ー復活節第3主日礼拝ー
時間:10時30分~説教=「さあ、来て朝の食事をしなさい」
稲山聖修牧師
聖書=『ヨハネによる福音書』 21 章 4~14 節
(新約聖書 211 頁).
讃美= 298,21-411,21-29.
『ヨハネによる福音書』はそれ以外の三大福音書を踏まえた黙想の中で描かれ、そしておもに異邦人社会、より具体的にはギリシア文化圏に属する人々に向けて記されていると言われています。もちろんそこには絵に描いたような古代ギリシア人ばかりではなく、その時代のユダヤ人とは異なる人々、ムーア(アフロアフリカ)系もいればラテン系もいる、ローマの市民もいれば奴隷もいるといった状況があります。だからあえてわざわざ人の子イエスを教師と呼ぶ際には「ラビ」と記し、その上で説明を加えもいたします。 ただしその時代に主流となったギリシア的な考え方とは、日本の一部の仏教にも似ているかも知れませんが、わたしたちの具体的な身体をなすところの「肉」と、物事を考えたり心情的に捉えたりするところの「霊」を区別する傾向が強く、わたしたちの生活にフィットするかどうか分からない箇所があります。例えば「肉体は衰えていくが存在は変わらない」という話があるとします。「霊魂不滅」という考えもあります。それとしては尊重すべき見方なのかもしれません。しかしわたしたちにはあまりにも非日常過ぎる事柄に映ってしまう場合もあります。あまりにもその時代に適応しすぎるあまり、それが却ってわたしたちには届かないように思えるのです。
しかし本日の箇所は、そのような『ヨハネによる福音書』全体に流れる物語の進み具合とはかなり異質な、むしろ異物のような印象さえ覚えます。弟子たちのうち、漁師であった者は元の生業へと帰っていきました。そこではついその昔に覚えた興奮めいた人の子イエスへの服従からは冷めた日乗を繰り返すだけでした。人の子イエスとの出会いも言葉もすべてが忘れ去れていく日乗。ティベリアス湖との名は、ローマ帝国皇帝の名。その圧力が一層加わった標であるとも言えます。しかし夜明けとともに岸辺には人の子イエスが姿を現わします。薄明かりの中、ぼんやりとしたその姿からの言葉が響きます。「食べ物があるか」「ありません」「舟の右側に網を打て」。このやりとりは復活したイエス・キリストが霊肉ともなる姿であったと示される箇所です。作業の都合から裸同然のペトロは「主だ」との言葉を聞いて上着をまとって湖に飛びこみます。これもまたペトロに恥じらいを感じさせるほど霊肉ともなるその存在が鮮やかであった証しです。他の弟子たちは大量の魚の網を引いて、舟で戻ってきました。そして岸にあがると「魚とパンを持ってきなさい」との声があり「朝の食事」をキリスト自ら振舞う物語となります。霊と肉を切り離すどこか、冷たいはずの日々のただ中に復活のイエス・キリストは立ち給うだけでなく「朝ご飯を食べなさい」と勧めてくださるのです。未明から早朝に及ぶ労働に冷えた身体を温もりにつつむイエス・キリスト、漁師という決してその時代には尊敬されはしなかった労働を十字架での出来事の後にも受けとめてくださるイエス・キリスト、不漁に終るかもしれなかった未明の働きに声をかけて漁師をリードしたイエス・キリストの姿がそこにありました。復活のキリストは弟子の全生活を祝福されたのです。
弟子たちは人の子イエスが十字架で殺害され、その弾圧が自らにも及ぶのではないかという恐怖心に駆られて逃げていきました。しかし復活のイエス・キリストは事ここに至って、そのような弟子たちの態度をも肯定し、祝福されたのではないでしょうか。学校教育で個性的な生徒が虐めに遭うという話を聞きます。親とても自分の子が虐められているのかどうか気が気ではありません。人の群れには必ずこのような現象が起きるものです。このような虐めに際して幼少期に「立ち向かいなさい」とか「あなたにも問題がある」といった無節操な言葉ばかりが垂れ流されては苦しみ、心ならずも自死に及んだこどもたちも、もちろん大人も数知れません。けれどもイエス・キリストは、逃れの道を辿った弟子たちに、炭火を起こし朝の食事を備えてくださっています。それは逃れの道の肯定でもあり、そこにはこれまでの道とは異なる別の道を歩む力が秘められています。
わたしたちもまた、新しい道をあゆむ時を迎えつつあります。コロナ禍明けの中で変貌した教会生活があります。教会の交わりからもたらされた「たけしろみんなの食堂」の活動も活発です。その働きは教会と重なりながら異なる質の輪でもあるからこそ盛況を迎えています。先週には「交わりの会」が行なわれ年齢を超えた交わりを育む機会を時間にかぎりがありながらも楽しむ時を備えられました。他方でイースター礼拝の後に行なった祝会で未だにクラスターの発生絶えずとの報告も聞き及ぶところです。今回の礼拝の後には定期教会総会を行ないます。いずれにしても温かな炭火と魚とパンのぬくもりをどのような新来会者の方々にも提供しうる交わりが育まれますよう祈ります。