ー三位一体主日礼拝ー
時間:10時30分~説教=「神さまはあなたを弁護します」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』14 章 9 ~ 17 節
(新約聖書 196 頁).
讃美= 21-351(Ⅰ.66),312,21-27(Ⅰ.541).
本日は三位一体主日礼拝を献げます。ただし三位一体の神と呼ばれましても、いつもの日常からは遠いように思われます。常日頃お伝えしておりますのは、この宇宙万物を創造した主なる神のわざは、わたしたち創造された者には測りかねるところがあり、その愛はまことであるといわれましても、小さい子に身体の栄養として大切な野菜を食べてもらおうとしてもなかなか難しいように、わたしたちの口には合わない場合もあります。そもそも『聖書』に記された主なる神は『旧約聖書』でも言葉を通して人間と関わるのであり、それとして姿を現わしません。「神を見た者は死んでしまう」とさえ言われました。罪人たる人は神の光に耐えられないとの理由です。 しかし『新約聖書』におきますと、それまで時にはそのような人との激しい緊張に満ちた間柄に立つ神の愛をもっとわたしたちの日常に則した譬えで語り、『旧約聖書』の神が虐げられた者の側に立ち、人の設けた境界線を越えていく「越境の神」であると示す人物が現われました。それが人の子イエスです。イエスは大祭司以外が立入を禁じられていた至聖所に留まるのではなく、顧みられなかった道を巡り歩いて神の愛の教えを説き、悲しむ者を癒し支えていきました。人々の暮らしから神の名を問われたとき、イエスは「父」と答えました。しかしイエスの振る舞いは権力者が危険視するところとなり、今でいう冤罪を着せられて十字架で死刑に処せられました。救い主が十字架にいたる苦難の道をあゆみ、処刑されるなどとは古代ユダヤ教ではあってはなりません。ですので、この折に古代ユダヤ教との分岐点が生じることとなります。しかしまことの愛とは喜びだけでなく苦しみをも分かちあい、大切にし、決してその人を一人にさせないという仕方で、「アガペー」という新しい愛のかたちを世に知らしめました。神の愛を知りたければ、イエス・キリストの生涯を辿り、そしていのちに終わりがあるのではなく、復活により死に終わりがあるのだという大転換を人々は目のあたりにするのであります。
本日の『ヨハネによる福音書』の箇所では、弟子のフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」との問いへの人の子イエスの答えが軸となっています。そのまま読みますと難解に感じますけれども、他の福音書の箇所のイエス・キリストの振る舞いと重ねていきますと、イエス・キリストが神の愛を証ししている様子がよく分かります。「わたしを信じる者は、わたしが行なうわざを行い、また、もっと大きなわざを行なうようになる。わたしが父のもとに行くからである」とある通りです。
そして本日の要となるのが「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟をも守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」と、『聖書』の中で「聖霊」と記される、神の愛の力のもう一つの面を書き記しています。「弁護者(パラクレートス)」としての働きです。弁護されるのはイエス・キリストがその人としてはわたしたちの世から目に見える仕方ではいなくなった時の間に生きるわたしたちです。つまり弁護する者をキリストがわたしたちに遣わすことは、とりもなおさずわたしたちのもとには振りかざせる正義はない事態を示します。自らの痛みや病を知れば、人は他者と争うことなどありません。己にこそ正義があるとの錯覚や思い上がりがあるからこそ、人を軽蔑し、人を悪者呼ばわりし、排除し、その者の言葉に耳を塞ごうとし終にはいのちすら奪おうとします。この振る舞いのどこに正義があるというのでしょうか。自戒も含めて人の間違いを指摘するときには弁護者である聖霊の働きを忘れてはいないか祈りたいと願います。
先日お話しいたしました、西成区で殺害され木津川の千本松渡船場でご遺体が見つかった内科医の矢島祥子医師の捜査の進捗を求めるチラシ配りを「教会の活動を考える会・伝道委員会」で承認を得て、教会の活動の妨げにならない限り毎月14日に参加する旨赦しを得、5月14日に出かけてまいりました。自転車行き交う鶴見橋商店街で手渡すチラシを見る人の様子は様々でした。不思議なことに一枚いちまい月ごとに作成する兄の敏さんと弟の剛さんはお二人とも新島学園から同志社へと進学し、祥子医師の弟にあたる剛さんは同志社大学神学部99年度生でした。ご遺体の見つかった渡船場では口語訳讃美歌312番を参加者で歌うという想像を絶した出来事がありました。期せずしてわたしども夫婦の共通の知り合いが祥子医師の弟さんだったのです。祥子医師の不審死以上に「これはただ事ではない」との思いに駆られました。復活の出来事に依り頼み、弁護者たる聖霊の働きに委ね、深い痛みにありつつ黙々と世を耕し、神の平和を待ち望む人々の具体的な群れを観た思いです。