいねん。その噂をきいて、俺は弟のアンデレや、ゼベダイの親父のとこのヤコブやヨハネと、「あの神の子に何が起きたんや?どないなったんや?」て噂しとったんよ。その矢先の、あの日、あの人が突然現れて、「俺についてこい。人間を獲る漁師にしたる」ていいよったんよ。
 え?今まで見たことあるけど喋ったことのない奴に突然「ついてこい」て言われて、何でホイホイついていったんや、てか?
 それはな、あの人が、俺らをまっすぐ見てくれたからや。俺らは決められた時間
に礼拝することもでけへんやん。安息日でも関係なく獲れるときに魚を獲るやん。
俺らは読み書きもでけへんし、貧しいし汚いし臭いし。そんなんやから、街に出ても誰も俺らをまっすぐ見てくれへん。俺らなんかそこに居てへんような扱いをしよるやろ?
 そんな俺らをな。あの人は、まっすぐ見たんや。まっすぐ見てくれたんや。まっ
すぐ見て声をかけてくれたんや。俺な、あの時、「ああ生まれてきてよかった」て思えてん。「ああ生きててよかった」て思えてん。そんなことを思わせてくれた人が「俺についてこい」ていうてくれたんやで!そりゃ一緒に行こう!てなるやろ?!



2026年6月23日火曜日

2026年 6月28日(日)礼拝ライブ配信

 時間:10時30分~

 

説教=「賜物を活かして生きる」
井上良作 牧師

聖書=イザヤ書41章8-10節(旧約1126頁)
マタイによる福音書25章14-30節(新約49頁) 

讃美=讃美歌21 303番、404番 
頌栄=
頌栄21-27
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

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【説教要旨】

「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持って いるものまでも取り上げられる。」(マタイによる福音書 25 章 29 節)

はじめまして。井上良作と申します。
今朝は、泉北ニュータウン教会の礼拝にお招きいただきありがとうございます。
本日の聖書箇所は、おそらく皆さんがよくご存知の、「タラントンのたとえ」というイエスがなさったたとえ話です。『天の国はまた次のようにたとえられる。』(14節)とあります。神様は私たちの人生の後に天国へ招いてくださるというのだけれども、それは今この人生をどんなふうに生きるかということと繋がっているということです。
『ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。』(14、15節)

「ある人」には僕が三人いました。この主人と僕との関係は神様と私たちの関係をたとえています。主人はそれぞれの僕の「力に応じて」異なる額の財産を預けました。「タラントン」というの当時の通貨名が「タレント」、「才能」、「賜物」という言葉になっていることはご承知のことと思います。では、このタラントンというお金がどれくらいの額かと云うと、一タラントンは六、〇〇〇デナリオンに相当します。「デナリオン」はいくらなのかと云うと、「ぶどう園の労働者のたとえ」では、雇い主が労働者を一日一デナリオンの賃金で雇っています。今日の日本で考えて、労働者一日分の賃金が大体一万円ということにしましょう。一タラントンは六、〇〇〇万円、二タラントンは一億二千万円、五タラントンは三億円という大変大きな金額になります。たとえ、一タラントンだとしてものすごい大金です。この主人は大変な大金持ちです。
『早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。』(16~18節)
二人の僕は預かったタラントンで「商売をして」、さらに儲けて預かった額の倍にしました。彼らは「商売=ビジネス」を起こしたということです。“business”は“busy”の名詞ですが、“busy”とは「空いているところを埋める」というような意味です。電話が話し中でふさがっているときには、“The line is busy.”と言われます。世の中の欠乏、人々の必要を満たしていくことが“business”です。二人の僕は主人から預かったお金を用いてそのようにビジネスしました。そこへ主人が旅行から帰って来て、僕たちと清算をしました。五タラントン、二タラントンの僕たちはそれぞれ預かったお金を倍の金額にして主人に返したところ、主人はたいそう喜んで、『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』(21、23節)と言いました。
ところが、一タラントンを預かった僕は何もせずに、ただ穴を掘ってそのお金を隠しておきました。そして、旅行から帰った主人に、預かったお金をビタ一文違えること無く返しました。すると、主人は非常に怒って言いました。『さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』(28~30節)
このたとえ話を理解する鍵は、一タラントンの僕が主人に報告するときに言った言い訳に秘められています。彼はこう言いました、
ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』(24、25節)
一タラントン預かった僕と他の二人の僕たちとの決定的な違いは、一タラントンの僕だけが主人に対してとても否定的なイメージを持っていたということです。「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める」という最悪な主人ですから、自分が何かやったらきっとダメ出しされる、叱られるに違いない。だから、文句を言われないように預かったお金には一切手も触れず地面の中に隠しておいた。
ところが、他の二人は異なります。彼らには主人に対する否定的なイメージは一切無く、むしろ非常に肯定的なイメージしか持っていませんでした。だから、何とかして主人を喜ばせたい。主人から預かったお金を役立てて何かをすれば主人はきっと喜んでくれるだろうとワクワクしました。彼らには恐れや不安や疑いが全く無かったのです。主人に対して抱いているイメージが僕たちの命運を決定的に分けました。はじめに言いましたように、主人と僕の関係は、創造主である、父なる神様と私たちとの関係を表しています。主人に対して持っているイメージが僕たちの人生のイメージとなりました。同じように、神様に対して持っているイメージがあなたの人生のイメージとなるのです。

創造主である父なる神様は私たち人間すべてを愛し、罪と滅びから救い出し、永遠の命を与えるために、御自分の独り子であるキリスト・イエスを十字架で死なせられた方です。私たちに本当の自由を与えるためなのです。

2026年6月14日日曜日

2026年 6月21日(日)礼拝ライブ配信

時間:10時30分~

 

説教=「もっとお気楽に~♥」
鈴木 ゴリ 宣仁 牧師

聖書=ヨハネの黙示録1章8節 

讃美=21-18 21-425
頌栄=21-27
 
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

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【説教要旨】
■先頭を行く者の辛さ
1. 家族や仲間、チームや組織を率いて先頭を進むとき、私たちは責任の重さに圧し潰されそうになります。

2. 右の道を行くか、左の道に進むか、あるいは目の前の急斜面を藪を掻き分けながら突破するのか。判断が誤っていれば、自分を信頼して従ってきてくれている人々の命を危険に晒す可能性があるときなど、なおさら躊躇し立ち竦んでしまいます。

■殿(しんがり)の辛さ
1. 登山でパーティーを組んだとき、その最後尾(殿/しんがり)には最も経験と体力がある人が付くのだそうです。何があっても誰一人その場に置き去りにしない覚悟と実行力がある人が「殿」を務めるのです。

2. 突然の戦禍に巻き込まれ、住み慣れた街から逃げ出さなければならなかった方の言葉。「私たちの生命と財産を奪おうとする武装した者たちが、難民となった私たちの後を追ってきていた。幼い子ども、乳飲み子を抱いた母親、足が弱った高齢者、戸板に寝かされたままの病人、そのような家族のすべてが生き延びられるように、私は逃避行の群れの最後尾を守り皆の盾となったのです。」

■アルファ(先頭)とオメガ(殿/しんがり)はイエス
1. 今日の箇所には「イエスがアルファ(先頭)でありオメガ(殿/しんがり)」だと書かれています。私が先頭に立ち、分かれ道で逡巡し立ち竦むとき、実は私の目の前にはイエスの「頼もしい背中」が見えているのです。

2. 全員が生き延びて目的地に辿り着くには、メンバーの消耗が激しすぎる。そんな絶望的な道行きの最後尾にいるとき、振り返ってみるとそこには私を赦し支えるイエスの「包み込むような笑顔」があるのです。

3. 無責任や他責は困ったものですが、逆に責任感が強すぎる・自分を責めすぎることもイエスは望んでおられない。「私が先を行く。心配せずについておいで。私が殿を守る。あとのことは任せておけ。」と背中と笑顔で伝えてくださるイエスに「委ねる」道が残されていることに感謝したいのです。

2026年6月7日日曜日

2026年 6月14日(日)礼拝ライブ配信

時間:10時30分~

 

説教= 「恵み」    
吉村厚信 伝道師

聖書=コリントの信徒への手紙Ⅱ 第12章9~10節 

讃美=「神のかぞく」「ワ・ワ・ワ一緒に」「うたいましょう」


礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】 
本日の聖書箇所、以前「弱さ」をテーマの箇所として話しましたことがありましたが、今日は皆さんに「恵み」としてお話をします。第 9節に「恵み」と出てきます。「わたしの恵みはあなたに十分である」とあります。キリスト教を広めようと宣教をするイエスさまの弟子 (使徒)パウロの周りには様々な迫害があり、また自分が持っている身体の病気との闘いもありました。 この聖書箇所の前のところで体に刺さる「とげ」と言う言葉が出てきますが、そのいじわるや自分の病気のことを「とげ」が刺さった 痛いときの感覚として聖書は表現しました。 パウロはもともとキリスト教徒をいじめる側のひとでした。だけどイエスさまに出遭ったことで今度は命がけでイエスさまの教えを伝えます。いじめられる側になっても教会を建てて、イエスさまの教えを守ろうとする人に変わりました。

そのパウロの「恵み」は周りからいじめられる、自分の病気を持ってしまう、そんな苦しい周りや自分の環境の中でも「恵みは十分だ」と言います。それも自分が弱いとき 悲しかったり辛かったりのときでも神さまからの恵みは十分なんだ、といいます。

この本当の意味は、いつも自分の願い事がかなうことばかり追いかけると、そういう風に祈らないとやっていけない自分の精神的な弱さや自分に対しての限界がある、ひとより強いこと、ひとと比べて優劣をつけることは必要なのでしょうか。本当の弱さとは、弱さをそのまま認めることで神さまの「恵み」に満ちて神さまが働いてくれる、そのことを信じることです。神さまはお一人お一人に異なる可能性と才能を授けてくれます。マルコによる福音書10:13-14には、子どもであるみなさんの存在自体が素晴らしいとイエスさまは仰っておられます。自分たちの限界を決めつけるようなことを考えなくとも、そのことを知ることで実はもっとおおきな強さや力を、イエスさまを通じて神さまは皆さんに与えてくれます。それが大きな「恵み」です。自分ひとりだけではとても不安になったりしてイエス様を忘れてしまいます。 弱いときこそ周りに支える方がいることで安心を感じる、そのことに感謝し、そして最も大きな「恵み」、イエスさまは、しんどい、辛い、悲しい、そう感じるときに必ずあなたたちの傍らに居られます。そしてうれしい、楽しいときも、イエス様は皆さんの傍に居ながら隠れてみていてくれます。イエスさまはあなた達お一人お一人の道をいつも照らしてくれています。

いつも神さまは皆さんにその道を照らしてくれる、だからそのままの皆さんでいて、そして皆さんが素直にイエスさまを見ていてくださることを願います。


2026年6月1日月曜日

2026年 6月7日(日)礼拝ライブ配信

時間:10時30分~

 

説教= 「原点」    
吉村厚信 伝道師

聖書=ルカによる福音書 第4章1~13節

讃美=21-343 21-346
頌栄=21-27

    
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
現在のイラン・アメリカの戦闘状態の影響で、中東からの原油に大きな支障が出ています。「ナフサ」が足らなくなり、ガソリン供給にも不安があるなど、以前のコメ不足も彷彿させて何か豊かさが失われていくようです。自分勝手なイデオロギーや権力主張から紛争が起こっても何もよいことはありません。日本は株価が6月1日で6万円台を超え会社員現役の頃の7年前2019年の3倍近い株価で経済は非常に活発に見えますが、色々な商品値上げなど一生懸命働いていても良い方向に向かっているように思えません。

今わたしたちを照らす電機の照明も化石燃料から供給された電力や生活を支えるエネルギー、そこに前述のイラン・アメリカの戦争同様人間の欲望も見え隠れしています。本日の聖書箇所は、「サタン」の様々な誘惑に対して聖霊に満ちたイエス様が対峙する、その場面では私たちがよく耳にする聖書の言葉が登場します。「サタン」は一神教の下で神や人間に敵対する悪魔的な存在を指します。キリスト教神学で「サタン」は神に対して謀反を起こした堕天使で人間を誘惑し、特にカトリック教会では教会を滅ぼそうとするものとされてきました。

1-4節:イエス様は受洗のあと、聖霊に導かれて荒れ野の中で40日間悪魔からの誘惑を受けますが、申命記9:9にありますモーセの四十日間四十夜断食をしたことを彷彿させます。悪魔からの石をパンにする誘惑、註解書では「パン」を「マナ」に変えるような内容に対して、イエス様は有名な一節「人はパンだけで生きるものではない。」「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」といいます。5-8節:悪魔がイエス様を高い山に連れていき、世界のすべての国々、当時のローマ帝国の世界の権力と繁栄をイエス様に与えようという誘惑をイエス様は「ルカによる福音書10:22」「すべてのことは父からわたしに任せられています。」異教徒たちへの宣教のメッセージとして「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と信徒と教会への励ましをも表されています。9-12節:エルサレム、この地名が明確に示されたことでイエス様の受難の死から復活された最後の勝利が示されています。悪魔はそこでイエス様にメシア(=神)であることを示せと試みを要求しますが、イエス様は、「主を試すな」と一蹴します。

13節:悪魔の誘惑はイエス様の受難のときがくるまで、「イスカリオテと呼ばれるユダの中にサタンが入る」までイエス様を離れます。

この聖書箇所はイスラエルの民が神を信じなかったがゆえに神からの信頼を失い、荒れ野の旅を全てイエス様への悪魔の都合の良いようにイエス様を誘うその誘惑=試みに遭わせず、イエス様が悪より救い出す、その場面を表しています。

先週の井上牧師からの御言葉をお聞きして、ひとは「聖人」になることではなく、「キリストを信仰せよ」の意味が「きれいなものを見てきれいなことをせよ」、とのメッセージだったと思います。どんなに頑張ってもひとは神にはなれません。しかし、自身に神に近づくために何かのノルマを課される必要もありません。家族や周りの方々を大事にして与えられた仕事に真摯に向き合い生活する、その一点に於いてひとは十分に聖化されているのだと思います。バプテスマ(洗礼)はわたしたちが神の子となる大きな機会を神様から頂くことですが、「受洗した」としてもあとにいっぱい辛いこと、苦しいこと、悲しいことを神様は私たちにお与えになります。ご存じのパウロ書簡一節をお読みします。「コリントの信徒への手紙一 10: 13」「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」苦しいとき、悲しいときにひとは必ずと言っていいほど天を仰ぎます。神さまを仰ぎます。そしてまた前を向いて歩きだす。不完全で足らないけどそれでよいのです。教会共同体で共に神様の方向を向いて共に歩み努力する、ときに受洗者という果実=同じ方へ歩もうとする仲間を神様から頂く、それが本当の神様から「洗礼を施された」という意味ではないでしょうか。18世紀のドイツの自由主義神学者フリードリヒ・シュライエルマッハーは、自らの著書『宗教論』の中で、「宗教の本質は知識や行為ではなく、直観と感情」と記しました。「神さまがわたしたちの中に着床される」という感覚、シュライエルマッハーの神学思想は、人の外側の超越的な存在、その存在への畏怖の念ではなく「人間自身の中に存在する」のです。人間は生まれたときは無垢できれい、それが様々な紆余曲折を経て経験した辛いことや悲しいことからあくまで「ひと」として学習していっぱい鎧兜を身に着けてしまいます、財産、地位、そして保身、それが本日の「サタンの仕業」だとしたら、神さまが着床してくれたことで、サタンに誘惑されて悪の方向へ向かうことを自ら止めて、神さまと同じきれいで前向きな気持ちが自然と自らの中に芽生える、そんな感覚になるのではないでしょうか。

この感覚が神さまからわたしたちに頂いたまさに「原点」になる、と聖書は教えてくれています。

2026年5月24日日曜日

2026年 5月31日(日)礼拝ライブ配信

時間:10時30分~

 

説教=「キリストを見るために」    
井上隆晶牧師

聖書=創世記3章8~13節
ルカによる福音書19章1~10節

讃美=21-18, 21-432
頌栄=讃美歌21-29番  
  
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
①【イエス様を見ようとしたザアカイ】
エリコの町にザアカイという徴税人の人がいました。このザアカイが、なぜか「イエス様がどんな人か見ようとした」というのです。それは、自分と同じ徴税人を弟子にしている人がいるという噂を聞き、そのイエスというお方に興味が湧いたからだと思います。イエス様を見るために出かけたのですが「背が低かった」 (19:3) ため群集に遮られて見ることが出来ませんでした。しかし彼の中のイエス様を見たいという思いは収まらず、何としても望みを果たそうとします。彼は走っていって先回りし、いちじく桑の木に登り、その葉の影からイエス様を見たのです。私はこの物語を読むと、エデンの園のアダムを思い出します。その昔アダムは神の顔を避けて、園の木の間に隠れましたが、ザアカイはその神の顔を見るために木に登りました。ここに人間の回復の始まりを見ます。私たちがどんなに罪深くても、それは神と出会うための障害になりません。本当の障害は、罪深さではなく、キリストに期待しないことです。

②【回心とは=この世ではなく、キリストを見ること】
この物語には「見る」という言葉が5回も繰り返されています。この物語は「見る」ことがテーマです。人間の五感「視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚」はもともと神を知り、神と交わるための道具として造られました。しかしそれは神に向けられるのではなく、この世に向けられたのです。創世記のエデンの園の箇所で「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け」(創世記 3:6) と書かれています。その木とは善悪の知識の木であり、神が「食べると必ず死んでしまう」 (創世記2:17)と、食べることを禁じた木です。この善悪の知識の木とは神を抜きにしたこの世の象徴です。この世は神よりも魅力的に見え、私たちの目を引き付けます。この世は私たちを喜ばせ、この世の中に命があると思わせます。最初の堕落はこの世を「見ること」から始まりました。 私たちは「食べると必ず死んでしまう」(創世記2:17) という言葉を、軽く聞いています。この世を求めたくらいでは私たちは死なないと思っています。修道士たちは「悪魔は穴が空いたところから入って来る」といいましたが、目からは汚れた映像、耳からは汚れた言葉、口からは過度の飲食が入って私たちの魂は汚れてしまうのです。しかし教会に帰ると私たちの五感が神に向かって正しくリセットされるので人に戻ることができるのです。イエス様はいちじく桑の木の下まで来ると足を止められ、上を見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19:5) 驚くべきことに、イエス様の方からザアカイに声をかけられました。ザアカイは自分がイエス様を求める以上に、イエス様が自分を求めていたことを知りました。ザアカイは急いで木から降りてきて、喜んでイエス様を家に迎え入れました。

③【私は、本当は美しい】
イエス様は「この人もアブラハムの子なのだから」と言われました。私たちはみな神の子なのです。 昔の教父たちの言葉を借りるなら「わたしは黒いけれども愛らしい」(雅歌1:5)のです。「罪は私の一部であって全てではない、私は、本当は美しいのだ」と言いましょう。罪も死も病気も私たちの本性ではありません。後から着いた習性です。イエス様は私たちの中の美しいもの、神がお造りになった本当の私を信じ、見ていてくださいます。そこがキリストとつながった時、必ず開花するのです。北陸学院高校の教務教師である高田恵嗣(けいじ)牧師は、「きれいなものを見る、きれいな言葉を聞くことは力になるのです。綺麗ごとを言うな!というけれど、綺麗ごととは、人の本来あるべき姿なのです。そこを目指して生きようと思えるのです。教会は人のあるべき姿を語り続ける場所でありたい。」と言われました。神が人になったのは、人を神に似た者にするためです。キリストの愛と創造の業に期待しましょう。主は必ず、私の中に眠っている美しいキリストの似姿を開花させ、主に似た者に変容させてくださるでしょう。

2026年5月17日日曜日

2026年 5月24日(日) 礼拝ライブ配信

【ペンテコステ礼拝】

時間:10時30分~

 


説教題=「聖霊の業である教会」    
池田清樹牧師 

聖書=コロサイの信徒への手紙 1章24~29節

讃美=讃美歌21-204番 、412番
頌栄=讃美歌21-29番

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より

礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
教会は聖霊なる神のお働きによって生み出され建てられる。

私が泉北栂教会において、特に心にとめたことは、人と人とのつながりを結んでいく努力です。

教会がどれだけほっとできる雰囲気づくりができるかを心がけていきました。

教会とは、基本的に何より愛の交わりです。

1989年9月23日 第一回目の会堂建築委員会が発足しました。その時私は週報にこう記しました。

「神は必ず私達の祈りに応えてくださる。信仰とは常に現実を見ることではなく、神にある可能性を仰ぎ見ることです。私の頭の中には十字架がそびえ立った教会のイメージが描かれている。」

1995年5月31日、泉北栂教会の会堂は一億円の資金で建ち上がったのです。そして、その際の東梅田教会からの7,000万円の借金は、教会員の献金で18年間で完済しました。


2026年5月10日日曜日

2026年5月17日 礼拝 ライブ配信

時間:10時30分~

 

説教= 「lose & lose」    
鈴木 ゴリ 宣仁牧師

聖書=旧約聖書 ヨシュア記2章1節
新約聖書 マタイによる福音書1章1~11節

讃美=讃美歌21-18番、425番
頌栄=讃美歌21-29番  
  
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は1種類です。

教会のYouTubeチャンネルは、こちらのURLです。
https://www.youtube.com/@senboku.newtown.church
※原則、ライブ中継のみとなります。当日用の新しいURLは、こちらのホームページの説教のページに、その都度掲載してまいります。よろしくお願いいたします。


礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
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【説教要旨】
■win-win の関係は本当に正しいのか?

1. 田中正造と足尾銅山鉱毒事件~winner 「勝ち組」としての道を歩めたのに

正造は1841年12月15日、今の栃木県佐野市の庄屋家に長男として生まれた。 衆議院議員になった1890年(49歳)、渡良瀬川の大洪水がきっかけで足尾銅山鉱毒事件が発生。1891年(50歳)、第二回帝国議会で「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」という憲政史上に残る大演説を行い、利益を得るため政府と大企業が結託し、農地を荒廃させ農民の生活を破壊したことを猛烈に批判し責任を追及した。しかし政府と大企業が責任を取らず、鉱毒事件をなかったことにしようと画策し続けたことから、1901年(60歳)明治天皇に直訴しようと試みる。しかし官吏に取り押さえられ失敗。議員辞職。歴史の表舞台から姿を消した。


2. その後の正造 ~loser 「負け犬」としての道を選んだ 

1904年(63歳)、正造は国策として貯水池として水没させられることになった谷中村に移住。 1908年、谷中村全域が河川地域に指定され、1911年には旧谷中村村民の北海道への移住が始まる。この間、政府のやり方に反発し北海道への移住を拒否した旧谷中村住民たちと共に、旧谷中村貯水池で船上生活を送る。高みからの支援ではなく、住民に学ぶ共生へ。 1913年9月4日(71歳)、胃癌のため逝去。財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、その時持っていたのはボロボロの頭陀袋1つ。その中に帝国憲法とマタイ伝の合本、日記3冊、小石3個、川海苔、鼻紙があるのみだった。谷中村村民に倣い、「負け犬」の如き晩年を選んだ正造は、イエスのように生きたいと願っていたのではないか。 
※参照 林竹二著「田中正造の生涯」(講談社 1976)


■マタイがこの系図に込めた思い ~血筋や地位ではなく

1. 系図に登場する、歴史を繋いだ四人の女性たち

①3節 「タマル」 娼婦に化けて男(ユダ)の子を生んだ外国人女性 創世記38:1~26 
②5節「ラハブ」 イスラエルを救った敵国の遊女 ヨシュア記2:1~24 
③5節「ルツ」 1人残された姑を見捨てず支えた外国人女性 ルツ記1:1~4:22 
④6節b 「パテシバ」 ダビデ王に夫を謀殺され権力に支配された妻 サムエル記下 11:1~27

2. loser と共にloser として生きる道を選ぶ

四人の女性は、外国人差別にさらされ、貧困に悩み、権力による支配に苦しんだ人たち。勝ち組ではなく社会的に「負け犬」とされた人たち。この女性たちによってアブラハムの家系は存続した。winner 勝者によるのではなく、loser 「負け犬」が紡ぎ績んだ歴史、とマタイは理解した。 さらに、イエスは、そのような家系の末裔ヨセフとは血のつながりがないという。そして極めつけは「イエスはすべての人の奴隷となり、奴隷となって死んだ」。
「誰が一番偉いのか」で紛糾し、分裂しかけていたエルサレム教会に対して、マタイは、田中正造のように「loser としてloser と共に生きる道を敢えて選ぶ」 「それがイエスに倣うということだ。」と伝えたかったのだと思うのです。

2026年5月3日日曜日

2026年 5月10日(日) 泉北ニュータウン教会・こひつじこども園  創立55周年記念礼拝 ライブ配信

2026年 5月10日(日)

開場 10:00 / 礼拝開始 10:30〜

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


おかげさまで、泉北ニュータウン教会および
こひつじこども園は創立55周年を迎えます。
この節目を記念して、素晴らしいゲストをお招きした特別なイベントを開催いたします。

当日は、福音歌手の森祐理さんをお迎えし、
音楽コンサートを開催します🎵 
  
森さんはNHK教育テレビ「ゆかいなコンサート」の歌のお姉さんとしても、ご活躍された方です。
ご家族やお友達とお誘い合わせの上、ぜひ癒やしの時間をお楽しみください。

どなたでもご参加いただけます。
記念すべきこの日を、皆様と共に過ごせれば幸いです。
皆様のご来場を心よりお待ち申し上げております。


礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致しました。
当日はコンサート形式となりますので、動画はライブ配信後に非公開とさせて頂きました。

2026年4月26日日曜日

2026年 5月3日(日) 礼拝ライブ配信

 時間:10時30分~

 

説教= 「繋がり」    
吉村厚信 伝道師

聖書= ルカによる福音書 第2章22〜38節

讃美=讃美歌21-528  21-463   
   頌栄=21-29     
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は1種類です。

教会のYouTubeチャンネルは、こちらのURLです。
https://www.youtube.com/@senboku.newtown.church
※原則、ライブ中継のみとなります。当日用の新しいURLは、こちらのホームページの説教のページに、その都度掲載してまいります。よろしくお願いいたします。


礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
南大阪教会の教会員だったころ「臨床宗教師」に魅かれましたが主任教師前々任 横浜紅葉坂教会へ赴任された岩橋常久先生からは、「牧会自体がスピリチュアルケア!」と強くご示唆がありました。チャプレン・大阪生野教会担任教師から離れる前、精神的に「関係妄想」に近い状況になりました。その後自己を理解するために2025年春に一週間「スピリチュアルケア」実地専門演習に参加する機会を頂きました。場所は堺市立総合医療センター、自分の殻を取り素の自分を出し自分の恥部を集まって来たメンバーの方々に披露、クライアントが真の姿迄見せてくれるために自分を開示すること、その訓練をさせて貰いました。現在臨床スピリチュアルケア協会通称PASCH(パスク)に所属しています。定期的に専門講習会(「専門演習」)に参加、3月参加のときのことを聖書箇所から導きたいとおもいます。「彼らの清めの期間」、定められた律法期間40日目になって清めの儀式にイエス様は両親に連れられ神殿に行きます。旧約のサムエル記にも乳離れしたサムエルが母親ハンナに連れられてシロの主の家(神殿)に行きますが、単なる律法を守ることではなく主に「聖なる者」と呼ばれることを強調しています。山鳩ひとつがいは仔羊を捧げることの出来ない貧しい者の捧げもの。シメオン、エルサレムに住んでいた人物です。メシアに会うまで死なない、と聖霊からお告げを受けていました。そのシメオンが神殿でイエス様と出会い、イエス様を抱いて「主の言葉通り、この僕を安らかに去らせて下さいます。」「万人のために整えて下さった」との感謝があり、そこには民族宗教から異邦人までをも包含する普遍的宗教へとその信仰が深まっていきます。長く苦しめられた民は「神からの慰め」が必要、イエス様とイエス様の行動に繋がっていく一つの流れです。当時イスラエルはローマ帝国の植民地、イスラエルの民は奴隷で当時のヘロデ王の元でとても苦しめられていました。民衆は慰めを欲していました。シメオンは「この子はイスラエルの民に衝撃を与え、また反対を受ける」、と十字架に架かることまで預言します。その後アシュル族のアンナと言う女預言者が登場します。アンナは結婚し夫と死別、神に仕える身として原始教会では未亡人の模範でした。アンナの役割はイエス様のことを人びと皆に知らせる役目、これも「神からの癒し」です。この箇所で重要なこと、「ルカによる福音書」のこの章までに登場する人物の多くは「老人」、ということです。ザカリア、エリザベト、シメオン、アンナ、みな高齢者です。高齢の方々は今まで旧約の律法を遵守して生活してきましたがそこには旧約の古い秩序がありました。しかしもうすぐ天に召される立場に比して新しい命の鼓動、ヨセフとマリアの存在とイエス様の誕生、と新しい「秩序」の変化へと繋がっていきます。そして「神の救い」という一点に於いてこの箇所のストーリーの流れが繋がっていきます。自由になることへの神の到来「希望」が見え隠れする、「古いもの」が「新しいもの」へと繋がっていく、歴史の方向は一方向でも「神の救い」を求めるその方向は全く一致しています。スピリチュアルケア専門演習で、わたしは言葉の意味の「深さ」を教えて頂きました。
二人以上で同じことを行う:共同
心と力を合わせて助け合う:協同
複数の主体が共通の目的のために各々の特性や才能を合わせて対等な立場で協力して活動する:協働
協力して働くには「役割分担」が必要です。専門家は自分の領域を「聖域」としたがる、一緒に行うと言っていても排除の方向にぶれるケースが多い、介護施設チャプレンや教会宗教施設宗教者がその専有物として高齢者の方々、患者の方々の魂の不安や叫びに繋がりはしないか、現場で働いているひとへの心の丈を打ち分けやすくなる対象、ボランティア活動の透明化、病院なら清掃係の方々との繋がりで、不満・不安・悩みの打ち明け、そんな環境が必要になります。これは私たちの環境とも全く同じ、考え方・職種・夫々の素晴らしい能力が異なる方々がお互い重なる部分が大きければ大きいほどかつ役割分担が明確であれば明確であるほど、おおきな力が生まれます。高齢の方々、また末期の癌や難病に苦しむ患者さんの「救い」、そしてその方々への「癒し」や「慰め」は、歴史上の繋がりと共に様々な方々の横の繋がりを合わせていきます。それぞれの相手に対して、
ご家族:孤独感、寂しい、ひとりぼっち
医師 看護師 介護士 :怒りや苦痛の意味について問いかけ、生きる意味の喪失への訴え
臨床心理士 精神科医:無意味感、虚無感、罪責感、
チャプレン 宗教家  : 死後の自分の有無、天国の有無、先に亡くなった家族との再会
全てに共通するものは患者や介護や支援が必要な方々に対してその方々のために何ができるのだろう、ということです。互いの役割・能力・専門分野の知見知識・各分野の目的と限界が理解し合って重なり合う範囲が広がって「ひと」という横のつながりの中で本当の環境を作れるのではないでしょうか。自分達だけ救われたいのか、隣人も救いたいのか、もっと広く隣人ではない(クリスチャンではない)方々にも救いの手が差し伸べられるのか、その手は神様から差し出された手を待つだけなのか、私たちの祈りと共に私たちもイエス様と一緒に手を差し伸べるのか、そこに「繋がり」が現れるのではないでしょうか。

2026年4月20日月曜日

2026年 4月26日(日) 礼拝ライブ配信

時間:10時30分~

 

説教= 「大丈夫!」    
鈴木 宣仁  牧師

動画のリンクは、ページの下の方に載せております。
中継動画は、配信後もご覧いただけます。

当日の礼拝風景など

 








 


聖書=
申命記 18章9~14節
 (新共同訳 旧約 309頁)
マタイによる福音書 5章43〜47節
 (新共同訳 新約 8~9頁)

讃美=21-18, 21-425, 21-27.      
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は1種類です。

教会のYouTubeチャンネルは、こちらのURLです。
https://www.youtube.com/@senboku.newtown.church
※原則、ライブ中継のみとなります。当日用の新しいURLは、こちらのホームページの説教のページに、その都度掲載してまいります。よろしくお願いいたします。


礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
■イエスが私たちに求めたものは、所詮落胆するしかない命令か…
1. 「山上の説教」ではさまざまな倫理的課題が示されており、これらを集約したの
が本日の箇所です。イエスは、私たちに対して、究極の課題として「敵を愛し、自
分を迫害するもののために祈れ」と求めます。
2. 「敬神愛隣」でさえ覚束ないのに、隣人どころか「敵を愛し、迫害するもののた
めに祈れ」という倫理的命令は、私たちにはハードルが高すぎます。
例えば、ハラスメント行為によって苦しめられた相手を救命するために、私たちは
自分の命を投げ出せるでしょうか?
結局は「神様のように完全な者になりなさい」というのは所詮落胆するしかない、
あるいは絶望するしかない、無理難題だと思うのです。

■命令ではなく約束
1. しかし、「なりなさい」は実は命令形ではなく未来形で書かれています。
「完全なものになりなさい」ではなく「完全なものになるだろう」です。
私たちの「完全」は努力によって獲得するものでも、獲得できるものでもない。
ただ「いつか必ず完全なものにしてあげる」という神様の約束によるのです。
2. 完全になんかなれなくていい。不完全なままでいい。こんな私でも大丈夫。神様
は不完全な私を補って支え、いつの日か「完全なもの」にして下さるからです。

■誰も排除されない、誰もがずっといていい場所
1. イエスは、教師として神と人との関係性の修復を説きました。同時に、宗教的に
地域コミュニティから分断され排除され孤立した人たちに居場所を回復した人(今
でいう社会運動家)でした。
2. 病気や障害を抱える人たち、貧困ゆえに罪を犯すしかなかった人たち。そのため
に「穢れている」とされ、家を追われ地域を追われ、隔離されて暮らすしかなかっ
た人たち。イエスは、そのような人たちに「あなたは完全になんかなれなくてい
い」「不完全なままでいい」「そのままで大丈夫」「神様が完全なものにしてくださ
る」と言葉で伝えるだけでなく、「誰も排除されない」「誰もがいていい」家でも地
域でもない「第三の居場所」を作り、行き場のない人たちを迎え入れたのです。
3. 分断と排除と孤立のなかで、教会は「誰もがずっといていい場所」として開か
れ、行き場を喪くした人たちを受け止める身構えが出来ているでしょうか。

2026年4月12日日曜日

2026年 4月19日(日) 礼拝ライブ配信

復活節第3主日礼拝  

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教= 「逆 転」    
吉村厚信 伝道師

聖書= ルカによる福音書24章13~35
(新共同訳 新約 101頁) 

讃美=21-333, 21-484, 21-27.      
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は1種類です。

教会のYouTubeチャンネルは、こちらのURLです。
https://www.youtube.com/@senboku.newtown.church
※原則、ライブ中継のみとなります。当日用の新しいURLは、こちらのホームページの説教のページに、その都度掲載してまいります。よろしくお願いいたします。


礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】        

今週とても悲しい出来事を私たちは報道で知りました。京南丹市の男児遺棄事件、犯人は亡くなった安藤結希さんの父親でした。何故その命まで奪うことしか選択肢がなかったのか、何故そのように考えて実行してしまったのか、理解に苦しみます。その理由、わたしの愚息(息子)がステップファミリーだからです。お話は控えますがそのうちの一人は足が不自由、今の私の車は福祉車両仕様になっています。「いのちの大切さ」を思うとき、何故将来のある子供に手をかけてしまったか、この犯人の動向を静かに見守りたいと思います。今回の御言葉の箇所、「マリアの賛歌」としてマリアが天使から「受胎告知」を告げられ、神を讃美する場面から始まっています。46節、47節、註解書によれば、この部分はサムエル記上の「ハンナの歌」に酷似しています。この箇所多くの牧師説教に登場してきた箇所ではないでしょう。「ルカ福音書」のこの箇所の賛歌はユダヤ人キリスト者によって採用されたとされています。そのユダヤ人キリスト者は清貧精神を持っていたとされています。(旧約聖書「サムエル記上」2:1-10の箇所は神から与えられた子宝に対して感謝の喜びを表しています。)48節の「神の恵み」を頂く、「自らを主のはしため」として、前段38節のマリアの天使への言葉、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」マリアは若く貧しい女性でしたが神に選ばれて処女降臨という壮大な神の御計画、そして身分が低くても神は必ず恵みを頂けるのだ、ということを連想します。51-53節、この箇所は神による「人の運命逆転」を表すイエス様の説教にはたくさん出てきます。ひとはどんな境遇の人であろうと神との関わりが出来た時その人がどれほど小さくても神から力を与えられ強くされます。マリアは神からの憐れみを受け容れるその覚悟と全く神を信じるその「信仰」によって神からの力がおおきく働くとこの箇所は教えています。イエス様の誕生そのものが馬小屋で生まれる、劣悪な環境と言ってもよい最も低くされた場所、イエス様は様々な奇跡を起こし十字架に架かる、まさに「清貧イエス様の運命」をそのまま表しています。この箇所の中心は人間には神の力によって「逆転する」ことが起こる、そこに「恵みがある」と言うことです。「弱さ」は「強さ」との二律背反、です。ひとは、「力」や「財産」や「地位」を求めれば私利私欲に溺れて最後は何も見えなくなるのではないか、だから「神とともに生きることを求めて行かねばならない」ことを聖書は教えてくれていると思います。註解書では「旧約聖書サムエル記上」と同じく「サムエル記下」でも『「神によるひとの運命的な逆転』」を記しています。それは社会の中で低い場所に置かれた人びとは神の力によって大きくされ、世界の中心に置かれると聖書では言っています。そこに実はキリストがおられるのだ、といっています。


しかし、私たちには必ず注意が必要です。貧しい者からと富める者への逆転は神がなさること、人間の力でその逆転を期待し実現することは、あくまで人間の欲であり、危険な状況を作り出す場合があるということです。神の力によって逆転が起こりひっくり返るときがくる、すると相手に対して一種の「復讐」に似た思いが「罪」(原罪)としてでてきます。


本当の「逆転」は起こってしまっては遅いのです。「神が裁きを起こす」そのことに身を委ねるしかよく見極め真摯に対応するしかないのです。Co2削減に反対する新興国からの地球温暖化問題、ロシアのウクライナに対する「特別軍事作戦」、もう4年を優に越えました。パレスチナ「ガザ地区」へのイスラエルの攻撃、今まで「弱い」とされてきた立場の人間が立ち回ると必ず「いびつ」に逆転してはいないでしょうか。 逆転が更なる不幸な状態を作り出してはいないでしょうか。この「逆転」は神さましか出来ないということを本当に真摯に受け止めていくことがこれからに向けて最も必要なことではないかと思います。


2026年4月5日日曜日

2026年 4月12日(日) 礼拝 ライブ配信

 復活節第2主日礼拝  

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教= 「エマオ」    
吉村厚信 伝道師
 
吉村厚信伝道師

聖書= ルカによる福音書24章13~35
(新共同訳 新約160~161) 

讃美=21-326, 21-484, 21-27.      
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
 
当日の礼拝風景
動画は1種類です。
教会のYouTubeチャンネルは、こちらのURLです。
https://www.youtube.com/@senboku.newtown.church
※原則、ライブ中継のみとなります。当日用の新しいURLは、こちらのホームページの説教のページに、その都度掲載してまいります。よろしくお願いいたします。


礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
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【説教要旨】
 改めてイースターおめでとうございます。今日の聖書箇所、「エマオ」は地名でエルサレムから60スタディオン、約12km離れた村になります。そして地図上で「エマオ」から東南東に進むと今のイスラエルが攻撃している「ガザ地区」、そのような地理を想像してみましょう。この箇所はある意味で復活の「イエス様」を認めなければイエス様の受難と復活の意味は分からないことが大きなテーマです。私たちは日常イエス様の行いや教えを理解しているでしょうか。キリスト教の最も大切なイエス様を信仰し自分を愛するように隣人を愛することですが、私たちの行動は伴っているのでしょうか。「ガザ地区」の惨状はテレビやインターネットの報道で情報を得ることが出来ます。アラブ人とユダヤ人が共生する地域だったガザが、イスラエル建国のあとアラブ人の生命危機まで追い詰められて歴史が全く変わろうとしています。イエス様が十字架の刑に処せられた、そしてイエス様の墓は空だったその一部始終、復活したイエス様がともに居るこの二人の弟子たちの心の目が遮られた、イエス様の本当の意味を分りませんでした。弟子のひとりクレオパがその出来事を話していき「行いにも言葉にも力のある預言者だった」とイエス様に告げます。「言葉と行い」ではない「行いと言葉」の順に「祈りと共に行動することが大事」ではないでしょうか。この弟子たちはイエス様の旅が受難死を方向付けされていたことが分らずイエス様御自身が説明していきます。そしてイエス様はエマオから先を目指そうとされます。イエス様にとってエマオは目的地ではなく通過点だというのです。そして食事の時にパンを裂きます。「復活」は「パンを裂く行為」に準じて復活者と聖餐式の関係を聖書は明記しています。ときに弟子たちはその旅人が「イエス様」と認識した瞬間イエス様は消えてしまいます。弟子たちは「イエスがともに居てくださることが分かった」、イエスが生きておられる、即ち「復活」が分かったというのです。このことは二人の弟子たち同様に私たちにも「真理」ではないでしょうか。本日の箇所では二つのことを教えてくれています。ひとつは人間の目にはイエス様はみえない、でもそのことを覚え真摯に毎日を過ごす、神様は必ず傍に寄り添って下さるのではないでしょうか。もうひとつはイエス様にとって「エマオ」は目的の場所ではない、つまり終点ではないということです。肉体は無くなってもその先がある「大きな希望」ではないでしょうか。就労支援活動で介護施設清掃を行っていますがご入居者の中でおひとり気になるご婦人がおられます。ご入居者Tさんは私が就労援御利用者の掃除を見守りしていると私の手を握られ、「あったかいねえ」と仰いそしてどこかへ私を連れ出そうとされます。わたしには何かこの方若い時に一生懸命に「働いて」おられた、だからいま神様からの祝福があって当然ではないか、と思う瞬間がありました。神さまはこの方に寄り添っていてくれる、とこの方ご自身が何か一瞬「感覚的におられることが分かる」のはないでしょうか。

2026年3月29日日曜日

2026年 4月5日(日) 礼拝 ライブ配信

復活節第1主日礼拝   

― イースター礼拝 ―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 

説教= 「見えざる手に導かれ」    
池田清樹 牧師

聖書= 「コリントの信徒への手紙2」第4章16〜18節
(新共同訳 新約329、330頁)
讃美=21-204, 讃美ファイル3,21-451, 21-27.      
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は1種類です。
教会のYouTubeチャンネルは、こちらのURLです。
https://www.youtube.com/@senboku.newtown.church
※原則、ライブ中継のみとなります。当日用の新しいURLは、こちらのホームページの説教のページに、その都度掲載してまいります。よろしくお願いいたします。


礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
御教会の講壇の御奉仕ですが、恐れ入りますが私の42年間の牧師としての働きを振り返っての証しの形でお話しします。

私はかつて29才から41才までの12年間、この泉北ニュータウン教会で伝道師・ 副牧師として仕えていました。

1967年 22 才の時に阪和線の和泉府中のアパートに住み始め、初めて「阪和泉ヶ丘伝道所」(今は不在です)に出席していました。

私はその教会で、土山牧師と出会いました。

その教会は 15 名程の小さな集会であったこともあり、ほっとする暖かい雰囲気を感じました。

教会において何より大切なことは集うものが安らぎを覚えて、ほっとする雰囲気をいかに創るかということだと思います。

その頃の私は青年期の憂愁期を過ごしていたので、毎週礼拝説教の中に出てくるみ言葉の説き明かしを聞き続ける中で少しづつ心の中に救いの光明が点り始めました。

教会の持つ力はみ言葉です。その意味で教会は説教を語る者も聞く者も大切にする。そうして私は1967年12月23日のクリスマス礼拝で土山牧師から洗礼を受け教会の一員となりました。

その当時土山牧師はしきりに泉北ニュータウンの中で伝道していく夢を語っておられ、私も土山牧師の鞄持ちになって伝道の仕事をしようと牧師への道を開始しました。

同じ頃、妻の両親が建てた桃山台の住宅を会場にして泉北栂教会の伝道を開始することとなりました。

教会のことも信仰のこともよく知らない者だったので、とにもかくにもがむしゃらに学んだ当時でした。その経過の中で私は土山牧師との働きのスタンスにズレを感じるようになり、結局泉北栂教会の独立へと踏み切っていきました。

しかし、にもかかわらず、ぜひ覚えておいて欲しいことは泉北栂教会は泉北ニュータウン教会によって産み出された親子教会であるということです。

神は私たちの目には見えない。しかし、私たちの人生の歩みは、目には見えないものの、神の大いなる愛の御心の中で、不思議な御手に導かれて歩んでいくのだと思います。

2026年3月22日日曜日

2026年 3月29日(日) 礼拝 ライブ配信

 ―受難節第6主日礼拝―

――棕櫚の主日礼拝――


時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「舌禍」
吉村厚信補教師

聖書=『ヤコブの手紙』1 章19~27 節
(新約422頁)

讃美=讃美ファイル5,21-55,21-306,271B,21-29.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は、3月29日からは1種類となります。
教会のYouTubeチャンネルも変更になり、
こちらのURLとなります。
※原則、ライブ中継のみとなります。当日用の新しいURLは、こちらのホームページの説教のページに、その都度掲載してまいります。よろしくお願いいたします。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

当日のライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】                           
わたしは、スピリチュアルケアに関心があり、31415日医師看護師中心の「日本グリーフケア&ビリーブメント学会」学会学術大会に参加し様々な発表を視聴しました。東北大学総合文系研究科棟の中規模教室で行われ、主幹は「臨床宗教師」を立ち上げた東北大学大学院文学研究科実践宗教学分野です。グリーフケアは「悲嘆のケア」、「ビリーブメント」は亡くなられた方の「ご遺族の心のケア」に医療機関が寄り添うかを発表するのですが、宗教的立場からは既に行っていることばかりの印象を受けましたし「悲嘆」を学術的に提示しようとしていましたがよく分かりません。医療従事者は「命」を救うことが第一の使命だからで命が失われるということは彼らの敗北なのでその先の学際的な研究、そんな感じにわたしには写りました。学会の中で東日本大震災の被害が15年を経て続いている震災後の御遺族の悲嘆を如何に受け止めるのか、科学的に解明されないことへの宗教の期待と役割を再認識したときでした。「心の平安」を取り戻すには「祈ること」の重要性を再度科学者の方々に認知してもらうことしかないと感じました。

本日の聖書箇所、「ヤコブの手紙」の「ヤコブ」とはヘブライ語で「出し抜くひと」「かかとをつかむ者」、を意味します。旧約聖書創世記に登場するヤコブはアブラハムの子イサクの次男として出て来ます。聖書ではヤコブの名前はたくさん出てきます。最も可能性のあるのが主イエスの死後に書かれたとして兄弟とされているヤコブとされています。その内容は「行動が大事」と強調しています。この「ヤコブの手紙」には二つのことが神学的に主張されています。ひとつ目は「信仰」についてです。行いを軽視した「義」の誤った教えを持った人々への戒めだと思います。ふたつ目は「貧しさ」と「富」についてです。神さまはこの世で低い地位でも高い地位を与え、富める者には謙遜が無い限りその者を低くされる、この逆説は「ルカによる福音書」にも出てきます。25節で「自由をもたらす完全な律法」は「束縛」を強いるものではなくキリストの十字架ゆえの自由が神によって定めた律法、すなわち「福音」を置き換えています。その律法が守られ実行される限りそのひとは幸せになれる、とされます。26節舌を制御できないことは「ヤコブの手紙」第3章にも詳しく述べられています。ひとは言葉を制御することは極めて難しい、言葉は神から与えられたものですが、同時にその言葉によって自らを正当化したりその場を取り繕ったりしてしまうようなことはないでしょうか。15日日テレ「バンキシャ」で東日本大震災直後悲嘆にくれた宮城県南三陸町住民の大事な身内を失ってしまった悲しみに暮れた方々の心に力を与えたのがお互いを支え合う「行動」でした。祈りに合わせて「行動」することが大きな力になることを教えています。

「ヤコブの手紙」の著者が想定している相手は、先ず「イエスの教えについて語る弟子」たちのこと、わたしも「教師」ですのでこのことを真摯に受け止めます。教師たちは「自家撞着(=自己矛盾)に陥らない」努力を続けねばなりません。使徒ペテロはイエスのいちばんの弟子だと誇っていざイエスが捕まってみるとマタイによる福音書27:69-75「そんなひとは知らない」を繰り返し述べイエスの預言通り大きな後悔を残します。信仰の本当の意味は、弱い悲しいことこそ仲間がいる安心や満足を持つそれが大きな「恵み」になる、イエスの苦しみを味わったその次に来る大いなる喜びがレントのイエスの十字架は希望の初穂ではないでしょうか。

「ブレストワークス」という名前の就労支援作業所で働いています。「祝福される(blessed)働き」の意味の他に「神の聖霊(Gods breath)の働き」と言う意味にも取れる作業所です。 知的身体的精神的重荷、彼らを支えようとする重荷、看取りをしようとする重荷、神さまが本当の牧会を問われています。 来たる主イエスの再臨に向けて信仰を見つめ直すような時間を共にさせて頂いたことを教会の皆さんに感謝します。 

2026年3月20日金曜日

2026年 3月22日(日) 説教

―受難節第5主日礼拝―

――牧師訣別礼拝――


時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「人の子イエスのグレート・リセット」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章35~45 節
(新約82 頁)

讃美=267,495.21-29

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

※3月29日より、教会のYouTubeチャンネルが変更となり、原則、ライブ中継のみとなります。新しいアドレスは、こちらのホームページの説教のページに、その都度掲載してまいります。よろしくお願いいたします。

【説教要旨】
太陽とその惑星が創造されてからおよそ46億年。そのうち41億年を経てようやくこの地球に生命が芽生えます。最初は生物と無生物の間のようなものからバクテリアのような微生物、植物プランクトンや微生物。それらがくっついたり離れたりして多細胞生物がまずは植物として、その植物によって酸素が生成され動物が生じ、ミジンコや貝類のような生物、軟体動物から無脊椎動物、軟骨質の脊椎動物の魚類、やがて堅い骨をもつ魚類から両生類、爬虫類から鳥類と哺乳類へと様子が変ります。僅か5億年の間に生命が生じたとされ、今日までにいたります。『聖書』に記されているところの「時」とは、このような時間をもつつみこみますが、この僅か5億年の間に五回もの生命の大絶滅期があったとされます。これを「生命史のビッグファイブ」と呼ぶ人もおれば、「生命史のグレートリセット」と呼ぶ人もいます。時には全生物の9割以上の絶滅にまでいたりますが、その都度絶滅した生命の隙間を埋めるような仕方で進展してまいりました。それは進化というよりも適宜その環境に適応できた「いきもの」のあゆみだとも申せます。
 今以て解明できない謎は尽きませんが、わたしたち人類もまた奇妙な仕方でその規模を広げました。他の哺乳類に較べますと極めて未熟な仕方で生まれ、育つ上で自然そのままの状況では生存は不可能。自ら社会を作りあげ、その共同体を生育の場とします。しかもこの社会は絶えず危機に晒されているところから、その枠組みを絶えず新たにしなくてはいけません。ともすれば内側からは絶対的なものだと思われがちな社会も物差しもまた、予想もしない不調和や生存環境の激変によって立ちもすれば倒れもいたします。生命史そのものが五度の大絶滅期に晒されてきたのですから、人類が住まいとする社会とはそのような生命の歴史に較べたとてはるかに脆いと言えます。わたしたちは極めて短い時間の範囲で喜怒哀楽をともにし、世にいのちを授かり、そして天に召されてまいりますが、見えるものにしか拠り所を見いだせない場合、人と較べて自らを測って安らおうとします。時にそれは避けられない組織の要請でもありますが、それがすべてかといえば違うと言わねばなりません。いのちの尊さとは社会に問われはしても決して定義されないからです。
 福音書の描く社会に君臨していたローマ帝国。その秩序は徹底した序列の上に成立っていました。市民の自由は奴隷制度の上にあり、ローマの繁栄は属州の人々の暮らしから絞り出した豊かさの上にありました。極度の貧しさを始めとした生存の危機に晒されますと、さしあたりは上に立つ者に依存して暮らすほか道を見いだせなくなるようです。社会の仕組みや支配が強固に映るかぎり人々は諦めや運命論を唱え始めるか、またはその支配の仕組みに似た別組織を作ってはそのなかで優劣を競い合うようになります。人の子イエスの弟子もその例に洩れませんでした。本日の箇所では弟子の頭の中では、訪れるであろう神の国にはローマ皇帝に代わってメシアであるイエスが君臨し、その序列を巡るところの争いがすでにあった様子がほのめかされています。弟子には世にいのちをもたらす神の愛が矮小化され、単なる権力闘争の問題にすり替えられています。この時点で弟子は天地創造の愛なる神とはかけ離れた誘惑のるつぼにあると言えましょう。人の子イエスが「退けサタン」と叱咤したところで弟子のあり方は簡単には変りません。
 その代わり本日の箇所でイエス・キリストが語るところのメッセージとは何でしょうか。それは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」との問いです。それは隣人を踏み台にするのではなく踏み台にされる生き方であり、何事かを雄弁に語るのではなく罵声にあっても弁明せず沈黙する態度であり、生存環境への過剰な適応でもある力への憧れではなく、むしろその適応から外れていく弱さの尊さ、聖なる弱さでした。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者はすべての人のしもべとなりなさい」。この箇所で用いる「しもべ」とは文字通り「奴隷」を示すギリシア語が用いられています。人を蹴落とすのではなく踏みつけられていくありよう。社会の中で誰からも評価されるのとは異なるありよう。自然界で支配者として君臨するいきものとは異なるありようを、イエス・キリストは伝えるだけに留まらず、自ら実践し、苦しみ涙を流し、病を経て十字架へと赴くのです。しかしその死によって贖われ、新たにされるいのちが復活のキリストには示されています。「人の子イエスのグレートリセット」とも呼ぶべき唯一無二の大事件がこうしてあらわにされます。
 本日をもって稲山は主任担任牧師としてのメッセージを終えます。他方で教会の新しい動きはそこかしこに看て取れます。教会の置かれた社会のあり方や国々のあり方は大きな変動期にあります。ただこの中にあってこそ、みなさまが、その賜物に応じてありのままで「地の塩・世の光」としてさらに豊かに用いられる時がまさに到来しています。

2026年3月13日金曜日

2026年 3月15日(日) 説教

―受難節第4主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「キリストを通して注がれる神の愛」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』9 章2~8 節
(新約77頁)

讃美=
Ⅱ 80,21-462(292).21-29.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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【説教要旨】
みなさまの尊いお祈りのお陰で「こひつじこども園」は昨日無事卒園式を迎え、29名の園児さんがご家庭の事情に併せて少しずつこども園を離れ新しい生活へと向かいます。その一方でわたしたちは15年前の東日本大震災で今も行方が分からない、年齢が停まったままのこどもたちを想い起こします。さらには、遠くイランの地では2月末に女子小学校が米国の巡航ミサイル攻撃を受け、100~170人の児童や教職員が深い痛みとともに心ならずも天に召されなくてはならなくなりました。どのこどもたちも日本のアニメーションが好きだったり、緑豊かな校庭で遊んだりしていたことでしょうし、それぞれの未来に眼を輝かせ、譬え貧しい暮らしであったとしても家族の希望として愛され育っていたはずです。心が深く痛みます。子を失った親の時間は、逆縁の苦しみのなかで止まってしまいます。
おそらく人の子イエスの母マリアもまた、わが子の生涯をながめながら、その苦難を知りながら、最初は何度も「やめなさい」と呟いたかもしれません。そして囚われの身となり、自らに先立って十字架で絶命するという断腸の痛みを覚えたことでしょう。みどり児イエスの出産とは異なるその痛みは想像に堪えないところがあります。
『マルコによる福音書』の書き手集団は、そのような人の子イエスの生涯を振り返りながら物語として再構成します。そのなかで思い出さずにはおれなかったのが、『律法の書』に描かれるモーセの姿、『預言者の書』に記され、イエスの時代には英雄として語り継がれた預言者エリヤの姿でした。本日の箇所では山の上で真っ白な衣を身にまとった人の子イエスと語らう神に属する人々として描かれてはいるものの、モーセは波乱に満ちた生涯のなかでようやく落ち着きを取り戻した家族を離れ、奴隷となったイスラエルの民を解放し四十年間導きながらも民自らの過ちのゆえに約束の地へと自らは踏み入れられませんでした。エリヤもまた神の道から大きく外れたイスラエルの民、王と妃を非難しながらも追っ手に追われ、生涯の終わりを乞い願うまで追い詰められます。しかしモーセもエリヤも、人の世からすれば決して満ち足りた生涯とは言えないながらも、その生涯は語の全き意味で、神の圧倒的な愛により肯定されたのでした。人々はその肯定に逆らうことはできず、ただただアーメンと呟くほかに道はありませんでした。
 人の子イエスは、そのようなモーセやエリヤを凌ぐ救い主・キリストとしての生涯を全うするにいたります。「軛」という言葉があります。『新約聖書』でよく登場する言葉です。この軛とは家畜がそのあゆみを違わないように、細い山道から道を外さないように首につけられる枷です。イエス・キリストはわたしたちが神に備えられた道から外れないようにわたしたちと枷をともにしてくださいます。それがあの十字架の横木であり、時にそれはキレネ人シモンのように突然ともに担わされるものであるかもしれません。しかしその枷により、わたしたちは自分勝手な思いに惑わされず、それこそ試みる者にも惑わされず、神に示された各々の道を違うことなく歩むことができるのです。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白く輝く服」とは、十字架を経た後の弔いの折に甦られたイエス・キリストの姿を先取りしています。だから弟子にはその出来事を受けとめきれず、他方で「これはわたしの愛する子。これに聞け」との神自らの声が山間(山あい)に響きわたります。イエス・キリストの生涯は、単なる神の絶対的な肯定を超えて、今なおわたしたちに、そして涙も涸れ果て、時も停まった人々にこそあふれる神の愛そのものとして、地を震わせてやみません。
 そのように考えますと、何も悪いことをせず、ただただ悪魔のような大人の欲望により殺害されていったこどもたちのいのち、そして何も悪いことをせず、愛くるしい姿のままで時をとめてしまったこどもたちの姿は、いったいどこにあるというのでしょうか。それは紛うかたなく、神の愛につつまれて、イエス・キリストとともにおられます。人の子イエスは世にある時、涙を流され、微笑みを浮かべられ、弟子の振舞いに憤られました。そして世の憎しみや殺意に晒されもしました。だからこそわたしたちは、喜びの時にも、悲しみの時にも、心の病に深く苛まれた時にも、どこかでイエス・キリストと深く結ばれており、時には枷とも言わねばならないその繋がりのなかで、イエス・キリストを窓としてこの何とも情けない世の中を見渡しています。けれどもそのなかでできることとは、何よりも涙を流されている方々を抱きしめるわざではないでしょうか。どれほど恐怖に泣き叫ぶこどもさんであれ、人格を否定され虐待されるこどもさんであれ、抱きしめて「愛する」ところから、こどもたちの新しいあゆみは始まります。天に召されたこどもたちもイエス・キリストが抱きしめておられます。召されたこどもたちに、わたしたちのともなる召された兄弟姉妹に励まされて、受難節の新しい週を始めます。わたしたちも人の子イエスに抱かれているのです。

2026年3月5日木曜日

2026年 3月8日(日) 説教

―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「人々の誤解のなかに立ち続けて」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』8 章27~33節
(新約77頁)

讃美= 
21-300(262).21-443(124).21-29.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 前回の受難節第2主日礼拝では身内でさえ人の子イエスを「あの男は気が変になっている」との噂に流されて取り押さえに来たという、匿名の風説に翻弄される親族の姿をものともせず、神なき権力争いの無意味さを説いたイエス・キリストの姿をともにいたしました。人々は無責任な言葉を人の子イエスに浴びせましたが、イエスは取り乱さずに黙々と癒しのわざを行い、神の国の訪れの近さを語って止みませんでした。それでは弟子はどのように人の子イエスを受けとめたのかが、本日の箇所には記されております。歴史的には人の子イエスはユダヤ人であり、なおかつ弟子もまたその流れにあります。そうなれば人の子イエスとその弟子もまたその道筋に立っていたと、『マルコによる福音書』は記します。本日の箇所ではフィリポ・カイザリア地方という、ローマやギリシアはじめ諸国の民がユダヤの民よりも多いとされた地方で起きた一コマです。人の子イエスは弟子に次のように問うたと申します。「人々は、わたしのことを何者だと思っているか」。弟子が宣うには「『洗礼者ヨハネだ』『エリヤだ』『預言者のひとりだ』という者もいます」。弟子は諸国の民を意識してか、『旧約聖書』に立つユダヤの民の声をおもにして伝えてまいりますが、筆頭弟子のペトロの答えはいささか響きが異なっていました。「それでは、あなたがたは何者だと言うのか」。この問いかけにペトロは答えます。「あなたは、メシアです」。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた、とあります。

 本日取りあげたいポイントとは、この「あなたは、メシアです」とのペトロの告白です。この箇所をして様々な解釈がありました。弟子はイエスの本質を見抜いていた、または弟子の秘密としてイエスの実の姿を知っていたという具合に、です。しかしもしも筆頭弟子ペトロの告白や弟子の理解が人の子イエスの本意と大幅にずれるならば、弟子もまたイエスがキリストであるとの告白に誤解や間違いを犯していたこととなります。それでは実際のところはどうだったのでしょうか。その後もまた読み解いてまいりましょう。

 「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥を受けて殺され、三日の後に復活することになっていると話し始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れしていさめ始めた」とあります。つまり、人の子イエスに備えられた救い主としての道は世の一切の矛盾と暴力を担い、殺害されていくというものです。反対に現在のユダヤ教でも同じですが、神から遣わされたメシアとは、一般には苦しみを受けて排除されて殺害されて復活するなどということはあり得ません。まさしく超人的な存在として人々と神の橋渡しをする者だという、スーパーセイバーの名に相応しい存在です。そのようなわけですので、ペトロは人の子イエスの語るキリストの道を受け入れられません。だからこそ、イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と返事をします。「誘惑する者よ、引き下がれ、あなたは人間のことを思うばかりだ」との意訳もできましょう。

 受難節第2主日、そして今週の受難節第3主日で扱った福音書の物語をたどれば、イエス・キリストは誹謗中傷する者からは当然誤解を受けているとして、片や「イエスはメシアだ」とする弟子からも甚だ誤解を受けていたとなります。いわば誤解の板挟み。わたしたちがこのような場に身を置いたとして、一週間堪えられる人が果たしているでしょうか。「違う、そうじゃない」と必死に叫んだ挙句、心の病にいたったところで無理からぬ事だと誰もが思うことでしょう。人の子イエスが癒しのわざを行なっている場でも、神の国の訪れの近さを語り、敵を愛せと教えていたとしても、この誤解は拭えません。十字架への道筋にいたるまでこのままの状態が続きます。この箇所にも人の子イエス、いや、イエス・キリストの苦難の道行きのひとかけらを見いだせます。人の子イエスはどこまでも孤独なのです。

 アフガニスタンとパキスタン、アメリカとイスラエル、イランそしてアラブ諸国、ウクライナとロシア、ベネズエラとメキシコ。21世紀も四半世紀を過ぎ、通信の発達が謳われる時代にあって、これほどまでの国々が戦争という暴力と誤解の最果てにまで行着くのでしょうか。情報のなかで、わたしたちは却って相手を誤解し、顔と顔を合わせる交わりから逃れようとし、コミュニケーション自体を諦めようとします。しかしわたしたちは人の一面的な姿に戸惑っている場合ではありません。そのネットワークから洩れた村落、こどもやお年寄りや、障碍があり、また心を病んだ人々がいる限り、教会は時を惜しまず、顔と顔とで向きあい、お互いが神の姿に形作られた人であることを再確認いたします。イエス・キリストが多くの誤解を背負ってくださったからこそ、交わりの歪みから解放されるのです。 

2026年2月26日木曜日

2026年 3月1日(日) 説教

 ―受難節第2主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「争いの土俵に乗らない知恵」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』3 章20~27 節
(新約66 頁)

讃美= 
21-306(Ⅱ177).21-471(Ⅱ164).

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 『新約聖書』に納められた文書を時系列に則って並べますと最初に出てまいりますのが、使徒パウロが記した手紙。世代としてパウロはペトロやヤコブ、ヨハネといった人の子イエスの弟子とほぼ同じ。弟子から人の子イエスの生涯を聞いていた可能性もあります。そのような理由もあってか、パウロの手紙には人の子イエスの生々しい生き方は描かれません。むしろ律法学者でもあったパウロが、伝道の旅を続けながら、その学識を動員して『旧約聖書』に記された神の愛のわざが、イエス・キリストに示された道筋を水も漏らさず書き記しています。その緻密さのゆえに時に手紙の内容は難解にもなりますが、パウロ自らは人の子イエスの生涯の何たるかを知っていたと考えます。しかしキリストから離れ、パウロの教えを奉じるばかりになった人々は、今度は人の子イエスの生涯を軽んじるという道に迷い込みます。その葛藤の中であらためて「福音書」という物語のジャンルが開拓されてまいります。

 それではその「福音書」の中でも最初期に成立したとされる『マルコによる福音書』に描かれる人の子イエスの生涯はどのような道を辿っていくのでしょうか。その道とは直接十字架の場面を開かなくても読む者・聞く者の胸を締め付けられずにはおれない道でもあり、もしそれが人の子イエスの生涯をそのまま映し出したものであるならば、身の置き所がなくなるような気さえになる場面も描かれます。

 その一つが本日の箇所です。本日の箇所にいたるまで人の子イエスは実に多くの癒しのわざを行なっています。そして癒しのわざだけでなく多くの弟子も伴っています。少なくとも本日の箇所の直前では12弟子が揃っております。しかしその後、人の子イエスはどのような局面を迎えるというのでしょうか。もはや以前とは全く異なる環境に置かれます。そこには癒しを求める群衆とともに様々な風説が生まれてまいります。「この人はメシアだ」という噂も立てば「この人は異常だ」という中傷も生まれたことでしょう。問題は人の子イエスの最も親しかったはずの人々、そして人の子イエスがそのような言葉をどのように受けとめたのかというところです。

 残念ではありますが、身内の者はイエスへの称賛の言葉を信頼するのではなく「あの男は気が変になっている」という噂に引きずられてしまいます。根拠のない言葉礫(つぶて)を受けるのが嫌だったのでしょうか、匿名の中傷に堪えきれず人の子イエスを取り押さえに来ます。SNSで中傷を受けた人の家族が現代では訴訟を起こす事案が頻繁に起きていますが、言うなればその地平さえ立ってはいません。今よりもムラ社会の同調圧力が強かったのか、イエス・キリストのわざが何を示しているのかを考えるというよりも、そのわざで自らが被るところの生きづらさを避けるためにも口封じにきたというわけです。この箇所にイエス・キリストの苦難の一端を見るというものです。

 他方で「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と中傷する者も出てまいります。ベルゼブルとは巨大な蠅の姿に象徴される悪霊ですので、後に続く「悪霊の頭」がその説明となります。ただしこの箇所でイエス・キリストはこの者たちと論争した、または議論したという形跡は見られません。それは「彼らを呼び寄せて」という一節が加えられているのが理由です。わたしたちに分かりやすい言葉で意訳すれば「神の愛とはかけ離れた邪悪な力で、より弱い邪悪な力を打ち負かしている」となりましょうか。要するに悪霊の権力争いのような具合で人々の病の源を追い出しているとの理窟になるかもしれません。

 しかしイエス・キリストはこの箇所ではそのような理窟は意味をなさないと仰せになります。悪霊と同じ土台に立ってしまったら、結局はより大きな悪霊に撃ち倒されるだけの話であって、結局はその果てしない繰り返しを続けるに過ぎないということです。幼少期に親に時折暴力を受けて育ったからと言って、年老いた父親が言うことを聞かなくなった場合、今度はその父親を殴ってよいかと言えば、それはその老人が誰かに危害を加えるかどうかによるかもしれませんが、やはり暴力はいけません。その暴力が慢性化するならば距離を遠ざけるためにも施設に入所していただくという選択肢もあります。悪霊を追い出すつもりのはずが自分もまた悪霊に取りつかれてしまい、家族が離散するというケースは今の時代のことですから事例に事欠かないといえるでしょう。27節以降はその時代に頻繁にあった戦争に伴う略奪行為を譬えにはしていますが、現代ではこのような家庭内暴力の譬えがしっくりくることでしょう。

 つまりイエス・キリストはこのような悪霊の権力闘争、現代で言えば暴力の連鎖の土俵には決して乗らずに神の愛をもって人々を癒していきました。心ない言葉にも耳を貸しませんでした。これぞ神の智恵です。自らを振り返れば、牧師であれば誰もが受ける言葉を気にし過ぎた、誤った完全主義に陥っていたのかと御言葉に胸を突かれました。