『マタイによる福音書』11章2~10節
説教:稲山聖修牧師
聖書:マタイによる福音書11章2~10節
(新約聖書19ページ)
讃美:95(1,4節), 二編119, 542.
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人の子イエスは、救い主キリストなのかどうか。イエスの故郷で、人々はあまりにもこの問いかけに無頓着でした。他方キリストは果たして人の子イエスなのかどうか。この問いを抱き続けていた人がいました。無関心と問いを抱く態度は異なります。それは他ならない洗礼者ヨハネ。ヨルダン川の川辺で集まる人々に、水による洗礼を授けていたあの人です。『ルカによる福音書』では洗礼者ヨハネの母エリザベトはマリアと親しい間柄にあると描かれ、『ヨハネによる福音書』ではイエスが近づいてこられるだけで「見よ、神の小羊」と見抜くヨハネですが『マタイによる福音書』ではかなり態度が異なっています。『ルカによる福音書』ではイエスと洗礼者ヨハネは親戚として描かれる、家庭的なぬくもりに包まれるような物語となっています。『ヨハネによる福音書』では確信に満ちた預言者として記されます。しかしながら本日の箇所で洗礼者ヨハネは、自ら告げ知らせた救い主が果たしてイエスなのかと戸惑っている様子が描かれています。人の子イエスが救い主なのかどうかは一目瞭然とはしません。隠された存在のままなのです。
しかしながら、今日の箇所で洗礼者ヨハネの置かれた場所を踏まえますと、それもまた宜なるかなとしか申せません。今や洗礼者ヨハネは自らのホームグラウンドである荒れ野にいるのではなく、牢獄に捕らえられています。救い主の訪れを告げるとともにヘロデ一族の無法を批判したこの預言者は、その存在を危ぶまれて今や囚われの身となりました。洗礼者ヨハネの牢獄、今でいう刑務所か拘置所、または収容所での暮しは、決して祈りと讃美ばかりの日々ではなかったと分かります。ヨハネに自分のなすべきことを果たしたとの確信はあったのか。それとも彼が自分の力不足を嘆き、悲しみを主なる神にぶつけていたのか、それは定かではありません。それでもヨハネは人の子イエスのわざを聞いて、弟子を遣わします。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。洗礼者ヨハネにはもはや猶予は残されていません。生涯を賭けたその働きの実りがもたらされるのか、それとも虚しく潰えていくのか。それを確かめるすべは、もはや洗礼者ヨハネには残されていません。
問いを託されたヨハネの弟子に、イエスは決して自分が救い主であるとは直ちには答えません。次のように答えるだけです。すなわち「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、耳の聞こえない人は聞こえ、重い皮膚病を患っている人は清くなり、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。イエス・キリストは出来事だけを洗礼者ヨハネの弟子に伝えます。その言葉には特別な意図もありません。目的もありません。ただ事実を述べています。その意味でいうところの証しを淡々と立てているだけです。再現不可能な出会いの中で起きた出来事を述べた後にただひと言、「わたしにつまずかない人は幸いである」。故郷ガリラヤのナザレの人々は「イエスにつまずいた」、イエスその人そのものにつまずいたとあります。同時にイエス・キリストは身柄を拘束された洗礼者ヨハネに「わたしにつまずかない者は幸いである」との言葉を託します。自分の歩んできた道はこれでよかったのかと自問する洗礼者ヨハネの姿。実はこの姿の中に、救い主を指し示しながらも万事力を尽くした中でなお沸きあがる内なる問いに向き合う飾り気のない人としての預言者の姿があります。このようなヨハネがイエス・キリストを指し示す器として描かれているところに、福音書のクリスマス物語が重なります。先日は「恐れるな」という言葉をめぐってメッセージを分かち合いましたが、アドベントの第三週である本日は、イエス・キリストの訪れに戸惑いながらも、戸惑いを隠さずにその出会いを受け入れた一人として、洗礼者ヨハネの姿をともにしたいのです。なぜならわたしたちもまた大きな戸惑いの中に、今置かれているからです。どうして待降節の中でわたしたちは感染症に振り回されなければならないのか。罹患する日々の恐怖の中で、なぜクリスマスを迎えなくてはならないのか。わたしたちの行なってきたことは間違いだったのか。
粗末な飼い葉桶に眠る救い主は、御使いに誕生を告げ知らされた人、星に導かれた人、天使ガブリエルにその宿りを告げ知らされた夫婦にも、そしてわたしたちにも語りかけます。「わたしにつまずかない人は幸いである」。主なる神は人の子イエスにつまずく者と、つまずかない者とをご存じでした。そしてイエスの弟子はつまずきのただ中で、キリストの確信にいたりました。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。「それは人間にはできることではないが、神には何でもできる」。待降節に灯された光に希望を抱ける人々は、この不安が深まるほどに、いのちの光の温かさを感じ、自問自答の中から確信を神から備えられるに違いありません。囚われの身にあってヨハネはなおも問い続けました。飼い葉桶の主の道を備えた人々の列に加えられたいと願います。