『マタイによる福音書』2章1~12節
説教:稲山聖修牧師
聖書=マタイによる福音書2章1~12節
讃美=106(1節), 118(1節), 542.
聖書=マタイによる福音書2章1~12節
讃美=106(1節), 118(1節), 542.
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12月21日(月)の日没後、木星と土星が397年ぶりに接近するという天体現象がありました。コロナ禍の重苦しさに疲れがちであった日常から空を仰ぎ、または中継される望遠鏡の動画を観ながら、しばし肩の荷を降ろすような気持ちを味わいました。もちろん夜空の星々がどのように科学的な仕組みの中で動いていたのかを知る人は聖書の中には登場いたしません。聖書で描かれる世界では地球を見下ろす視点ではなく、天動説に基づいてお椀のような夜空を星々が動く理解に立っていました。
しかしだからといって、そのような理解が天地を創造された神への信頼を損なうことはありませんでした。むしろ古代のユダヤ教には属さない人々、すなわち異邦人にも星の動きを通して新しい王の誕生がほのめかされます。三人の博士は異邦人であり、エルサレムの王に拝謁して問うには「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです」。世の力の束縛から解き放たれて星の示すところを、長い年月をかけて歩んできた三人の博士とは対照的な王の姿があります。ヘロデ王。その名は福音書で描かれるイエス・キリストの生涯や教会のあゆみにつかず離れずつきまとう、わたしたちが無視できないところの人の姿や態度を示しています。
福音書に登場するヘロデの系譜はクリスマス物語に記されるヘロデ王に次いで、2章22節に記される息子ヘロデ・アルケラオスを記します。またその弟であるヘロデ・アンティパスは14章に記され、洗礼者ヨハネの処刑に関わっています。さらにクリスマス物語のヘロデ王の孫の世代にあたり『使徒言行録』12章で「ヨハネの兄弟ヤコブ」を処刑し、その後にペトロを捕らえ監禁するヘロデ・アグリッパⅠ世、『使徒言行録』25章ではアグリッパの息子であり、使徒パウロの弁明に耳を傾けながらその行く末を案じるようでもあるヘロデ・アグリッパⅡ世と、実に四代に渡って記されます。三人の博士は、救い主とそのわざに従う初代教会のわざにつきまとう闇の一族のルーツと出会うのですが、博士は星の輝きを見つめながらヘロデ王の力の虚構を見破ります。「まことのユダヤ人の王としてお生まれになった方の星」との関わり、つまり垂直の関係の中で、目の前の王が、ローマ帝国という後ろ盾なしには立ち得ない脆さに脅えていると見抜きます。三人の博士にはヘロデ王への恐怖は微塵もありません。むしろ不安に包まれ慌てふためくのは、世の権力とは無縁な博士ではなく王のほうです。ヘロデ王の権力は、一重にこの不安を覆い隠すために用いられます。少なくとも福音書には、王がその力を公共のために用いている姿は描かれません。息子の代も孫の代も、その振る舞いは何ら変わらず引き継がれていきます。ヘロデ王は三人の博士の指摘を覆そうとしたのでしょうか、民の祭司長や律法学者を全て集めて調べさせますが、その指摘は不安を消すどころか却ってメシアの誕生の信憑性を裏づけます。「ユダの地、ベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さい者ではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである』」。ヘロデ王は表向きはユダヤの王でありながらも、この記事を知りませんでした。観念したヘロデ王が打つ次の手は、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の幼児の虐殺です。暴君と化した王の剣から逃れるために三人の博士は決して同じ土俵には立ちません。三人はひたすら星の示すところへ進み、飼い葉桶に安らう救い主とまみえ、宝の箱から黄金・没薬・乳香を取り出して献げます。博士の眼差しは決して揺らがず、イエス・キリストを讃える礼拝へと向かいます。それは博士たちの祈りでもありました。剣に頼るヘロデ王からは遠く響くメッセージの中で、各々の国にいたる帰り道も新たに開拓しながら進んでいったのでした。困難で狭い道。しかしいのちの光にあふれた道。
社会情勢が不透明になる中で教会のありようもまた深く問われているようでもあります。わたしたちのすぐそばにはヘロデ王とその末裔に表される、神とは遠く離れたところにある、神との絆なしに力を振るう者の無言の圧力があるかもしれません。それはフレーズとしては実に分かりやすく、大勢の人々が讃える安楽な道かもしれません。しかしそれは滅びにいたる広い門であり、深淵が口を開けて待ち受けているかもしれません。その一方で一見すると、実利には繋がらず無用・非効率に思えながらも、わたしたちを確実に導くいのちの光があります。何のためにわたしたちの特性や賜物は用いられるのでしょうか。それは嬰児虐殺という、未来を奪う惨たらしい人の現実の一面を決して忘れずに、そのような残虐さや悲しみの声を一身に受けとめる、十字架へと赴く救い主に献げるためです。激動の2020年を全うして新たな年に向かう時、博士のあゆみに祈りつつキリストに従う者の姿を重ねてまいりましょう。
12月21日(月)の日没後、木星と土星が397年ぶりに接近するという天体現象がありました。コロナ禍の重苦しさに疲れがちであった日常から空を仰ぎ、または中継される望遠鏡の動画を観ながら、しばし肩の荷を降ろすような気持ちを味わいました。もちろん夜空の星々がどのように科学的な仕組みの中で動いていたのかを知る人は聖書の中には登場いたしません。聖書で描かれる世界では地球を見下ろす視点ではなく、天動説に基づいてお椀のような夜空を星々が動く理解に立っていました。
しかしだからといって、そのような理解が天地を創造された神への信頼を損なうことはありませんでした。むしろ古代のユダヤ教には属さない人々、すなわち異邦人にも星の動きを通して新しい王の誕生がほのめかされます。三人の博士は異邦人であり、エルサレムの王に拝謁して問うには「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです」。世の力の束縛から解き放たれて星の示すところを、長い年月をかけて歩んできた三人の博士とは対照的な王の姿があります。ヘロデ王。その名は福音書で描かれるイエス・キリストの生涯や教会のあゆみにつかず離れずつきまとう、わたしたちが無視できないところの人の姿や態度を示しています。
福音書に登場するヘロデの系譜はクリスマス物語に記されるヘロデ王に次いで、2章22節に記される息子ヘロデ・アルケラオスを記します。またその弟であるヘロデ・アンティパスは14章に記され、洗礼者ヨハネの処刑に関わっています。さらにクリスマス物語のヘロデ王の孫の世代にあたり『使徒言行録』12章で「ヨハネの兄弟ヤコブ」を処刑し、その後にペトロを捕らえ監禁するヘロデ・アグリッパⅠ世、『使徒言行録』25章ではアグリッパの息子であり、使徒パウロの弁明に耳を傾けながらその行く末を案じるようでもあるヘロデ・アグリッパⅡ世と、実に四代に渡って記されます。三人の博士は、救い主とそのわざに従う初代教会のわざにつきまとう闇の一族のルーツと出会うのですが、博士は星の輝きを見つめながらヘロデ王の力の虚構を見破ります。「まことのユダヤ人の王としてお生まれになった方の星」との関わり、つまり垂直の関係の中で、目の前の王が、ローマ帝国という後ろ盾なしには立ち得ない脆さに脅えていると見抜きます。三人の博士にはヘロデ王への恐怖は微塵もありません。むしろ不安に包まれ慌てふためくのは、世の権力とは無縁な博士ではなく王のほうです。ヘロデ王の権力は、一重にこの不安を覆い隠すために用いられます。少なくとも福音書には、王がその力を公共のために用いている姿は描かれません。息子の代も孫の代も、その振る舞いは何ら変わらず引き継がれていきます。ヘロデ王は三人の博士の指摘を覆そうとしたのでしょうか、民の祭司長や律法学者を全て集めて調べさせますが、その指摘は不安を消すどころか却ってメシアの誕生の信憑性を裏づけます。「ユダの地、ベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さい者ではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである』」。ヘロデ王は表向きはユダヤの王でありながらも、この記事を知りませんでした。観念したヘロデ王が打つ次の手は、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の幼児の虐殺です。暴君と化した王の剣から逃れるために三人の博士は決して同じ土俵には立ちません。三人はひたすら星の示すところへ進み、飼い葉桶に安らう救い主とまみえ、宝の箱から黄金・没薬・乳香を取り出して献げます。博士の眼差しは決して揺らがず、イエス・キリストを讃える礼拝へと向かいます。それは博士たちの祈りでもありました。剣に頼るヘロデ王からは遠く響くメッセージの中で、各々の国にいたる帰り道も新たに開拓しながら進んでいったのでした。困難で狭い道。しかしいのちの光にあふれた道。
社会情勢が不透明になる中で教会のありようもまた深く問われているようでもあります。わたしたちのすぐそばにはヘロデ王とその末裔に表される、神とは遠く離れたところにある、神との絆なしに力を振るう者の無言の圧力があるかもしれません。それはフレーズとしては実に分かりやすく、大勢の人々が讃える安楽な道かもしれません。しかしそれは滅びにいたる広い門であり、深淵が口を開けて待ち受けているかもしれません。その一方で一見すると、実利には繋がらず無用・非効率に思えながらも、わたしたちを確実に導くいのちの光があります。何のためにわたしたちの特性や賜物は用いられるのでしょうか。それは嬰児虐殺という、未来を奪う惨たらしい人の現実の一面を決して忘れずに、そのような残虐さや悲しみの声を一身に受けとめる、十字架へと赴く救い主に献げるためです。激動の2020年を全うして新たな年に向かう時、博士のあゆみに祈りつつキリストに従う者の姿を重ねてまいりましょう。