「二人が行なう証しは真実」
『ヨハネによる福音書』8章12~20節
説教:稲山聖修牧師
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大型旅客機のパイロットの場合、操縦士・副操縦士の二人が操縦桿を握ります。長時間のフライトの場合、食事はそれぞれ別メニュー。片方が万一食中毒になっても別のパイロットが健康体で適正な判断を下すためのしくみです。一国の指導者である大統領もフライトの場合は大統領・副大統領別々の飛行機に搭乗します。航空機事故やテロも想定しての配慮だと言います。
キリスト教文化圏ではこのような発想の源を聖書に求めます。まずはイエス・キリストが宣教のために遣わす弟子が常に二名であること、その根拠は聖書を辿るならば旧約聖書『申命記』19章15節にある「いかなる犯罪者であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の立証によって、相手の不正を証言する時には、係争中である両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない」という条項です。人間は神の前には常に破れを抱えています。不完全であり、失敗を犯すリスクを抱えています。だからこそ、人生を遮る性格を伴う裁判を行なう場合には、複数の証人がいて初めて正当なものであると見なされるのです。
新約聖書の場合、イエスが二人一組で弟子に宣教のわざを託して遣わすという場面になりますと、場面は裁判の舞台である法廷で真実を解明するというよりは、イエス・キリストに従い、その教えとわざを広め、交わりを育むために求められるパートナーシップに変容してまいります。それは福音書に記される数々の癒しの奇跡物語が明らかにしているところであり、パウロもまたバルナバという仲間とともに伝道のわざに励んだのでありました。パウロとバルナバは決して「つるんでいた」のではありません。神の証しのわざを立てる必要にして充分なパートナーシップを湛えていたといえるでしょう。神の正しさとは、イエス・キリストに遣わされた交わりとして波紋のように広がっていくのであり、決して独りよがりに、そして個人が振りかざす言葉ばかりの「唯一の正義」には決して留まりません。イエス・キリストが啓示した神は、旧約聖書に記されたところの「主なる神」であります。しかし主なる神の働きかけが愛のわざとして人々に働きかけるとき、人間の側からすれば必ず多様性、つまり多様なスタイルをとる「真実」となります。なぜならばわたしたちが見て取ることのできるのは「真理の断片」に過ぎないからです。神の側からすれば正義はひとつです。しかしわたしたち破れを抱えている人間からすれば、正解は決してひとつではなく多様な姿をとります。三位一体の神という時に分かりづらく響くキリスト教の神理解も、聖書の解き明かしとしては決して疎かにはできない考え方であり、何よりも正解はひとつではないことを証ししているのではないでしょうか。
それではイエス・キリストのパートナーとは誰であったのでしょうか。これが本日の聖書箇所の肝となる問いかけです。律法学者が問うには「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない」。つまりイエス・キリストは極めて独善的な人物として映っているからして、真実ではないとの指摘にいたるのですが、イエス・キリストは答えます。「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしは一人ではなく、わたしをお遣わしになった父が共にいるからである」。福音書の物語をたどりますと、わたしたちからすればイエス・キリストは絶えず孤独の中で苦しみつつ祈りを献げていたようですが、今日の聖書の言葉では決してそうではないと語りかけています。イエス・キリストには、父なる神がともにおられる「インマヌエル」の神として描かれているのです。あくまで父なる神との関わりの中で、イエス・キリストはそのわざを成し遂げてゆかれるという救い主の歩みが記されるのです。だからこそ次の言葉が迫ってまいります。すなわち、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。なぜでしょうか。そこには必ず父なる神と御子イエス・キリストとの関わりを土台にした、隣人との交わりが備えられるからであります。その度台に根ざしてこそ、わたしたちの暮しのありよう、即ち、『ヨハネによる福音書』での「肉の欲(考え)」また「人の欲(考え)」と呼ばれる世界もまた祝福されるのです。また同時にその儚さをも神に祝福されたものとして受け入れることができるのです。人の姿しか目に入らない場合、わたしたちは隣人を傷つけ、その内面に土足で足を踏み入れていることに無自覚ですらあり得ます。しかし神と結ばれているキリストを軸とすることで、まことの善悪の分別を体得し他者を活かす知恵を備えられます。しっかりとした足取りで9月の歩みを始めましょう。