2020年7月17日金曜日

2020年7月19日(日) 礼拝メッセージ(自宅、在宅礼拝用です。当日礼拝堂での礼拝もございます。)

「選ばれた<棄てられた者>」
『ヨハネによる福音書』5章24~30節 
説教:稲山聖修牧師

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 教会がキリストの枝として、そしてともに仕えあう交わりとして礼拝を献げる。単に世にある者の集まりに留まるのではなく、天に召された兄弟姉妹、すなわち神の家族とも仲間とも呼ぶべき方々ともともに礼拝を献げるという理解に立ちますと、イエス・キリストの十字架での死を見つめるわざを避けて通ることはできません。十字架での死。これは同時にわたしたち自らの身体も生涯を全うした際には世にある役目を終えることをも意味しています。先月・今月と教会員・教会員のご家族の訃報が相次ぎましたが、それはわたしたちの生涯に等しく向けられた厳粛な事実であり問いでもあります。ある自治体の斎場では、職員が棺を搬入し釜の扉を閉めますと、家族・近親者に点火ボタンを押すようにと勧められるところがあり、突然の申し出にご遺族が困惑する場面に居合わせました。ご心痛いかばかりかという思いに駆られ、自分がそのボタンを押す役目を申し出て「みなさんいいですか、聖書では肉体はサルクスと申します。これはやがて朽ちていく身体を指しています。けれども、この方が生きておられた、存在されていたという事実は、神がおられる限り決して忘れられることはありません」と語り、指に力を込めました。心に重い塊を抱えて帰宅したのですが、それでもなお、わたしたちもまた復活に定められているとの確信、そして神の愛が世界全体をつつむときにはキリストのみならず、逝去されたあの人この人も、新たにされた姿で再会するとの終末の約束が聖書には記されます。その時に肉体の死が決して生涯の終わりではないと深い確信とともに頷くのです。
 けれども同時にわたしたちは、肉体の死とは異なった、神に棄てられるという意味での滅びを知っています。十二弟子の一人にイスカリオテのユダという人物がいます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている」と𠮟られたシモン・ペトロと同じく、イスカリオテのユダには悪魔が入ったという書き手の言葉が『ヨハネによる福音書』では度々記され、イエスにナルドの香油を注ぐ女性に「その香油を300デナリオン」、すなわち銀貨300枚で売ればよいのにと咎め立てをしながらも、他方で『マタイによる福音書』では銀貨30枚、すなわち香油の十分の一の価格でイエス・キリストを、敵愾心に満ちた祭司長の下役に引き渡すというわざに及んでいます。ユダはイエスに接吻をして挨拶をするというまことに近い距離におりながらも「裏切者」という好ましくないラベルを貼られて今日にいたっています。しかしながら『マタイによる福音書』でイスカリオテのユダが30枚の銀貨を祭司長に返そうとしながら「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」とイエス・キリストが正しい人であったことを証言したその言葉は、『ルカによる福音書』では十字架に架けられたイエス・キリストの傍らで「この人は何も悪いことをしていない」と語るところの、同じく十字架での死を迎えようとしている死刑囚の言葉に重ねられるとの指摘があります。この十字架で交わす死刑囚との交わりが教会の本来の姿だと指摘する人もいます。それでは、イスカリオテのユダは孤独の中で絶命すべきであったと、わたしたちは今なお是が非でも言わねばならないのでしょうか。
 イスカリオテのユダが神に救われたのかどうか。それはわたしたち一人ひとりもまた、自らが救われているのかどうかを究極的には神に委ねなければならず、自分の考えを超えては断定できないところにも重なります。もちろん、文学や藝術でのイメージにも拘わらず、イスカリオテのユダが十二弟子の一人としてイエスとともにいたのは確かです。「裏切る」と言い表された言葉は実は「引き渡す」という意味をもっています。それは使徒パウロがイエスと出会う前にキリスト教徒をエルサレムに「連行」したとの言葉にも重ねられ、そして遂にはパウロ自らの手紙で用いる「言い伝える」との言葉にも重なるところを考えますと、イスカリオテのユダも神に用いられたと頷くほかありません。
それではわたしたちは何を言い伝えるのでしょうか。それは死に対して勝利されたイエス・キリストです。そしてそれは多様でかつささやかな暮しを通して伝えられます。誰が救われるのかと問われるとき、わたしたちは「わが神わが神、なぜわれを見捨て給いし」との十字架のイエスの叫びを聴きます。イエス・キリストは神に棄てられた者と歩みをともにされました。今朝の箇所では「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である」とイエス・キリストは安息日の癒しのわざを咎める人々に語りました。新型コロナウイルスの報せに狼狽えては思い悩む、破れに満ちたわたしたちではありますが、同時にこの病が世の権力を脅かしているとの事態に思いを馳せますと、暫く延期している聖餐式を重ねる主の晩餐の席に、世の力に弄ばれたように見えるユダも招かれていたとの聖書の記事を思い出します。神に棄てられた者の叫びをともにしたイエス・キリストは、神を見失いかけているわたしたちの痛みも、ともにしています。世にあるわたしたちは、すでにいのちの主であるキリストに「引き渡されて」いるのです。