説教=「キリストを通して注がれる神の愛」
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』9 章2~8 節
稲山聖修牧師
聖書=『マルコによる福音書』9 章2~8 節
(新約77頁)
讃美=Ⅱ 80,21-462(292).21-29.
讃美=Ⅱ 80,21-462(292).21-29.
みなさまの尊いお祈りのお陰で「こひつじこども園」は昨日無事卒園式を迎え、29名の園児さんがご家庭の事情に併せて少しずつこども園を離れ新しい生活へと向かいます。その一方でわたしたちは15年前の東日本大震災で今も行方が分からない、年齢が停まったままのこどもたちを想い起こします。さらには、遠くイランの地では2月末に女子小学校が米国の巡航ミサイル攻撃を受け、100~170人の児童や教職員が深い痛みとともに心ならずも天に召されなくてはならなくなりました。どのこどもたちも日本のアニメーションが好きだったり、緑豊かな校庭で遊んだりしていたことでしょうし、それぞれの未来に眼を輝かせ、譬え貧しい暮らしであったとしても家族の希望として愛され育っていたはずです。心が深く痛みます。子を失った親の時間は、逆縁の苦しみのなかで止まってしまいます。
おそらく人の子イエスの母マリアもまた、わが子の生涯をながめながら、その苦難を知りながら、最初は何度も「やめなさい」と呟いたかもしれません。そして囚われの身となり、自らに先立って十字架で絶命するという断腸の痛みを覚えたことでしょう。みどり児イエスの出産とは異なるその痛みは想像に堪えないところがあります。
『マルコによる福音書』の書き手集団は、そのような人の子イエスの生涯を振り返りながら物語として再構成します。そのなかで思い出さずにはおれなかったのが、『律法の書』に描かれるモーセの姿、『預言者の書』に記され、イエスの時代には英雄として語り継がれた預言者エリヤの姿でした。本日の箇所では山の上で真っ白な衣を身にまとった人の子イエスと語らう神に属する人々として描かれてはいるものの、モーセは波乱に満ちた生涯のなかでようやく落ち着きを取り戻した家族を離れ、奴隷となったイスラエルの民を解放し四十年間導きながらも民自らの過ちのゆえに約束の地へと自らは踏み入れられませんでした。エリヤもまた神の道から大きく外れたイスラエルの民、王と妃を非難しながらも追っ手に追われ、生涯の終わりを乞い願うまで追い詰められます。しかしモーセもエリヤも、人の世からすれば決して満ち足りた生涯とは言えないながらも、その生涯は語の全き意味で、神の圧倒的な愛により肯定されたのでした。人々はその肯定に逆らうことはできず、ただただアーメンと呟くほかに道はありませんでした。
人の子イエスは、そのようなモーセやエリヤを凌ぐ救い主・キリストとしての生涯を全うするにいたります。「軛」という言葉があります。『新約聖書』でよく登場する言葉です。この軛とは家畜がそのあゆみを違わないように、細い山道から道を外さないように首につけられる枷です。イエス・キリストはわたしたちが神に備えられた道から外れないようにわたしたちと枷をともにしてくださいます。それがあの十字架の横木であり、時にそれはキレネ人シモンのように突然ともに担わされるものであるかもしれません。しかしその枷により、わたしたちは自分勝手な思いに惑わされず、それこそ試みる者にも惑わされず、神に示された各々の道を違うことなく歩むことができるのです。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白く輝く服」とは、十字架を経た後の弔いの折に甦られたイエス・キリストの姿を先取りしています。だから弟子にはその出来事を受けとめきれず、他方で「これはわたしの愛する子。これに聞け」との神自らの声が山間(山あい)に響きわたります。イエス・キリストの生涯は、単なる神の絶対的な肯定を超えて、今なおわたしたちに、そして涙も涸れ果て、時も停まった人々にこそあふれる神の愛そのものとして、地を震わせてやみません。
そのように考えますと、何も悪いことをせず、ただただ悪魔のような大人の欲望により殺害されていったこどもたちのいのち、そして何も悪いことをせず、愛くるしい姿のままで時をとめてしまったこどもたちの姿は、いったいどこにあるというのでしょうか。それは紛うかたなく、神の愛につつまれて、イエス・キリストとともにおられます。人の子イエスは世にある時、涙を流され、微笑みを浮かべられ、弟子の振舞いに憤られました。そして世の憎しみや殺意に晒されもしました。だからこそわたしたちは、喜びの時にも、悲しみの時にも、心の病に深く苛まれた時にも、どこかでイエス・キリストと深く結ばれており、時には枷とも言わねばならないその繋がりのなかで、イエス・キリストを窓としてこの何とも情けない世の中を見渡しています。けれどもそのなかでできることとは、何よりも涙を流されている方々を抱きしめるわざではないでしょうか。どれほど恐怖に泣き叫ぶこどもさんであれ、人格を否定され虐待されるこどもさんであれ、抱きしめて「愛する」ところから、こどもたちの新しいあゆみは始まります。天に召されたこどもたちもイエス・キリストが抱きしめておられます。召されたこどもたちに、わたしたちのともなる召された兄弟姉妹に励まされて、受難節の新しい週を始めます。わたしたちも人の子イエスに抱かれているのです。
