2020年9月11日金曜日

2020年9月13日(日) 説教メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝も行われます。)

「真理はあなたたちを自由にする」
『ヨハネによる福音書』8章31~36節
説教:稲山聖修牧師

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台風が過ぎ、風もそれほど強くは吹かないだろうとの見立ての中、敢えて雨戸を閉めずに布団に横たわります。朝日が差し込むか、それとも目覚ましのアラームが鳴るかして目覚めます。朝の光を浴びれば目覚めずにはおれません。そんな当たり前のように思える朝ですが、考えてみれば何億年もの昔から繰り返されてきたリズムでもあります。冬になれば日の出前に目覚めますが、冬は冬で明けの明星が泉北ニュータウンではひときわ明るく輝きます。これもまたわたしたちのいのちのリズムでもあります。

いのちに基づかない真理は、聖書の中では描かれません。いのちと関わりのない真理と申しますのは、わたしたちとは無縁であります。神ご自身が真理であるといったとき、わたしたちにどのように向き合っておられるのか、それがわたしたちにとって大切な真理となります。それでは「真理はあなたたちを自由にする」と言ったとき、それはわたしたちとどのように関わっているというのでしょうか。ときに真理という言葉は、わたしたちの日常では荒唐無稽であるだけでなく、暮らしの安寧を脅かしかねないものとして遠ざけられもします。旧約聖書では神の顔を直接仰いだ者や十戒を刻んだ箱に触れた者は死んでしまいます。嘘をつけない人が馬鹿をみる、まっすぐに生きようとすれば出る杭となる、あるいは相手に失礼を働いたということで絶縁されてしまう。銀行員が組織の不正を暴くドラマが盛り上がってはいるけれど、もし同じことをしてみたらその人は失職するに違いありません。お役所でも正しさを大切にする思いを重んじていれば、やがて心が蝕まれ自死に追いつめられいく。真理がそのようなものであるならば、わたしたちはむしろ嘘の世界に身を委ねていたいと思うのです。安寧を貪りたいと思うのです。その時の状況次第で勝ち馬に乗ってゆけば幸せになれるだろう、その嘘を敢えて呑み込みながら生きていくことが大人のあり方だと思っています。それが現実だと思っているのです。

けれども聖書のメッセージはそのようなありかたに「本当にそれでよいのか」と問いかけます。『マタイによる福音書』10章では「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。神の前には真理との関わりで公正さが求められます。それは杓子定規なものではなくて、互いが尊敬し合える関わりをもたらす公正さです。『ルカによる福音書』では「不正な管理人の譬え」の小見出しのもと、財産を無駄遣いしているとの告げ口を聞いて会計の報告の提出を迫る主人を前にして管理人はいつ解雇されても構わないように主人に借りのある者を一人ひとり呼んで借入の証文に手を加えます。万一失業しても自分を家に迎え入れる友人をつくるためです。「油百パトス」を「五十パトス」に、「小麦百コロス」を「八十コロス」に、という具合です。管理人の行いは杓子定規に見れば明らかに不正なのですが、借入として計上されているのが現金ではなく油であったり小麦であったりするのがポイントです。いずれも経年劣化するものであり、結果として管理人が手を入れた数値は劣化した品目として相応であるという可能性も出てまいります。減価償却という考え方はわたしたちには身近です。むしろ管理人の知恵は、主人の振る舞いとして公けにされその信頼度を高めていくところにつながります。神の真理は交わりをもたらします。恐怖や不安の軛から解放します。しかしこの発想は杓子定規な考え方にはまり込んでいる人々に理解されたでしょうか。おそらくそうではなかったからこそこのイエス・キリストによる譬えが福音書に記された可能性もあります。

「真理はあなたがたがを自由にする」。『ヨハネによる福音書』のこの言葉は「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」との『マタイによる福音書』の言葉と不可分です。わたしたちが恐れているのは何事でありましょうか。新型コロナウイルスによる感染症でしょうか。それともその感染が発症した場合に被るところの様々な中傷でしょうか。「幻なき民は滅ぶ」と旧約聖書『箴言』29章にあります。さまざまな恐れは現実としてそこかしこにあるのは周知のとおりですが、わたしたちが囚われるべきは恐れではなく、喜びと自由をもたらす神の真理です。神の真理に根ざした現実こそが、わたしたちの現実であり、移ろいゆくこの世の、一人ひとり異なる現実を教会に滑り込ませてはわたしたちは身動きがとれなくなります。それは天空のリズム、いのちのリズムから離れた枷と軛以外の何物でもないからです。泉北ニュータウン教会は何よりも神の現実に立つのであり、人の思いに囚われた虚構に立ってきたのではありません。神の公平さに堅く立って、然りには然り、否には否として向き合い、いのちを活かす道を開拓する時が、今まさに来ています。