2020年7月31日金曜日

2020年8月2日(日) 礼拝メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝も行われます。)

「神の平和の実現」
『ヨハネによる福音書』6章24~27節
説教:稲山聖修牧師
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新型コロナウイルスが原因となり、社会のあちこちで想像しなかった変化が生じていることに、わたしたちは無関心ではおれない日々が続いています。可能な限り感染機会を避けるためにリモートワークがあちこちで奨励され、スマートフォンやタブレットパソコンがより身近な家電になっています。時差出勤が勧められた結果、ラッシュアワーも時間としては長続きしなくなりました。大学では対面授業よりもオンライン講義が主流となり、動画と資料を作成しては大学のパソコン上の窓口に張りつけるという作業が夏休みまで続きました。一度も担当学生の顔を見ないままで果たして講義と呼べるのかとの疑問を抱えながらも、多くの支えと励ましの中で乗りきることができました。
けれどもどうしても対面式でなければできない仕事もあります。医療や福祉が筆頭にあげられるでしょうし、教育でもあくまで当座をしのぐ手段としてリモートワークが勧められるのであって、それで万事問題なしというわけにはまいりません。あくまでも柔軟な対応が求められます。一度決めたからといって絶対に変更ができないというありかたは、状況が二転三転する現状には相応しくありません。なぜなら「一度決めたから二度と変更ができないという硬直したありかた」がもたらす悲惨な結果をわたしたちは75年前に見せつけられているからであります。
アジア・太平洋戦争に従軍した親族の一人に、わたしの場合は母方の祖母の弟、すなわち大叔父にあたる人物がおります。学徒出陣で出征するにいたったその人は戦争中・敗戦直後には秘匿されていたのですが、復員した仲間の報せによって、現在のミャンマーで「中国を支援するイギリス軍を撃退する」とのインパール作戦に従軍、戦死したと分かりました。インパール作戦は2000メートル級の険しい山岳地帯を重火器を抱えたまま登り降りして大河を渡り、食糧は重火器の運搬に用いた家畜とするという杜撰な内容でした。日本軍の補給線は伸びきり、弾薬も食糧も届きません。要するに作戦は初めから破綻していたのですが、将官クラスの軍人を大本営構成員の門閥で固めたため、誰も問題点を指摘せず、作戦中止を進言する者もいません。天皇の前で責任が問われるからです。下級将校や下士官・兵は満足な飲み水さえも与えられない中で飢えと悪疫で斃れていきます。雨期を迎えたジャングルの水には様々な雑菌に汚染されているからです。将官クラスの軍人は部下を見棄て状況視察の名の下に戦線を離脱します「一度決めたので絶対に変更は不可能な命令」。その中で大叔父も落命していったと思うと悔しくて仕方ありません。
祖母の話によれば、無教会主義の集会との関わりで大叔父は聖書をよく読んでいたと申します。カファルナウムという当時のユダヤの民からすれば異邦人の土地で、わたしたちと同じように日々の暮しに振り回されがちな名もない群衆に「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べものである」との箇所の意味を問われたことがあったとはっきり記憶していました。補給線の絶たれた敗残兵の中には戦場から落伍してその土地の人々のもとに落ちのび、助けてもらったお礼にその土地に住みついて、復員を諦める代わりにそこで家庭をもち、一生をかけて村への恩返しに尽くした未帰還兵が近年まで存命され、苦労されながらも家族に恵まれて生涯を全うしたとの話も少なからず聞きます。極限の中で生きる喜びに目覚めて余命を繋いだ人々もいたという話に大叔父の姿を重ねました。いのちは補充の効くものではありませんし、逝去された方々をも主なる神は決して忘れません。教会はそのような惨い歴史を聖書に重ねて受け入れながら、いのちの事柄に深く関わりをもつ交わりを育んでまいります。前線にいたるまでのその道は、戦死者や餓死者の骨で溢れ、白骨街道と呼ばれていましたが、そのような死の谷にうち捨てられた亡骸に神の霊が注がれるとき、それらの人々は復活するとの物語がすでに旧約聖書の『エゼキエル書』には記されています。雨期の長雨と高い湿度の中で軍刀や銃の部品が錆びていく中で、兵士が最後まで手放さなかったのは飯盒であったと申します。今の世にあってもひもじさを抱えているご家族のあることを一層身に詰まされている中で、絶えず移り変わる世のあり方に柔軟に応えていくことこそが、イエス・キリストの愛の力によって視野を広げられたわたしたちに求められているのではないでしょうか。責任を問われることを恐れて何もしなかったり、批判に耳を塞いで頑なになるよりも、飢えに苦しむ人が憧れた、豊かに実った麦や稲穂のように、神の前に頭を垂れつつ、今迎えている各々の困難な状況、涙とともに吠えるしかない事情に向けて柔軟に対応することこそ、世の全ての命令に先んじるイエス・キリストの約束です。それは復活の光に照らされた喜びの約束であり、永遠の命にいたる糧の約束であり、次の戦に怯えることのない、シャロームに包まれた平安なのです。風聞に惑わされず、国を超えた交わりと連帯の中で神の平和を証ししましょう。