『ヨハネによる福音書』10章22~30節
説教:稲山聖修牧師
「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。『ヨハネによる福音書』10章7節は聖書の言葉の中でもよく知られています。ところで羊飼いと申しますと、羊の群れを導くために羊飼いは常にその先頭に立つ構図で描かれている絵画が少なくないのですが、羊飼いの働きとは実際のところどのようなものなのでしょうか。
羊飼いを英語で綴ればShepherdとなります。特定の犬種に限らず牧羊犬の場合でもこの名が用いられます。牧羊犬を用いて羊飼いが羊の群れを導く場合にどのような動きをするかと申しますと、絶えず群れの回りを走り回り、時には群れの行く手を遮りながら、羊飼いの目指すところへと導こうとするのです。
『ヨハネによる福音書』10章ではイエス・キリストは自らを羊飼いに重ねて論じるところが多いからこそ、実際の羊飼いの動きに思いを馳せてみたいのですが、時に羊飼いは、羊の群れが自ずから進もうとする行く手を阻むこともあるところには目を注がなくてはならないでしょう。羊飼いが羊の群れを阻むとき、また牧羊犬を用いて遮ろうとするとき、羊の群れと羊飼いは決して同じ方向を見てはおりません。牧羊犬は嗅覚と聴覚、羊飼いは研ぎ澄まされた視力で、羊の群れのかたちを整えてまいります。そこには絶えず群れの行く手に目を注ぎ続ける「牧歌的」という言葉からはほど遠い働きがあります。言わんや、イエス・キリストは自らを「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と仰せなのですから、イエス・キリスト御自身にしか見えない視野をわたしたちは歩むほかないわけであります。これはイエス・キリストに絶大な信頼を置くと同時に、大きな戸惑いをももたらします。イエス・キリストの導く先が分からない場合、わたしたちはおいしそうに見える足下の草に気をとられてしまうからです。
本日の聖書の箇所では、足下の草地に気をとられ、導かれる行く手を見失ってしまった人々の声がまず記されます。季節は冬。冬のエルサレムには雪も降ることもありますが、それは春が近づけばの話。からからに乾燥する中で迎える冬の寒さは身に堪えるところです。身体を刺すような空っ風の中で、描かれる人々は答えが欲しいのです。今すぐ分かる答えが欲しいのです。「良い羊飼い」に開かれている展望を尋ねようとする余り、いつのまにかそれが苛立ちと憎しみになってしまうのです。「いつまで、わたしたちに気を揉ませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」。もし羊飼いに従う羊であるならば、このような激情に駆られて羊飼いに迫るとは考えられません。人々がイエスに望むメシアとは単に願いを叶えてくれるだけの「自分に都合のよいメシア」に他なりません。人々は足下に生える草を食べさせてくれればよく、遠方を見渡しながら道を拓く必要などありません。けれども羊飼いに従わない羊たちがその所行を続けるのであれば危険を察知することも、牧草地が荒れ果ててしまうことも知らないままに捨て置かれる結果に繋がりかねないのです。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行なうわざが、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う・・・」。この言葉に激昂したユダヤ人たちはあろうことか神殿の境内でイエスの殺害を試みます。しかしイエス・キリストは彼らの手を逃れて、去って行かれたと、後の箇所には記されます。
本日わたしたちは、この箇所で捨ておかれてしまったかのように思える羊の群れに重ねられた人々の姿を思い起します。なぜイエス・キリストを殺害しようとしたのか。救い主に向けられた苛立ちと憎しみに、頑なな羊の姿が見え隠れします。しかしこの群れもまた「羊のためにいのちを捨てる良い羊飼い」の姿を十字架に仰ぐこととなります。そして復活したイエス・キリストに示された神の愛に追われて、それこそ牧羊犬に追われるかのように、足下の草むらよりももっと大切ないのちの源へと導いてくださります。よい羊飼いは羊たちの頭を強引に押さえつけ、下げさせるのではなくて、その場で羊の軛を外して顔を上げさせるのではないでしょうか。そのためにはたとえ人の設けた行く手を遮ってでも、イエス・キリストはわたしたちに道を示してくださるに違いありません。コロナ禍の中、存立の危機に直面している教会は少なくありません。だからこそわたしたちは教会のありようを公正に問うことができるのであり、それはわたしたち各々が暮らしの根をどこに降ろしているのかを確かめるわざに繋がります。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びない」。イエスの愛に追いかけられる。それは同時に、恐怖や不安、憎しみから解放されることをも意味します。聖書の言葉に尋ねながら「良い羊飼い」に従ってまいりましょう。