2024年5月15日水曜日

2024年 5月19日(日) 礼拝 説教

 聖霊降臨節第1主日礼拝

ーペンテコステ礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「世をかけめぐるイエスの愛」
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』10 章 9-16 節
(新約聖書  232  頁).

讃美=  21-475(Ⅰ.352),502,
讃美ファイル3(1.2),21-27(Ⅰ.541).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 聖霊降臨節で朗読される『聖書』の個所と申しますと、イエス・キリストの昇天の出来事が描写された後に、弟子達が五旬祭の日に集まっている中で、突然激しい風が吹き、炎のような舌が分かれて各々の上に留まり、一同は聖霊に満たされ、「霊」が語らされるままに、ほかの国々の言葉で話しだしたというエピソードです。バベルの街の物語の課題がこの箇所で克服されるとの理解もあります。今やイエスの弟子はキリストにただ縋るばかりの姿とは異なり、神の愛の力を授かりイエス・キリストの教えと生きざまを語り、証しするという勇ましい物語が始まるようです。しかし実際の所は多くの課題を各々抱えながら世に福音が広まり、さらにいえば人の目には失敗としか映らない思惑のズレや衝突の中から新たな福音の芽が萌え出でるという出来事でもありました。

 その最たる例のひとつとして考えられるのは「異文化間の食事をめぐる問題」でした。現在のユダヤ教やイスラム教にもあるところの「清くない物、汚れた物」をも含めたいきものが天から大きな布に吊されて幻として示され「屠って食べよ」との声があり、使徒ペトロが戸惑うという場面です。これは『使徒言行録』に記される「言葉の課題の克服」に劣らず重要です。なぜならばこの問題をめぐってわたしたち人間は時に紛争さえも辞さなかったからです。そしてそれは使徒ステファノの殉教の出来事のはるか後の現代でもあちこちで起きています。

 一例としては日本統治下の台湾の出来事があります。日本統治下の台湾には漢族に加えて狩猟民族のタイヤル族という先住民が暮らしていました。この先住民は「社」と呼ばれる多くの部族に分かれていました。日本の統治のもと「近代化」を半ば強要される仕方で進められ、当然のことながらタイヤル族の中にも分裂が生じるにいたりました。そして1930年10月7日、タイヤル族の酋長の息子の結婚式の最中、たまたま通りがかった日本人巡査に祝いの酒が振舞われました。タイヤル族の宴席で用いられる酒は、上代以前の日本で用いられていた、米粒を噛んで唾液ともに容器に入れて発酵させた醪を元にしています。「お前らの唾など飲めるか」と巡査はステッキで花婿を殴打、巡査はその場で袋だたきにされます。予想される報復に向けて27日、霧社公学校の運動会が襲撃を受け、134人が殺害されるという「霧社事件」が起きてしまいます。報復には先住民700人が殺害。もし宴席の酒を勧められた警官が実に危ういバランスに立つ統治を自覚して結婚式を祝福していればと悔やまれます。差し出される食卓を拒絶するとき、その時代の初代教会にもそのような奢りは潜んではいなかったか。実に難しい問題であったことが本日の箇所からも分かるというものです。

 そのようなところからも、あらためてイエス・キリストが病に罹患した人々、罪人と呼ばれる人々、そして徴税人といった職業上賤業と蔑まれる人々とともに食卓をともにし、また五千人の人々を二匹の魚と五つのパンで満たしたそのわざ。食卓を囲んだ人々はその時代の人々からはわたしたちの文化でいうところの穢れの者として排除されており、また五千人の人々は「群衆:オクロス」と呼ばれこそすれ、一人ひとりの名前は記されていませんでした。しかし近代・現代にあってなおもわたしたちが見つめるべきは、イエス・キリストの育んだ神の愛にあふれた交わりの上に、教会の導き手となった使徒たちは連なり、その交わりを広めるべく、時には自らの頑ななあり方を見つめ、打ち砕きながら歩んでいったという態度です。イエス・キリストが天に昇っていった、裏を返せばその人自らとしてはイエス・キリストはわたしたちの暮らす世とは一定の距離を保たれているという理解のもとに描かれる『使徒言行録』からも、使徒ペトロの苦悩に主なる神がその異邦人伝道に助け船を出してくださる様子が描かれます。新しい時代に向けて教会を整えようとするとき、わたしたちの閃きやアイデアが尽きてしまったと思ったときにふと空を見あげれば、雲とともにかけめぐるイエスの愛の力であるところの聖霊の働きに励まされはしないでしょうか。実りを先取りしようとする焦りを、雲を動かす風の力と陽の光、そして降り注ぐ雨垂れの滴に秘められる神の愛の力は洗い流してくださるように思うのです。『使徒言行録』は決して使徒となった弟子の思惑の通りには宣教のわざが進まなかったことを示しています。しかしそれとして備えられた思惑が破られたとき、一人、また一人と様々な生育環境の背景をもつ人々、一つの民の倣いには収まらない交わりが芽生えているのではないでしょうか。イエス・キリストの愛は、今もなおわたしたちの世界をかけめぐっています。その愛の力は憎しみの壁を新たな出会いへと変えてくださります。そして相互に謙遜な思いとともに仕える道を備えてくださります。すべてのいのちを大切にする神の愛のわざが、着実に実現いたします。

2024年5月8日水曜日

2024年 5月12日(日) 父母の日礼拝 説教 ※当日の礼拝中継視聴用リンクを掲載しています。

――父母の日礼拝――

時間:10時30分~




メッセージ=「みんなでしゅわっと讃美しよう!」
伊倉睦美姉(大阪昭和教会)

聖書=『コロサイの信徒への手紙』3 章16~17 節
(新約聖書  371  頁).

讃美=※こどもさんびかは「改訂」を使用.
こどもさんびか58,「このままのすがたで」,
こどもさんびか132,こどもさんびか25.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
(礼拝終了後も、中継動画をご視聴頂けます)

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

なお、当日は特別伝道礼拝につき、
牧師による収録動画・説教要旨はございません。
宜しくお願い致します。

2024年5月1日水曜日

2024年 5月5日(日) 礼拝 説教

          ー復活節第6主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「たとえひとりきりになっても」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 16 章25~33 節
(新約聖書  201  頁).

讃美=  21-224(Ⅰ.73),320,
    21-27(Ⅰ.541).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 「イエスはお答えになった。『今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ』」。「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」との弟子たちの応答に、人の子イエスは「あなたがたは散らされる」「自分の家に帰ってしまう」「わたしをひとりきりにする」との文言が続きます。弟子一人ひとりにはショッキングでしたでしょうし、「あなたがたは散らされる」との言葉には十字架の出来事にいたるまでのキリストの担う苦難に誰も寄り添えないとの含みが加えられています。いずれにせよ聴く者の心に深い余韻を残す言葉となったのは疑いありません。

 先週の礼拝では「迫害とは恐怖を伴う劇的な出来事」との理解を超えて「わたしたちの快適な暮らしを満たし、思うままに振舞おうとする道筋を邪魔する者への排除」との理解に立ちました。それは現代にも充分起こりうるとのお話で一旦幕引きをしたのですが、「快適な暮らしを過ごしたく、思うままに振舞う」といういささか幼い、そして排除という名の暴力を伴うあり方がわたしたちの暮らしを締めつけています。例えばコロナ禍以降に政府関係者からテレワークが推奨されましたが、具体的にはリモートによる会議であったり、ミーティングであったりとのことで、他者との関係性がこれまでになく希薄化した時代をわたしたちは現在迎えています。「閉じこもり」「ひきこもり」はもはや異常ではなく日常の事柄であり、「孤独死」という言葉は英語の語彙にまでなりました。経済的に豊かであろうと、貧困であろうと、この孤独死は起こりえます。その意味で「散らされる」「ひとりきりにされる」とは貧富の格差を越えて生じるものと、心のどこかで諦めの寸前に立つわたしたちがいます。

 しかしながら、イエス・キリストの語る「わたしをひとりきりにする」との文言と、わたしたちが陥るところの「孤独」とは次の面で区別されることとなります。それは、わたしたちがひとりきりになる場合は、そうとは知らず予測もできないところでそのような状況に陥るのに対して、イエス・キリストは十字架と復活にいたる自らの救い主としてのあゆみを見越した上で語っているという点です。だからこそ「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」との言葉に連なることとなります。

 思うにイエス・キリストと弟子との関わりをわたしたちが考えるときに、十字架への苦難のあゆみに弟子たちはついていけず、一人ひとり櫛の歯が欠けるように脱落し、その中には人の子イエスを裏切る者すら現われるとの理解に立った『聖書』の理解を繰り返してきました。そもそも福音書そのものが、そのような負い目を抱えた弟子の口伝を基にしているところからそのような陰が強調されるのかもしれません。しかしもし、イエス・キリストがわが身に迫る苦難と危機をそれとして知っており、人の子イエスとしての辛酸をなめながらも弟子一人ひとりを逃れさせ、さらに自らの宣教を託されたとの理解があれば、従来の福音書の解き明かしとは異なる地平が拓かれます。イエス・キリストはわが身を盾として十字架刑に処せられ、そして三日後に復活されたとするならば『ヨハネによる福音書』の「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」また「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」といった教えに首尾一貫した道がより鮮やかに示されるのではないでしょうか。

 父なる神がイエスとともにいてくださるという言葉を集約すれば「インマヌエル」という、クリスマスの出来事の最中に天の御使いが語ったメシアの称号へと連なっていきます。わたしたちの交わりは、決して自己完結いたしません。それは絶えず広がっていくものでもあります。たとえひとりきりになっても、わたしたちは決して孤独ではありません。新たに迎えたその「ひとりきり」というありようの中で、わたしたちは、端から見ればそれは独り言のように聞こえても祈りを献げることができます。『聖書』を味わうことができます。そしてその先には新しい出会いとライフステージが整えられています。さらに申しあげるならば、デジタルに関わるすべての端末を絶って敢えて「ひとりになる」勇気をもつとき、わたしたちはキリストとの深い交わりに置かれ、身近な人々との交わりの尊さに気づかされるに違いありません。最も身近な交わりに感謝する日々でありたく願います。