2026年2月26日木曜日

2026年 3月1日(日) 説教

 ―受難節第1主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「争いの土俵に乗らない知恵」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』3 章20~27 節
(新約66 頁)

讃美= 
21-306(Ⅱ177).21-471(Ⅱ164).

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 『新約聖書』に納められた文書を時系列に則って並べますと最初に出てまいりますのが、使徒パウロが記した手紙。世代としてパウロはペトロやヤコブ、ヨハネといった人の子イエスの弟子とほぼ同じ。弟子から人の子イエスの生涯を聞いていた可能性もあります。そのような理由もあってか、パウロの手紙には人の子イエスの生々しい生き方は描かれません。むしろ律法学者でもあったパウロが、伝道の旅を続けながら、その学識を動員して『旧約聖書』に記された神の愛のわざが、イエス・キリストに示された道筋を水も漏らさず書き記しています。その緻密さのゆえに時に手紙の内容は難解にもなりますが、パウロ自らは人の子イエスの生涯の何たるかを知っていたと考えます。しかしキリストから離れ、パウロの教えを奉じるばかりになった人々は、今度は人の子イエスの生涯を軽んじるという道に迷い込みます。その葛藤の中であらためて「福音書」という物語のジャンルが開拓されてまいります。

 それではその「福音書」の中でも最初期に成立したとされる『マルコによる福音書』に描かれる人の子イエスの生涯はどのような道を辿っていくのでしょうか。その道とは直接十字架の場面を開かなくても読む者・聞く者の胸を締め付けられずにはおれない道でもあり、もしそれが人の子イエスの生涯をそのまま映し出したものであるならば、身の置き所がなくなるような気さえになる場面も描かれます。

 その一つが本日の箇所です。本日の箇所にいたるまで人の子イエスは実に多くの癒しのわざを行なっています。そして癒しのわざだけでなく多くの弟子も伴っています。少なくとも本日の箇所の直前では12弟子が揃っております。しかしその後、人の子イエスはどのような局面を迎えるというのでしょうか。もはや以前とは全く異なる環境に置かれます。そこには癒しを求める群衆とともに様々な風説が生まれてまいります。「この人はメシアだ」という噂も立てば「この人は異常だ」という中傷も生まれたことでしょう。問題は人の子イエスの最も親しかったはずの人々、そして人の子イエスがそのような言葉をどのように受けとめたのかというところです。

 残念ではありますが、身内の者はイエスへの称賛の言葉を信頼するのではなく「あの男は気が変になっている」という噂に引きずられてしまいます。根拠のない言葉礫(つぶて)を受けるのが嫌だったのでしょうか、匿名の中傷に堪えきれず人の子イエスを取り押さえに来ます。SNSで中傷を受けた人の家族が現代では訴訟を起こす事案が頻繁に起きていますが、言うなればその地平さえ立ってはいません。今よりもムラ社会の同調圧力が強かったのか、イエス・キリストのわざが何を示しているのかを考えるというよりも、そのわざで自らが被るところの生きづらさを避けるためにも口封じにきたというわけです。この箇所にイエス・キリストの苦難の一端を見るというものです。

 他方で「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と中傷する者も出てまいります。ベルゼブルとは巨大な蠅の姿に象徴される悪霊ですので、後に続く「悪霊の頭」がその説明となります。ただしこの箇所でイエス・キリストはこの者たちと論争した、または議論したという形跡は見られません。それは「彼らを呼び寄せて」という一節が加えられているのが理由です。わたしたちに分かりやすい言葉で意訳すれば「神の愛とはかけ離れた邪悪な力で、より弱い邪悪な力を打ち負かしている」となりましょうか。要するに悪霊の権力争いのような具合で人々の病の源を追い出しているとの理窟になるかもしれません。

 しかしイエス・キリストはこの箇所ではそのような理窟は意味をなさないと仰せになります。悪霊と同じ土台に立ってしまったら、結局はより大きな悪霊に撃ち倒されるだけの話であって、結局はその果てしない繰り返しを続けるに過ぎないということです。幼少期に親に時折暴力を受けて育ったからと言って、年老いた父親が言うことを聞かなくなった場合、今度はその父親を殴ってよいかと言えば、それはその老人が誰かに危害を加えるかどうかによるかもしれませんが、やはり暴力はいけません。その暴力が慢性化するならば距離を遠ざけるためにも施設に入所していただくという選択肢もあります。悪霊を追い出すつもりのはずが自分もまた悪霊に取りつかれてしまい、家族が離散するというケースは今の時代のことですから事例に事欠かないといえるでしょう。27節以降はその時代に頻繁にあった戦争に伴う略奪行為を譬えにはしていますが、現代ではこのような家庭内暴力の譬えがしっくりくることでしょう。

 つまりイエス・キリストはこのような悪霊の権力闘争、現代で言えば暴力の連鎖の土俵には決して乗らずに神の愛をもって人々を癒していきました。心ない言葉にも耳を貸しませんでした。これぞ神の智恵です。自らを振り返れば、牧師であれば誰もが受ける言葉を気にし過ぎた、誤った完全主義に陥っていたのかと御言葉に胸を突かれました。