2020年11月13日金曜日

2020年11月15日(日) 説教 (自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「倍返しを超えていくキリストの道」
『マタイによる福音書』5章38~48節  

説教:稲山聖修牧師

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 新約聖書の時からさらにさかのぼること1700年と半ば。旧約聖書の物語の世界では族長時代が相当するかもしれません。この時代、現代のイラク周辺に栄えた文明の中で画期的な出来事が起きます。人類史上最も古い成文法である『ハンムラビ法典』の誕生。それは旧約聖書の誡めにも影響を及ぼしています。ところで『ハンムラビ法典』と言えば同害復讐法。ただしそれは単なる「目には目を、歯には歯を」では終わりませんでした。その対象としては自由人と奴隷、そして国家に所有された隷属民とされる半自由人が扱われています。条文では外科医の料金と手術に失敗した折の損害賠償、大工の賃料や家が倒壊し死者が出た際の損害賠償など多岐にわたりますが、代表としては「もし人がほかの人の目を損なったならば、彼らはその目を損なわなければならない」「もし人が人の骨を折ったならば、彼らは彼の骨を折らなければならない」「もし人が半自由人の目を損なったか、半自由人の骨を折ったならば、彼は銀1マナを支払わなければならない」「もし人が他の人の奴隷の目を損なったか、人の奴隷の骨を折ったならば、彼は奴隷の値段の半分を支払わなければならない」。『ハンムラビ法典』の同害復讐法は、被害者も加害者も自由人の場合にのみ適用され、被害者が半自由人の場合や奴隷の場合は賠償になると申します。裁判の場では裁判官の自由裁量の余地があり、自由人同士でさえ必ずしも厳格に適用されてはいなかったと申します。

 そのように考えますと、主人と奴隷が、例えばアブラハムとハガルのようなもはや金銭では測りがたい絆のもとで暮らしていた場合には、根本的には人と人の関係ですから、杓子定規的な運用はされなかったと考えられます。むしろ調停で済む場合には示談を進める手続きとして、個別のケースによるさまざまな判例があった可能性もあります。さらに当事者だけではなく裁判官がその場にいたとなると、今でいう報復原理というよりも「どうすれば立場の弱い者、または被害の大きかった者を救済できるのか」との態度は無視できないでしょう。大根一本盗んだからといって、村の掟に従ってこどもを撲殺するというような残虐さを認めるというのであれば、別段法律を設ける必要もなかったでしょうし、憎しみに満ちた私刑で充分であると考えられるからです。

 けれども福音書の世界では、すでに同害復讐法が含む救済措置の側面は全く抜け落ちてしまっているようです。それはイエス・キリストの教えとして記される本日の箇所から明らかです。「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。単なる報復原理に堕落した同害復讐法とは全く異なる愛の教えを、イエス・キリストは人々に語るのです。なぜでしょうか。人は憎しみを正当化するために仮初の正義を設けます。しかしその見せかけの正義は極めて小さな枠に留まり必ずそこには情念を正当化するための嘘が入り込みます。神の真理は一つであるとしても、人の正義は星の数ほどあり、その正義が振りかざされた場合、決して出会いや交わりは生まれません。さらに質の悪い事には、憎しみはその人の感情だけではなく、その人の時間までも止めてしまいます。人を育むことがないのです。成熟に至る道を止めてしまうのです。それよりも、その人がなぜそのような行為に及んだのかを辿る方が、剣を振るうよりもはるかに実りをもたらすというものです。テレビドラマを賑わせた「倍返し」には確かに爽快感が伴いますが、あまりに刹那的なガス抜きに終わってしまいます。そのような世知辛い時代にわたしたちは立っているのかもしれません。

 人々の前にそびえる分断という名の壁。もしわたしたちの時代に、国家単位で報復原理しかもたらさない、劣化した同害復讐法を持ち込むのであれば、結果は知れています。それは身の破滅だけでなく地球そのものの破滅をも意味します。イエス・キリストはその人の、その民の、神が創造された世界全体の実りを喜ぶのであって、破滅を見てほくそ笑む方ではありません。「右の頬を向けられたら左の頬も」は、恥をものともしない生き方を可能にします。「下着をとる者には上着をも」というあり方は簒奪を恐れない在り方を可能にします。1ミリオン、すなわち厳密には1キロ480メートルの独り歩きを強いる者は、その人自らが恐れるその道をともに倍歩めという「愛の倍返し」を語ります。敵を愛し、迫害する者のために祈るあゆみは、安っぽい報復原理に基づく憎しみの奴隷にはならない道へとつながります。そしてイエス・キリストはよどんだ人間の情念を白日のもとにさらけ出すのです。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」。死刑が執行されたところで、遺族の殆どはそれを本懐として報告することは稀で、むしろ深い空しさに包まれる場合が殆どだと申します。道理のよるべをイエス・キリストは人心にではなく天を指さし語ります。憎しみに屈しないあゆみが世の光となるとわたしたちは知っています。