2026年2月7日土曜日

2026年 2月8日(日) 説教

 ―降誕節第7主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
説教=「あなたの罪は赦された」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』2 章1~12 節
(新共同訳63頁)

讃美=  
21-57.21-540(403).21-26.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 人混みをかき分けて前へ進む。2020年から2021年に起きた新型コロナ禍と混乱を経て、一部ライブハウスや芸能イベント、有名な神社の祭礼やごく限られた時間のラッシュアワーを除けば、そのような振る舞いはわたしたちの身近な場所からは格段に消えていったように思います。事故の防止のためかもしれませんが、わたしなぞはかつてデパートなどで大安売りなどの催しがあったときには、主婦の方々が我先にと品物をリアルに購入されるのを見た最後の世代になるのかもしれません。誰もが家族のためにと懸命になってはいるのですが、その様子を遠くから眺めれば制御の叶わなくなった感情を感じずにはおれませんでした。

 『新約聖書』の世界では本来、人口密度と申しますのは現代とは比較にならないほど小さいものであったはずです。そこに人垣ができて通行の妨げになってしまう様子は、むしろ滅多に起きはしないはずです。しかしそのような、生きる厳しさに満ちていた時代であればこそ、人々はそこに神の優しさがあるならば、わが身さえ顧みずに殺到していったのではないでしょうか。本日の箇所ではユダヤ人と諸国の民の混在していた地域であるカファルナウムでの出来事が記されています。「イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった」。申すまでもなく中風とは、今日で言えば重度の脳障害で身体の機能が奪われてしまった状態を示します。いわば寝たきりの人。ストレッチャーのない時代です。四人の男はおそらく戸板か素朴な担架に乗せて何時間もかけて徒歩で運んで来たのではないかと思われます。しかし群衆に阻まれて、四人の男と中風の人は身動きがとれなくなってしまいます。この時代の群衆、しかも十分な教育すら受けていない、その日の暮らしですら精一杯という人々が立ち並ぶ人垣は、そう簡単には道を空けてはくれません。

 同じように群衆に人の子イエスとの出会いを妨げられた人物には『ルカによる福音書』19章に描かれる徴税人ザアカイがおります。ザアカイは群衆に遮られて人の子イエスと会う、または見ることすら叶わなかったため、無花果桑の木に登ってその願いを果たそうとします。おそらくザアカイも「背が低い」とわざわざ記されているところから、何らかの身体の発達上の課題を抱えていたのかも知れません。しかし深刻度からするならば、本日の「中風の人」が格段に異なります。この人の身体は自分では動かすことができないのです。さらにザアカイの場合は「罪人」と呼ばれても、その時代に蔑まれていたところの「徴税人」という職業に由来するのであったのに比して、この人が「罪人」と呼ばれるならば、その時代の医療や科学では到底解明できない身体の状況を示していたはずです。しかし「そんなはずはない」と四人の支援者は、イエスのもとに汗をかきながら連れてきただけでなく、イエスがおられるあたりの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」とあります。この四人の支援者のわざは、人の子イエスのおられる家の主(あるじ)に赦しを得たのでしょうか。決してそのような問答は記されておりません。どうしても礼拝に出席したいとの思いからこのようなわざに教会員が出たとするならば、わたしたちはそのありさまを許容できるでしょうか。想い出の詰まっている教会の建物に何と言うことをするのかと憤るのではないでしょうか。もしそうであれば、わたしたちは難癖をつけようと待ち構える律法学者と席を同じくすることとなるでしょう。

 イエス・キリストは弱さを抱えた人々への命令を好みません。ですから律法学者への反論も尤もです。むしろイエス・キリストは四人の支援者と誰よりもつり降ろされた病の当事者に「あなたの罪は赦される」と仰せになりました。中風になったその人の具合は、その人自らのいのちの可能性を失わせるのではなく、却ってその人を助ける四人の絆となり、結集軸となっており、それはまことに人間臭さに満ちつつ神の愛を示しているのだという宣言、そしてこの人を支えるためであるならば、屋根をはがすことすら恐れない、堅い絆に結ばれた四人。そして敢えてそのわざを受け入れたこの家の主、この出来事を目撃した人垣の人々すべてに向けられた大いなる祝福のメッセージではなかったかと考えます。

 人に迷惑をかけるといって疎外に疎外を重ねていった結果、安楽死や尊厳死を人生の選択肢に入れる人々がいます。そのような人に、あなたは一人で生きているのではない。人は独りで生きているのではないとの神の叫びがこの箇所でもこだまします。キリストの救いの光が少しでも射し込むならばそこに賭け、委ねてみてはいかがでしょうか。