『マタイによる福音書』1章18~25節
説教:稲山聖修牧師
聖書=マタイによる福音書1章18~25節
讃美=107(1節), 109(1節), 542.
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イエス・キリストの誕生物語は、本日ともに味わう『マタイによる福音書』と『ルカによる福音書』とではその舞台設定がかなり異なっています。『ルカによる福音書』ではマリアとヨセフがベツレヘムに帰郷する旅路とその背景を、ローマ皇帝やシリア州の総督の名を挙げるまでに実に細かく描いています。他方で『マタイによる福音書』の冒頭で重んじられるのはアブラハムから人の子イエスにいたるまでの系図、そして聖霊によって身籠るマリアとヨセフの姿です。旧約聖書との関わりの中で若い婚約者のやりとりをクローズアップするだけでなく、救い主の誕生の出来事がいかに奇跡的であったかを強調します。だからこそ救い主の身籠りが華やかなファンファーレのもとに描かれるのではなく、人々に戸惑いと不安をもたらす「事件」として記されます。喜びの前奏曲として重々しい調べが響きます。なぜなら救い主の誕生の光に照らされたわたしたちの世のありのままの姿もまた描かれるからです。
例えば次の一節。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身籠っていることが明らかになった」。『マタイによる福音書』では、単にマリアが身籠った、またはマリアに子ができたとは記しません。聖霊によって身籠ったとして、神のなさる出来事がいのちに及ぶ場合の「神の神秘」または「神の秘義」を徹底的に強調します。その出来事はまず、42代にわたって記される系図にメスを入れます。わたしたちがいずこに生まれたかという正当性をめぐって系図をたどる場合、血筋という事柄が浮かびあがってまいりますが、血縁を頼ってたどれるのは、イエスの父ヨセフまでであります。マリアは聖霊によって身籠ったという一文によって、父ヨセフと飼い葉桶に安らうみどり児との「血によるつながり」が寸断されて、救い主の誕生がどれほどわたしたちの想像を絶した出来事であったのかが強調されます。それだけではありません。例えば王家の正当性に観られる由緒正しさを血筋によってはたどれなくなる代わりに、血の繋がりがあろうとなかろうと人々が背負い込まなくてはならなった神への反逆の歴史、それこそ業や因果という言葉では到底表現できない、長きに渡る歴史の闇を、キリストが一身に受けとめる歩み。この道がすでに暗示されています。
それだけではありません。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。この箇所でいう「正しさ」とは旧約聖書の誡めに適うという意味での正しさです。ヨセフの身には覚えのない妊娠。それは二人の亀裂ばかりを示すのではありません。誡めに重ねるならば、マリアは婚約の身にありながら「姦通を犯した女性」として扱われます。「表ざたにする」とは処刑の前に行なわれる晒しものとしても理解できます。モーセの十戒にまとめられる古代ユダヤ教の誡めでは姦通、すなわち不倫の罪は石打の刑でもって処刑されるという大罪です。ですからヨセフはマリアのいのちを守るために婚約を解消し、彼女を身籠らせた別の男性との結婚へと導かなくてはなりません。これはマリアにもつらく、またヨセフにもつらいはずです。けれどもヨセフに残された道はそれしかないと映りました。
しかしまんじりともしないままでいるヨセフの夢に「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。それは旧約聖書との関わりを絶つのではなく神の約束の完成です。「見よ、おとめが身籠って男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は「神がわれわれとともにおられる」という意味であると記された後に、不安に苛まれていたヨセフがその後、マリアとどのように関わっていったかが記されます。
この小さな救い主の誕生は東方から訪れる三人の博士の知るところとなり、この博士たちはローマ帝国にへつらい権力を手にしていたヘロデ王の偽りをあばき出すこととなります。ヘロデ王の支配によるところの平和。それはローマ帝国の後ろ盾に基づいた圧政のもとでの平和でした。それに無頓着なエルサレムに暮らす誰もが、救い主の誕生を喜ぶどころか、不安に包まれたというのです。力の支配が破られ、世の全てが白日の下にさらけ出されるという場合、福音書の世界ではそこには混乱が生じます。旧約聖書で人は神の顔を直に仰ぐには堪えられないと記される通りです。しかし、イエス・キリストが神とわたしたちとの間に立ち入ってくださり、直に仰ぐにはあまりにもまぶしすぎるいのちの真理の光を、自ら不条理な世の力の支配の下で傷を重ねるその傷みそのものによって、キリストは温かな光へと変えてくださいます。磨りガラスには無数の傷がありますが、その傷を通してこそ、まばゆい神の真理の輝きは、いのちを活かす温かな光へと変えられてまいります。御子イエス・キリストの誕生をこころから祝いましょう。
例えば次の一節。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身籠っていることが明らかになった」。『マタイによる福音書』では、単にマリアが身籠った、またはマリアに子ができたとは記しません。聖霊によって身籠ったとして、神のなさる出来事がいのちに及ぶ場合の「神の神秘」または「神の秘義」を徹底的に強調します。その出来事はまず、42代にわたって記される系図にメスを入れます。わたしたちがいずこに生まれたかという正当性をめぐって系図をたどる場合、血筋という事柄が浮かびあがってまいりますが、血縁を頼ってたどれるのは、イエスの父ヨセフまでであります。マリアは聖霊によって身籠ったという一文によって、父ヨセフと飼い葉桶に安らうみどり児との「血によるつながり」が寸断されて、救い主の誕生がどれほどわたしたちの想像を絶した出来事であったのかが強調されます。それだけではありません。例えば王家の正当性に観られる由緒正しさを血筋によってはたどれなくなる代わりに、血の繋がりがあろうとなかろうと人々が背負い込まなくてはならなった神への反逆の歴史、それこそ業や因果という言葉では到底表現できない、長きに渡る歴史の闇を、キリストが一身に受けとめる歩み。この道がすでに暗示されています。
それだけではありません。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。この箇所でいう「正しさ」とは旧約聖書の誡めに適うという意味での正しさです。ヨセフの身には覚えのない妊娠。それは二人の亀裂ばかりを示すのではありません。誡めに重ねるならば、マリアは婚約の身にありながら「姦通を犯した女性」として扱われます。「表ざたにする」とは処刑の前に行なわれる晒しものとしても理解できます。モーセの十戒にまとめられる古代ユダヤ教の誡めでは姦通、すなわち不倫の罪は石打の刑でもって処刑されるという大罪です。ですからヨセフはマリアのいのちを守るために婚約を解消し、彼女を身籠らせた別の男性との結婚へと導かなくてはなりません。これはマリアにもつらく、またヨセフにもつらいはずです。けれどもヨセフに残された道はそれしかないと映りました。
しかしまんじりともしないままでいるヨセフの夢に「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。それは旧約聖書との関わりを絶つのではなく神の約束の完成です。「見よ、おとめが身籠って男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は「神がわれわれとともにおられる」という意味であると記された後に、不安に苛まれていたヨセフがその後、マリアとどのように関わっていったかが記されます。
この小さな救い主の誕生は東方から訪れる三人の博士の知るところとなり、この博士たちはローマ帝国にへつらい権力を手にしていたヘロデ王の偽りをあばき出すこととなります。ヘロデ王の支配によるところの平和。それはローマ帝国の後ろ盾に基づいた圧政のもとでの平和でした。それに無頓着なエルサレムに暮らす誰もが、救い主の誕生を喜ぶどころか、不安に包まれたというのです。力の支配が破られ、世の全てが白日の下にさらけ出されるという場合、福音書の世界ではそこには混乱が生じます。旧約聖書で人は神の顔を直に仰ぐには堪えられないと記される通りです。しかし、イエス・キリストが神とわたしたちとの間に立ち入ってくださり、直に仰ぐにはあまりにもまぶしすぎるいのちの真理の光を、自ら不条理な世の力の支配の下で傷を重ねるその傷みそのものによって、キリストは温かな光へと変えてくださいます。磨りガラスには無数の傷がありますが、その傷を通してこそ、まばゆい神の真理の輝きは、いのちを活かす温かな光へと変えられてまいります。御子イエス・キリストの誕生をこころから祝いましょう。