『ヨハネによる福音書』11章1~11節
説教:稲山聖修牧師
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Amazonや楽天といった流通業界の革命の中、出版業界の不況が叫ばれて久しくなりました。しかしその中で着実に売り上げを伸ばしている分野があります。ひとつにはコミック、そして小説です。貧困と格差社会の問題が深刻になるところでは小林多喜二の『蟹工船』、感染症の爆発的流行の中ではカミュの『ペスト』が青年層の中で出版部数を上げるという現象が見受けられます。そして仮に最近の10〜20代の若者の間で読まれるところの小説が実はドストエフスキーだとするなら、きっとみなさんは驚かれることでしょう。
ドストエフスキーの代表作のひとつとして知られた作品に『罪と罰』があります。主人公はかつては苦学生であり、貧しさ故に学業を続けられなくなった青年ラスコーリニコフ。「一つの小さな罪悪は百の善行により償われる」。その考えのもと彼は高利貸しの老婆を殺害し、その場に居合わせた老婆の妹のいのちまで奪うこととなり、激しい罪の意識に苛まれます。ラスコーリニコフはその殺人以外には貧困層の家族に施しをしたり、かつては火事の中からこどもを助け出していることから、小説の上では単純に悪人であるとは決めつけられない設定になっています。そのようなラスコーリニコフが出会うのがソーネチカという、酒飲みの父のせいで夜の街に立つこととなった女性。ラスコーリニコフはこの女性と知り合ううちに極めて気高い、そして毅然とした言葉をかけられます。「立ちなさい!今すぐ、これからすぐに行って身を屈め、あなたが汚した大地に口づけをするのです。あなたは大地に対しても罪を犯したのですから」。この女性がラスコーリニコフの改心にあたって読み聞かせる聖書が、本日お読みしたところに重なります。
ラスコーリニコフが犯した罪とは一体何か。もちろん老婆とその妹を殺害した罪であることは言うを待ちません。しかしその罪の源には正義は一つであるとの思いと過剰なまでの自意識があったのではないでしょうか。自分が正しという思い、あるいは自意識に囚われたままの私たちという意味では、たとえ貧困の最中にあったとしてもその罪を逃れられないという厳粛さが突き詰められるとともに、その囚われからの解放というテーマも同時に扱っているように思えてなりません。時代は帝政ロシアの末期であり、街の規模が大きくなるほど貧困層の人々が増えてまいります。その中で己の境遇に憤りを覚えたラスコーリニコフは、自分の正義の中に囚われて、遂には殺人を犯します。「自分の正義に囚われる」という意味では、わたしたちも同じまどろみの中を彷徨っているのではないでしょうか。追いつめられるほど、わたしたちは一生懸命になりますが、同時にその一方でその一生懸命さがもたらす結果だけが全てであると思いたいとの衝動に駆られることはないでしょうか。人の世では決して正義も、結果もひとつではありません。
『ヨハネによる福音書』で描かれるラザロは、この物語の中では病に罹患し瀕死の状態でした。関わる者全てがラザロの病に胸を痛めながらも諦めの中に立っていたとしてもおかしくないほど重篤でした。しかしイエス・キリストは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と開いた口が塞がらないような言葉を語るのです。「この病気は死で終わるものではない」。「病気では死なない」と言っているのではありません。重篤な病によってラザロが心ならずも生涯を終えてしまうことを見据えながら、イエス・キリストはラザロが「眠っている」と語ります。だからこそキリストは「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言うのです。「起こしに行く」と言うのです。決してラザロの家族の住まう場所は弟子を安心させるところではありませんでした。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行くというのですか」。弟子には思いもよらないイエス・キリストの勢いの理由は「マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」に尽きます。実にシンプルな理由。神の愛はときに人の目にはあまりにも愚かなまでに単純に映ります。この救い主の勢いによって、死に至ったラザロはイエスに手をとられ甦りの道へと引き出されます。
わたしたちは果たして目覚めているのでしょうか。それとも見えても見えず、聞こえても聞こえないという意味でのまどろみの中にあるのでしょうか。しかし自分の境遇を棚上げしてでもとりくまなければならない事柄、支えなければならない人がいるというのであれば、わたしたちは決して自分の想念のなかだけに落ち込んでいくことはありません。ラスコーリニコフはソーネチカの力によって罪を認めてシベリアへと流されますが、ソーネチカも彼を追って流刑地にやってきます。己の想念の中に囚われ、死に至る病に憑りつかれているわたしたちをイエスは起こしに来られます。自分を差し置いて取り組まねばならない事柄、愛すべき隣人のある人。それだけでその人は幸いです。