『マタイによる福音書』24章36~44節
説教:稲山聖修牧師
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『マタイによる福音書』の記された時代だけでなく、そこで描かれる舞台にあっても、書き手が筆に力を込めるのが「終末」という枠組み、そしてその枠組みはそのまま旧約聖書に記された約束の完成に繋がります。不条理な苦しみに喘ぐ人々が解放されたいと願い、ある時には時代の変革や革命を、そしてまたある時には時の巨大なうねりを感じながら危機意識のもとで暮らしている世にあって、世の終末という考え方は多くの人々の間に広まっていきます。
特に福音書におきまして終末を語る役割を担ったのは洗礼者ヨハネでした。『マタイによる福音書』3章では「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。<荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ>』」。洗礼者ヨハネは、最も初期に成立した『マルコによる福音書』で次の記事がそれとしてのクリスマス物語がない中で一層際立ちます。「神の子イエス・キリストの福音の始め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする』。<主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ>」。他の福音書では劇的なドラマとして描かれるはずのクリスマス物語を『マルコによる福音書』では「神の子イエス・キリストの福音の始め」の一行に圧縮します。歴史的な意味でイエス・キリストが世に遣わされた時に遡るほど、非常に切迫した終末思想に触れるにいたります。
ところで洗礼者ヨハネの示す終末とは、その時代の既得権を味わっている人々を断罪するという審判の性格の強いメッセージでした。「悔い改めよ」という洗礼者ヨハネのメッセージに触れて、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、<罪>を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けます。この箇所でいう罪とは、わたしたちが概して様々な文学でいう抽象化された「因果」と重なる<罪>や<原罪>といったものではありません。<原罪>という考え方はそれとしては5世紀に始まるもので、新約聖書からすればかなり後の時代に生まれます。福音書と密に関わる『旧約聖書』では<現行罪>つまり、実際に神の誡めを破り、人や財産、いのちを心身にわたり傷つけ、その負い目に苦しんではいるけれども、そのまことの原因については聞き及ばないという場合、または病や貧困も、神の約束を破ったという実際の行いに由来するものとして理解され、人の力では計り知れない重荷として人々の心身に重くのしかかっていました。だから洗礼者ヨハネは集まってみた人々には、黙々と清めの洗礼を授ける一方、ファリサイ派やサドカイ派といった、その時代で相応の立場にある人々に対しては「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めに相応しい実を結べ」と断罪するのです。
しかし今朝の聖書の箇所に記されたイエス・キリストの終末をめぐるメッセージは、洗礼者ヨハネの教えとはその内容が異なっていることに気づかされます。それは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と、イエス・キリスト自らもまた、終末の時がいつ訪れるのかを知らない、と語るのです。これは洗礼者ヨハネには見られないメッセージです。さらにヨハネにはないメッセージとしては「目を覚ましていなさい」「あなた方も用意しておきなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」という目覚めのメッセージを審判に先んじて語るのであります。もっといえば注意深くありなさいとの意味も含んでいることでしょう。
『マタイによる福音書』の記された時代だけでなく、そこで描かれる舞台にあっても、書き手が筆に力を込めるのが「終末」という枠組み、そしてその枠組みはそのまま旧約聖書に記された約束の完成に繋がります。不条理な苦しみに喘ぐ人々が解放されたいと願い、ある時には時代の変革や革命を、そしてまたある時には時の巨大なうねりを感じながら危機意識のもとで暮らしている世にあって、世の終末という考え方は多くの人々の間に広まっていきます。
特に福音書におきまして終末を語る役割を担ったのは洗礼者ヨハネでした。『マタイによる福音書』3章では「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。<荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ>』」。洗礼者ヨハネは、最も初期に成立した『マルコによる福音書』で次の記事がそれとしてのクリスマス物語がない中で一層際立ちます。「神の子イエス・キリストの福音の始め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする』。<主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ>」。他の福音書では劇的なドラマとして描かれるはずのクリスマス物語を『マルコによる福音書』では「神の子イエス・キリストの福音の始め」の一行に圧縮します。歴史的な意味でイエス・キリストが世に遣わされた時に遡るほど、非常に切迫した終末思想に触れるにいたります。
ところで洗礼者ヨハネの示す終末とは、その時代の既得権を味わっている人々を断罪するという審判の性格の強いメッセージでした。「悔い改めよ」という洗礼者ヨハネのメッセージに触れて、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、<罪>を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けます。この箇所でいう罪とは、わたしたちが概して様々な文学でいう抽象化された「因果」と重なる<罪>や<原罪>といったものではありません。<原罪>という考え方はそれとしては5世紀に始まるもので、新約聖書からすればかなり後の時代に生まれます。福音書と密に関わる『旧約聖書』では<現行罪>つまり、実際に神の誡めを破り、人や財産、いのちを心身にわたり傷つけ、その負い目に苦しんではいるけれども、そのまことの原因については聞き及ばないという場合、または病や貧困も、神の約束を破ったという実際の行いに由来するものとして理解され、人の力では計り知れない重荷として人々の心身に重くのしかかっていました。だから洗礼者ヨハネは集まってみた人々には、黙々と清めの洗礼を授ける一方、ファリサイ派やサドカイ派といった、その時代で相応の立場にある人々に対しては「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めに相応しい実を結べ」と断罪するのです。
しかし今朝の聖書の箇所に記されたイエス・キリストの終末をめぐるメッセージは、洗礼者ヨハネの教えとはその内容が異なっていることに気づかされます。それは「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と、イエス・キリスト自らもまた、終末の時がいつ訪れるのかを知らない、と語るのです。これは洗礼者ヨハネには見られないメッセージです。さらにヨハネにはないメッセージとしては「目を覚ましていなさい」「あなた方も用意しておきなさい。人の子は思いがけないときに来るからである」という目覚めのメッセージを審判に先んじて語るのであります。もっといえば注意深くありなさいとの意味も含んでいることでしょう。
思えばクリスマス物語として実に壮大なスケールで描かれる『ルカによる福音書』の場合、キリストの誕生本編に関わるお話は2章から始まりますが、まずその名前が記されるのは、住民登録の勅令を発したローマ皇帝アウグストゥスです。初代ローマ皇帝として、支配される人々やローマ市民について生殺与奪の権限を担っていたとされる人物です。そしてその次に記されるのはシリア州の総督であるキリニウスです。次いでヨセフとマリアが描かれますが、それでは第2章の物語の中でイエス・キリストの誕生が天使に告げられるのは誰でしょうか。それはこの場面では名前すら記されない羊飼いたちでありました。最も貧しい、地主に縛られた暮しを続けていた羊飼いが、真っ先に飼い葉桶のイエスのもとへと招かれます。イエス・キリストの語る、神の愛の支配の完成である終末において、この無名の羊飼いが救いから漏れるなどとは決してあり得ないと福音書は語ります。コロナ禍で先の見えない時代。不況で先の見えない時代。世の混乱の中で先の見えない時であるからこそ、羊飼い達が救いの席に真っ先に招かれたのではないでしょうか。そこにはまことの平安があります。まことの癒しがあり慰めがあります。クランツに灯されたその小さな光は、やがて始まる神の愛による大いなる支配を語ります。主の誕生の備えである待降節を深く味わいましょう。