『マタイによる福音書』26章31~35節
説教:稲山聖修牧師
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イエス・キリストの弟子たちは、飢えた虎の母子に身を献げる仏教説話の物語とは異なり、福音書の物語の中ではその頼りなさをまことにあからさまに晒しています。エジプトで先祖が奴隷の家から解放された記念である「過越の祭の食事」を囲んだ後、12人の弟子はイエスとともに「讃美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけ」ますが、その後に聞くのは「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』とあるからだ」との言葉です。物語でイエスが用いるのは『ゼカリヤ書』13章7~9節の言葉。この短い預言者の書には次のようにあります。「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ。わたしの同僚であった男に立ち向かえと、万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ」。続く言葉には、羊の群れの三分の二は死に絶え、残った三分の一は火に投じられ、金銀を精錬するように扱われ、この残った羊の群れに重ねられた人々が「わが名を呼べば」、すなわち主なる神の名を呼べばその呼びかけは聞き届けられ、人は「主こそわたしの神」と応えると記されます。ただし『新約聖書』でこの記事に重ねられた弟子の歩みはやがては死に絶えていく羊の中に置かれていくようにも読めなくはありません。『旧約聖書』ではイスラエルの民に向けられたこの言葉が、抉りこまれるようにして投げ込まれる中、その場にいる12人の弟子全てが狼狽するのであります。この狼狽の中、主の晩餐の席でイエス抹殺を謀る祭司たちへの引き渡しの予告に弟子が狼狽えた場面と同じやりとりが繰り返されます。かの食卓では「まさかわたしのことでは」とイスカリオテのユダが語ります。本日の箇所ではシモン・ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」との決意を表明します。この態度に基づくならば「まさかわたしのことでは」とおののきながら自らを指さしたであろうイスカリオテのユダよりも、ペトロの態度の方が傲慢です。なぜならば「他の仲間はみなつまずくが、わたしは決してつまずかない」という、他の弟子に少しも配慮の念のない姿勢があらわにされているからです。もっと言えば「つまずき」という出来事が他人事であり、当事者としてのおののきが一切欠けているのです。だからこそイスカリオテのユダよりも質が悪いと申しあげた次第。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。このキリストの誡めの言葉でさえペトロの強情さをより鮮やかに際立たせるだけです。「弟子たちも皆、同じように言った」とありますから、その意味では救いようのない集まりにも見えます。
やがてイエス・キリストの誡めの言葉は実現しイエス自ら捕縛されて大祭司のもとに連行されていく中、ペトロはお言葉通りの頼りなさをさらけ出してしまいます。ペトロはイエスとともに捕らえられるのが怖くなり逃げだし、大祭司の家の外で泣き出すという様です。実に無様です。無様さのどん底の中で十字架のキリストになおも背を向けて姿を隠すのもこの人たちです。何とも無責任極まりありません。
それから月日が経ちました。十字架と復活の出来事から50年を経て編まれた物語の中で、弟子とキリストとの出会いの原点はどのように描かれているというのでしょうか。ガリラヤの湖畔。一晩中働いても実りを授からず、茫然自失の漁師たちは虚ろな眼差しでただただ網のほつれや破れを繕うほかありません。湖の岸辺に響く声がします。「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。昼日中に漁をするという、漁師の常識からすれば実に荒唐無稽な言葉を投げかける人がそこには立っていました。「夜通し苦労したが収穫はなかった」というため息の中でなおも「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と、その声が示した可能性に賭ける無学な人の姿がありました。湖の真中で、この世のただ中で網を降ろしていこうとする弟子の姿があります。かくして網が破れそうになるほどの収穫を漁師は授かりました。漁師はキリスト以外の誰かに相談して網を投げたのではありません。相談しながら網を投げたのはむしろ夜の闇の中でした。漁師たちは戸惑い、時にはイエス・キリストの言葉に憤りさえ覚えながら昼日中に網を降ろしました。その収穫に驚いたのは漁師であった弟子。「主よわたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。ひれ伏すペトロの姿には、キリストに背を向けた後ろめたさと、新たに響く「沖に漕ぎ出しなさい」との言葉への従順さが同居しています。わたしたちはこの「沖へ漕ぎ出して網を降ろしなさい」との声を受けとめているでしょうか。教会も、教会に根を降ろす関連事業にも、そしてわたしたち各々の日常にもこの声は絶えず響いています。証しの多様性という豊かさには、キリストがともにおられます。主とともにあるチャレンジャーとして、恐れず網を投げていきましょう。
イエス・キリストの弟子たちは、飢えた虎の母子に身を献げる仏教説話の物語とは異なり、福音書の物語の中ではその頼りなさをまことにあからさまに晒しています。エジプトで先祖が奴隷の家から解放された記念である「過越の祭の食事」を囲んだ後、12人の弟子はイエスとともに「讃美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけ」ますが、その後に聞くのは「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』とあるからだ」との言葉です。物語でイエスが用いるのは『ゼカリヤ書』13章7~9節の言葉。この短い預言者の書には次のようにあります。「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ。わたしの同僚であった男に立ち向かえと、万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ」。続く言葉には、羊の群れの三分の二は死に絶え、残った三分の一は火に投じられ、金銀を精錬するように扱われ、この残った羊の群れに重ねられた人々が「わが名を呼べば」、すなわち主なる神の名を呼べばその呼びかけは聞き届けられ、人は「主こそわたしの神」と応えると記されます。ただし『新約聖書』でこの記事に重ねられた弟子の歩みはやがては死に絶えていく羊の中に置かれていくようにも読めなくはありません。『旧約聖書』ではイスラエルの民に向けられたこの言葉が、抉りこまれるようにして投げ込まれる中、その場にいる12人の弟子全てが狼狽するのであります。この狼狽の中、主の晩餐の席でイエス抹殺を謀る祭司たちへの引き渡しの予告に弟子が狼狽えた場面と同じやりとりが繰り返されます。かの食卓では「まさかわたしのことでは」とイスカリオテのユダが語ります。本日の箇所ではシモン・ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」との決意を表明します。この態度に基づくならば「まさかわたしのことでは」とおののきながら自らを指さしたであろうイスカリオテのユダよりも、ペトロの態度の方が傲慢です。なぜならば「他の仲間はみなつまずくが、わたしは決してつまずかない」という、他の弟子に少しも配慮の念のない姿勢があらわにされているからです。もっと言えば「つまずき」という出来事が他人事であり、当事者としてのおののきが一切欠けているのです。だからこそイスカリオテのユダよりも質が悪いと申しあげた次第。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。このキリストの誡めの言葉でさえペトロの強情さをより鮮やかに際立たせるだけです。「弟子たちも皆、同じように言った」とありますから、その意味では救いようのない集まりにも見えます。
やがてイエス・キリストの誡めの言葉は実現しイエス自ら捕縛されて大祭司のもとに連行されていく中、ペトロはお言葉通りの頼りなさをさらけ出してしまいます。ペトロはイエスとともに捕らえられるのが怖くなり逃げだし、大祭司の家の外で泣き出すという様です。実に無様です。無様さのどん底の中で十字架のキリストになおも背を向けて姿を隠すのもこの人たちです。何とも無責任極まりありません。
それから月日が経ちました。十字架と復活の出来事から50年を経て編まれた物語の中で、弟子とキリストとの出会いの原点はどのように描かれているというのでしょうか。ガリラヤの湖畔。一晩中働いても実りを授からず、茫然自失の漁師たちは虚ろな眼差しでただただ網のほつれや破れを繕うほかありません。湖の岸辺に響く声がします。「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。昼日中に漁をするという、漁師の常識からすれば実に荒唐無稽な言葉を投げかける人がそこには立っていました。「夜通し苦労したが収穫はなかった」というため息の中でなおも「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と、その声が示した可能性に賭ける無学な人の姿がありました。湖の真中で、この世のただ中で網を降ろしていこうとする弟子の姿があります。かくして網が破れそうになるほどの収穫を漁師は授かりました。漁師はキリスト以外の誰かに相談して網を投げたのではありません。相談しながら網を投げたのはむしろ夜の闇の中でした。漁師たちは戸惑い、時にはイエス・キリストの言葉に憤りさえ覚えながら昼日中に網を降ろしました。その収穫に驚いたのは漁師であった弟子。「主よわたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。ひれ伏すペトロの姿には、キリストに背を向けた後ろめたさと、新たに響く「沖に漕ぎ出しなさい」との言葉への従順さが同居しています。わたしたちはこの「沖へ漕ぎ出して網を降ろしなさい」との声を受けとめているでしょうか。教会も、教会に根を降ろす関連事業にも、そしてわたしたち各々の日常にもこの声は絶えず響いています。証しの多様性という豊かさには、キリストがともにおられます。主とともにあるチャレンジャーとして、恐れず網を投げていきましょう。