ー受難節第5主日礼拝ー
時間:10時30分~
説教=「一粒の麦が地に落ちるとき」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』12章20~26節
(新約聖書 192頁).
讃美= 243,21-466,21-27.
『旧約聖書』が成立する遙か前、紀元前ではおよそ一万年新石器時代、人類に贈られた穀物は野生の麦であったと申します。最初はその麦を採取し、石ですり潰して種のないパンを作っては食していましたが、次第に畑を耕しそこに水をひき、農耕という仕方で麦の栽培を人工的に行なうようになりました。貨幣のない時代、収穫された穀物の量によって都市の力は決定づけられました。羊などの家畜と異なり、穀物は長期の保存と備蓄に耐えたからです。そこではどれほどの麦が収穫できるかという「量」を競い合うこととなり、歳代で一粒の麦から七十粒近くが収穫できたとのこと。ローマ帝国の世では一粒あたり五粒の収穫だったことを考えると驚異的でした。人の子イエスの時代に近づくにあたり一粒あたりの収穫は低下し、身近ながらも貴重な食糧として扱われました。 そのように殆どの人々が「量」に注目するところの穀物のはずですが、『ヨハネによる福音書』のイエス・キリストの眼差しは異なります。収穫量に嬉々とする人々の中、他ならぬ「一粒の麦」の行方に目を注ぎながら、ギリシア人に福音の教えを説くのです。ギリシア人でもユダヤ人でもその日の食糧を確保するためには相応しい汗を流す、または時間を献げなくてはなりません。民の文化の垣根を超える対話の土台として「一粒の麦」を用いた譬え話は、人の子イエスに会いたいと切に願うギリシア人にも深く響いたことでしょう。
すでにイエスはエルサレムの城壁の外で暮らす人々に迎えられ、聖なる都と謳われる都市へと入りました。暮らす人々は城壁の外の村人たちとは暮らしの水準は全く異なります。一粒の麦の行く末を凝視するのは貧しさに喘ぐ貧農であったことでしょう。袋に入った麦は備蓄できますが、一度蒔いてしまえば元には戻せません。その先がどうなるかは神に委ねる他はなく、未来にどのような収穫が待つのかは誰にも分からないのです。後もう少しというところで日照りに見舞われたり、病害虫におかされたりというリスクは変わりません。イエス・キリストは神に委ねて歩むその生き方を、一粒の麦に重ねます。
近現代の日本では、人生はその人個人の自己責任のもと、その人自らに「所有」され、そして死によって完結するものだと見なされてきました。「その人がどのように生きようとそれはその人の自由だ」との言葉は現在七十歳代を超える人々の間でも一定の共通認識となっています。しかしそのような理解は本当のところ正しいのでしょうか。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とは、より具体的に言えば「一粒の麦は蒔かなければそのまま、しかしもしあなたの手元を離れて蒔かれたのであれば多くの実りを授かる」とも解釈できます。そうなると25節以下の「自分のいのちを愛する者」とは「自分のいのちに執着する者」となり、「自分のいのちを憎む者」とは「自らの執着を一旦放念し、主なる神に委ねられる者」という理解も可能です。同じような譬え話は「タラントンの譬え話」としても描かれますが、要するに人生の自己決定権を表向き制約することにより「誰がために用いられたのか」という道筋へとわたしたちを招き、人生の質をより豊かなものとする道を、イエス・キリストは説いていることにもなります。
イエス・キリストの十字架への苦難の道は、そのような「誰がために用いられたのか」という道筋の中で、最も人々から遠ざけられる生き方でもあります。人の子イエス自ら「苦い杯をとりのけてください」と呼んだ生涯です。しかしそのゲツセマネでの祈りの中で、その葛藤の中から「御心に適うことが行なわれますように」と委ねきれた人でもありました。イエス・キリストの人生は、わたしたちが目指すところの「自己実現」からは最も遠いところにあります。
「どのように生きようとそれはその人の自由」という考え方が行き先を見失った結果、わたしたちは仕えるべき人々やテーマといったものを見失うにいたりました。その結果、外見上は豊かであっても行なわれる育児放棄や介護放棄、さらには自己自身の生き方の放棄といった事態が生じるにいたりました。そのような事件を「よくあることとして受けとめる」のか、それとも「深く胸を痛める」のかという分岐点にわたしたちは常に立たされています。イエス・キリストはどのような土地であっても種籾としての麦を撒くことを呼びかけ続けます。いのちを物心両面にわたって支えるいのちの結晶としての麦。その麦をどのように用いるのかによって、わたしたちの交わりの行方が定まります。復活によって裏づけられる、決して無駄には終らない生き方がそこにあるように思えてなりません。一粒の麦を粗末にせず、主なる神に委ねていくあゆみを、キリストの苦難は切り拓きます。