2024年4月17日水曜日

2024年 4月21日(日) 礼拝 説教

         ー復活節第4主日礼拝ー

時間:10時30分~



説教=「愛を呼びかける招きに応えて」
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』 21 章 15~19 節
(新約聖書  211 頁).

讃美=  21-505(Ⅰ.353),300,21-29(Ⅰ.544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 
【説教要旨】
 炭火のあたたかさと充分に調理され、温められた魚とパンを漁の後にともに囲んだシモン・ペトロは、復活のイエス・キリストから「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われます。ペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と答え、同じ問いをペトロに向け「わたしの羊の世話をしなさい」と答えます。さらに同様のやりとりは三度続き、ペトロはその問いかけに悲しみを覚えながら「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えます。イエスの愛は初めの二度は「アガパオー」、最後の言葉には「フィレオー」となる一方、ペトロは初めから終わりまで「フィレオー」でやりとりする他ありません。このように読んでまいりますと同じ「愛」と訳されてもイエス・キリストが呼びかける愛は神の愛、ペトロの愛は友情に示される愛を示す人間的な愛に過ぎないというボタンの掛け違いが指摘される場合もあります。しかし本日は三度目にはイエス・キリストの呼びかけがペトロの立場まで歩み寄り、神の愛が人間愛をつつむような仕方でイエス・キリストがペトロを招き、そしてペトロはその招きの中でイエス・キリストに繋がり、21章18節からの道へと導かれるとも受けとれます。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、歳をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる」。もちろんこれは直接にはペトロの生涯を記してはいるものの、特に聖人と呼ばれるような働きをされた方でなくても、この言葉は身も心も人生も思うままに運ばないわたしたちには深く頷くところがあるというものです。ペトロを象徴とした「世」に復活のイエス・キリストがどのように介入されるのかを看て取れます。

 本日は釜ヶ崎で働いた内科医をご紹介します。その人は矢島祥子さんという方です。1975年3月30日にお生まれになったこの方は、群馬大学医学部入学後に日本キリスト教団高崎南教会で洗礼を受け、マザーテレサに会うためにコルカタまで足を運ばれました。研修期間を終えた後には淀川キリスト教病院に内科医として勤務、当時西成区鶴見橋にあった「くろかわ診療所」に転職、後に釜ヶ崎での医療ボランティアに励んでいた最中に行方不明、2009年11月16日に木津川の千本松渡船場でご遺体が発見されます。召されたご年齢は34歳。ただ不思議にも警察はこの事件の捜査を長期にわたり留保し後に自死と見なすのですが遺体には絞殺の際に見られる首の圧迫痕、こぶ等があり、何者かに拉致されて殺害されたとの疑いもあり、ご遺族の訴えにより再捜査が始まります。ただし警察での扱いは現在も不審死扱いのまま。2012年11月には公訴時効が成立するにいたりました。矢島祥子さんの名前を出すのは釜ヶ崎では長らく憚られていました。ご本人もそのような道筋で天に召されるとは決してお望みではなかったことでしょう。個人としての覚悟のみに基づいてはこのような仕方で生涯を全うするのは不可能です。誰かに招かれなければ不可能なあゆみがあります。たとえその招きの糸が切れそうになっていたとしても、矢島医師の眼差しは路上で苦しむその時代の人々に向けられ、そのような人々を食い物にするような者への義憤を覚えておられたことでしょう。そのお気持ちにはわたしたちも共鳴するところです。

 わたしたちは思い定まらぬ人の愛による交わりの中で活かされている者でもあります。他方でその人間的な愛の中に神の愛の介入を見出す瞬間があります。キリストとの出会い。それはわたしたちの兄弟姉妹、また仲間が誰かを大切に思い、あゆみ始めるときでもあります。またあゆみの方向を転換するときでもあります。特定の人々に対する貢献度を評価しその優劣を一律に決めるのではなく、主なる神から授かった唯一の交わりを尊ぶかどうかにかかっています。わたしたちの思いにはさまざまなかたちがあります。しかしいかなるかたちであるにせよ、わたしたちはそのかたちを尊び、招きの糸が切れそうになっているときでも、祈りのうちに、その関わりを忘れずにいるという関係性があります。そのつながりさえあれば、人はどのような言葉を受けたとしても身体が先に動いていくというものです。聖霊の導き、という言葉が決してオカルトでも荒唐無稽でもない証しです。

 教会とのつながりのなかで授かった夢が、なかなか実現しない焦りはみなさんにはないでしょうか。わたしはこの世界に導いてくださった牧師から病床からの電話で「そこが神様から遣わされた教会だ」と涙ながらに語られ、渡辺敏雄牧師からも期せずして同じ言葉を授かりました。同時にご批判やお叱りも受けます。しかし神の約束は世代を超え完成します。幻がその世代で実現しなくとも、聖霊が働き、広がり続ける交わりに感謝します。