2020年11月6日金曜日

2020年11月8日(日) 説教(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「誘惑に打ち勝つ幼児の声」   
『マタイによる福音書』3章7~12節   
説教:稲山聖修牧師

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 洗礼者ヨハネはイエス・キリストを指し示した、日本語でいう露払いのような仕方で福音書では描かれます。イエス・キリストを通して神の愛が人々に注がれるという聖霊のそそぎによる洗礼に先立って、洗礼者ヨハネは水による清めの洗礼を授けてまいります。福音書で描かれる洗礼者ヨハネの役割は、世にあるまことの穢れとは何か、そしてその穢れをイエス・キリストがどのように清めていくのかを明らかにする、いわば先陣です。

 それでは洗礼者ヨハネは何を「清められるべき」だとし、白日の下にさらしていったというのでしょうか。その様子が今朝の聖書の箇所には記されています。彼はエルサレムとユダヤ全土、またヨルダン川沿いの地方一帯から出てきて罪を告白する人々にヨルダン川で清めの洗礼をに授けておりました。この場でいう罪とは、過去に行いながらも誡め通りの仕方では償いきれなかった「重荷」であり、その重荷を抱えた人々を結果として癒す役目をも担っていたと思われます。もちろんその重荷はその人自らには、今でいう自己責任や自業自得という意味合いで理解されるものでも、また理解されるべきものでもなく様々な社会の歪みがもたらした苦しみや悲しみでもあるのですが、洗礼者ヨハネはそのような人々を決して非難したり責め立てたりはいたしません。そのような人々には清めの洗礼とは預言者による癒しのわざでもあり、ヨハネはそのわざに黙々と取り組みます。

 しかしヨハネの眼差しが鋭くなるのは、そのような人々の群れの中にその時代のユダヤ教の律法学者でもあるファリサイ派、またエルサレムの神殿で祈りを献げるほか、ローマ帝国の役人との関わりの中、今でいう植民地に近い「属州」という仕方でエルサレムの神殿や人々の自治を守ろうと、謀りごとを駆使したサドカイ派を見出した時でした。「ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来た」。その際に洗礼者ヨハネは次のように申します。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『われわれの父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。実に激しく憤りを露わにします。本来は人々を導く立場にあるべきファリサイ派やサドカイ派の人々がどうして群衆に紛れて身を隠すように、しかも大勢で洗礼者ヨハネを訪ねたのか。それは自らの負い目を除くためだけであって、生き方そのものを変える悔い改めのためではなかったと考えれば、合点がいきます。ファリサイ派やサドカイ派の人々には、洗礼者ヨハネの水による洗礼とは文字通りの禊ぎ以上の意味はなく、良心の呵責から解放されたこの人々は、本当のところ神から委託されているはずの群衆に向けた働きかけ、すなわち聖書の教えを広めるだけでなく希望を人々と分かち合い、さらに人々の痛みを神の前に執成し祈りを献げて癒すというわざを放棄して、ただ自分のためだけの赦しを得ようと群がっています。洗礼者ヨハネが叫ぶのは「悔い改めにふさわしい実を結べ」との声。彼は大きな組織のもつ力をわがものと勘違いする者に対して警告を発します。しかしこのように悔い改めを呼びかけられるファリサイ派の人々やサドカイ派の人々も生まれたときからそうであったかと考えると、果たしてどうであったことでしょうか。教育や出会いの中でこのような道を選ぶほかはなかったのではないか、とも考えられます。洗礼者ヨハネは「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」とありますが、実際にイエス・キリストがなしとげたことと言えば、本来は焼き払われるべき人々に代わって、焼かれるような苦しみを十字架で味わわれ、神の力の何たるかを洗礼者ヨハネが叱りつけた人々よりもさらに権力をもつ人々に突きつけたと言えましょう。キリストは人の罪を個人にではなく、実に御しがたい構造悪だと見抜いています。叱りつけられた人々も神の救いのわざから決して遠くはありません。

 本日は幼児祝福式です。幼児の眼差しは時に純粋であり、だからこそ大人社会の理屈が通じないことしばしば。正直にものを言う幼児に「口は禍のもとだ」と蓋をする大人がいるとすれば災いであります。大人社会の様々な課題を泣き声や涙で訴えます。「こどもだまし」という言葉が全く通じないのが幼児です。言うことは聞かないが、することは真似をするのが幼児です。大人社会の誘惑が通じない幼児を弟子は遠ざけましたが、イエス・キリストは招いて祝福されました。キリストに従う道とは、安易には楽だとは申せませんが、決して難行苦行でもありません。神が独り子を世にお遣わしになったほどに、世を愛されたという言葉の示す道を、こどもたちに備えてまいりましょう。