2026年3月20日金曜日

2026年 3月22日(日) 説教

―受難節第5主日礼拝―

――牧師訣別礼拝――


時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「人の子イエスのグレート・リセット」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章35~45 節
(新約82 頁)

讃美=267,495.21-29

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

※3月29日より、教会のYouTubeチャンネルが変更となり、原則、ライブ中継のみとなります。新しいアドレスは、こちらのホームページの説教のページに、その都度掲載してまいります。よろしくお願いいたします。

【説教要旨】
太陽とその惑星が創造されてからおよそ46億年。そのうち41億年を経てようやくこの地球に生命が芽生えます。最初は生物と無生物の間のようなものからバクテリアのような微生物、植物プランクトンや微生物。それらがくっついたり離れたりして多細胞生物がまずは植物として、その植物によって酸素が生成され動物が生じ、ミジンコや貝類のような生物、軟体動物から無脊椎動物、軟骨質の脊椎動物の魚類、やがて堅い骨をもつ魚類から両生類、爬虫類から鳥類と哺乳類へと様子が変ります。僅か5億年の間に生命が生じたとされ、今日までにいたります。『聖書』に記されているところの「時」とは、このような時間をもつつみこみますが、この僅か5億年の間に五回もの生命の大絶滅期があったとされます。これを「生命史のビッグファイブ」と呼ぶ人もおれば、「生命史のグレートリセット」と呼ぶ人もいます。時には全生物の9割以上の絶滅にまでいたりますが、その都度絶滅した生命の隙間を埋めるような仕方で進展してまいりました。それは進化というよりも適宜その環境に適応できた「いきもの」のあゆみだとも申せます。
 今以て解明できない謎は尽きませんが、わたしたち人類もまた奇妙な仕方でその規模を広げました。他の哺乳類に較べますと極めて未熟な仕方で生まれ、育つ上で自然そのままの状況では生存は不可能。自ら社会を作りあげ、その共同体を生育の場とします。しかもこの社会は絶えず危機に晒されているところから、その枠組みを絶えず新たにしなくてはいけません。ともすれば内側からは絶対的なものだと思われがちな社会も物差しもまた、予想もしない不調和や生存環境の激変によって立ちもすれば倒れもいたします。生命史そのものが五度の大絶滅期に晒されてきたのですから、人類が住まいとする社会とはそのような生命の歴史に較べたとてはるかに脆いと言えます。わたしたちは極めて短い時間の範囲で喜怒哀楽をともにし、世にいのちを授かり、そして天に召されてまいりますが、見えるものにしか拠り所を見いだせない場合、人と較べて自らを測って安らおうとします。時にそれは避けられない組織の要請でもありますが、それがすべてかといえば違うと言わねばなりません。いのちの尊さとは社会に問われはしても決して定義されないからです。
 福音書の描く社会に君臨していたローマ帝国。その秩序は徹底した序列の上に成立っていました。市民の自由は奴隷制度の上にあり、ローマの繁栄は属州の人々の暮らしから絞り出した豊かさの上にありました。極度の貧しさを始めとした生存の危機に晒されますと、さしあたりは上に立つ者に依存して暮らすほか道を見いだせなくなるようです。社会の仕組みや支配が強固に映るかぎり人々は諦めや運命論を唱え始めるか、またはその支配の仕組みに似た別組織を作ってはそのなかで優劣を競い合うようになります。人の子イエスの弟子もその例に洩れませんでした。本日の箇所では弟子の頭の中では、訪れるであろう神の国にはローマ皇帝に代わってメシアであるイエスが君臨し、その序列を巡るところの争いがすでにあった様子がほのめかされています。弟子には世にいのちをもたらす神の愛が矮小化され、単なる権力闘争の問題にすり替えられています。この時点で弟子は天地創造の愛なる神とはかけ離れた誘惑のるつぼにあると言えましょう。人の子イエスが「退けサタン」と叱咤したところで弟子のあり方は簡単には変りません。
 その代わり本日の箇所でイエス・キリストが語るところのメッセージとは何でしょうか。それは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」との問いです。それは隣人を踏み台にするのではなく踏み台にされる生き方であり、何事かを雄弁に語るのではなく罵声にあっても弁明せず沈黙する態度であり、生存環境への過剰な適応でもある力への憧れではなく、むしろその適応から外れていく弱さの尊さ、聖なる弱さでした。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者はすべての人のしもべとなりなさい」。この箇所で用いる「しもべ」とは文字通り「奴隷」を示すギリシア語が用いられています。人を蹴落とすのではなく踏みつけられていくありよう。社会の中で誰からも評価されるのとは異なるありよう。自然界で支配者として君臨するいきものとは異なるありようを、イエス・キリストは伝えるだけに留まらず、自ら実践し、苦しみ涙を流し、病を経て十字架へと赴くのです。しかしその死によって贖われ、新たにされるいのちが復活のキリストには示されています。「人の子イエスのグレートリセット」とも呼ぶべき唯一無二の大事件がこうしてあらわにされます。
 本日をもって稲山は主任担任牧師としてのメッセージを終えます。他方で教会の新しい動きはそこかしこに看て取れます。教会の置かれた社会のあり方や国々のあり方は大きな変動期にあります。ただこの中にあってこそ、みなさまが、その賜物に応じてありのままで「地の塩・世の光」としてさらに豊かに用いられる時がまさに到来しています。