2024年5月1日水曜日

2024年 5月5日(日) 礼拝 説教

          ー復活節第6主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「たとえひとりきりになっても」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 16 章25~33 節
(新約聖書  201  頁).

讃美=  21-224(Ⅰ.73),320,
    21-27(Ⅰ.541).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 「イエスはお答えになった。『今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ』」。「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」との弟子たちの応答に、人の子イエスは「あなたがたは散らされる」「自分の家に帰ってしまう」「わたしをひとりきりにする」との文言が続きます。弟子一人ひとりにはショッキングでしたでしょうし、「あなたがたは散らされる」との言葉には十字架の出来事にいたるまでのキリストの担う苦難に誰も寄り添えないとの含みが加えられています。いずれにせよ聴く者の心に深い余韻を残す言葉となったのは疑いありません。

 先週の礼拝では「迫害とは恐怖を伴う劇的な出来事」との理解を超えて「わたしたちの快適な暮らしを満たし、思うままに振舞おうとする道筋を邪魔する者への排除」との理解に立ちました。それは現代にも充分起こりうるとのお話で一旦幕引きをしたのですが、「快適な暮らしを過ごしたく、思うままに振舞う」といういささか幼い、そして排除という名の暴力を伴うあり方がわたしたちの暮らしを締めつけています。例えばコロナ禍以降に政府関係者からテレワークが推奨されましたが、具体的にはリモートによる会議であったり、ミーティングであったりとのことで、他者との関係性がこれまでになく希薄化した時代をわたしたちは現在迎えています。「閉じこもり」「ひきこもり」はもはや異常ではなく日常の事柄であり、「孤独死」という言葉は英語の語彙にまでなりました。経済的に豊かであろうと、貧困であろうと、この孤独死は起こりえます。その意味で「散らされる」「ひとりきりにされる」とは貧富の格差を越えて生じるものと、心のどこかで諦めの寸前に立つわたしたちがいます。

 しかしながら、イエス・キリストの語る「わたしをひとりきりにする」との文言と、わたしたちが陥るところの「孤独」とは次の面で区別されることとなります。それは、わたしたちがひとりきりになる場合は、そうとは知らず予測もできないところでそのような状況に陥るのに対して、イエス・キリストは十字架と復活にいたる自らの救い主としてのあゆみを見越した上で語っているという点です。だからこそ「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」との言葉に連なることとなります。

 思うにイエス・キリストと弟子との関わりをわたしたちが考えるときに、十字架への苦難のあゆみに弟子たちはついていけず、一人ひとり櫛の歯が欠けるように脱落し、その中には人の子イエスを裏切る者すら現われるとの理解に立った『聖書』の理解を繰り返してきました。そもそも福音書そのものが、そのような負い目を抱えた弟子の口伝を基にしているところからそのような陰が強調されるのかもしれません。しかしもし、イエス・キリストがわが身に迫る苦難と危機をそれとして知っており、人の子イエスとしての辛酸をなめながらも弟子一人ひとりを逃れさせ、さらに自らの宣教を託されたとの理解があれば、従来の福音書の解き明かしとは異なる地平が拓かれます。イエス・キリストはわが身を盾として十字架刑に処せられ、そして三日後に復活されたとするならば『ヨハネによる福音書』の「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」また「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」といった教えに首尾一貫した道がより鮮やかに示されるのではないでしょうか。

 父なる神がイエスとともにいてくださるという言葉を集約すれば「インマヌエル」という、クリスマスの出来事の最中に天の御使いが語ったメシアの称号へと連なっていきます。わたしたちの交わりは、決して自己完結いたしません。それは絶えず広がっていくものでもあります。たとえひとりきりになっても、わたしたちは決して孤独ではありません。新たに迎えたその「ひとりきり」というありようの中で、わたしたちは、端から見ればそれは独り言のように聞こえても祈りを献げることができます。『聖書』を味わうことができます。そしてその先には新しい出会いとライフステージが整えられています。さらに申しあげるならば、デジタルに関わるすべての端末を絶って敢えて「ひとりになる」勇気をもつとき、わたしたちはキリストとの深い交わりに置かれ、身近な人々との交わりの尊さに気づかされるに違いありません。最も身近な交わりに感謝する日々でありたく願います。