2020年7月24日金曜日

2020年7月26日(日) 礼拝メッセージ(自宅・在宅礼拝用です。当日、礼拝堂での礼拝もございます。)

「荒波を踏み越えるキリスト」
『ヨハネによる福音書』6章16~21節 
説教:稲山聖修牧師

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朝令暮改という言葉は、イエス・キリストが世に遣わされる180年から150年ほど前、農民の労働に苦しむ中、さらに命令が一定せず振り回される様子を訴えた古代中国の故事に源をもつとされます。今もわたしたちは二転三転する行政の指針を受けては不安の渦の中で科学的には全く根拠のない偏見や思い込みを被り消耗しているようです。豪雨の中で水害や土砂災害だけでなく衛生面での問題を乗りこえられず廃業に追い込まれた店舗や会社もまた数知れません。新型コロナウィルス感染症の行方は2011年に起きた震災と同じように状況が見極められないままでいます。嵐の中におかれた舟は雨雲が過ぎるのを何の希望もなくただ待つほかにないというのでしょうか。
 本日の聖書の箇所はイエス・キリストが湖を歩くという字義通りにとれば荒唐無稽でありながら、しかし丹念に辿ってまいりますと決して侮れないメッセージを聴きとれる箇所です。イエス・キリストが湖の上を歩くという話。これはCGなどで画像を描くほど聖書が言わんとするところから遠ざかってしまうところでもあり、またそれは浅瀬を歩いてきたというような尤もらしい説明でも同じような混乱を招く箇所でもあります。ただ実に興味深いのは、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事からおよそ40年を経て成立した『マルコによる福音書』、旧約聖書に記された預言の成就を描くためにその10年後に成立した『マタイによる福音書』、さらにその10年後に他の福音書を踏まえながらも、ギリシア語文化圏としてのローマ帝国による支配領域を視野に収めてイエス・キリストの救いの出来事をより巧みな表現でもって描いた『ヨハネによる福音書』という、それぞれ異なる課題に向き合っていたはずの異なる状況の教会で、一定の編集が行なわれながら一貫して掲載されてきた理由には、教会が決して疎かにできないメッセージが隠されているからに他ならないでしょう。三つの福音書に共通するのは、イエス・キリストが5,000人の群衆にパンと魚を分けあった物語の後であるというところ、そしてパンと魚を分けあった物語が大勢の群衆が登場する物語であるのに対して、イエス・キリストが湖の上を歩いたという物語では群衆は一旦舞台から退き、十二弟子との関わりの中で編まれているという点です。つまりイエスとその弟子、そこにはシモン・ペトロもイスカリオテのユダも含めて、キリストとの実に近い関係者を踏まえた上での話となっているのです。概して大勢の人々を喜びで満たした後には、言い尽くしがたいほどの充実感や喜びが余韻となって残るのが人間というものでありますが、イエス・キリストは自らの弟子がその余韻に浸る暇を与えません。事件は同じ日の夕方に起きます。当時の一日は日の出から日没までであり、夜は人間が本来活動する時間ではありません。それは闇の時間です。その闇の中で弟子はイエスのいないまま舟に乗り込むや否や「強い風が吹いて、湖は荒れ始めた」というのです。実際にガリラヤ湖で季節風が吹くときには小さなボートなど転覆するような勢いの波が舟を襲います。これがあらかじめ予測できていたならば、漁師を生業にしていた弟子もいますから舟を漕ぎ出しはしなかったはずですが後悔先に立たず。30スタディオンは概ね5,5キロメートル。今さら後戻りはできません。その中でイエス・キリストは荒波をものともせずに舟に近づいてまいります。
湖畔に暮らす人々には湖とは暮しとは切り離せない場所でした。しかし波に溺れてしまえば自力では決して助かる見込はないことも知っています。人々は荒れ狂う湖に世を重ね、舟をノアの箱舟の物語になぞらえて救いの場として教会を描きました。しかし今朝の物語に則するならば簡単にはこの世の波風は決して治まりません。その点では決して楽観的ではありません。福音書が記される途半ばの教会の礼拝はカタコーム、すなわち地下にある墓地を用いて行なわれていました。なぜならローマ帝国は公認しない結社を決して放置しなかったからです。しかしそのような世にあって、イエス・キリストは教会を世の深みの中に沈むままには決してされません。弟子一人ひとりは5,000人の群衆を五つのパンと二匹の魚で満たした、今日でいう「成功体験」からも自由にされて、目指す地に着いたのです。
世の嵐にあるとき、わたしたちは過去の成功体験にがんじがらめにされ、却って身動きがとれなくなる場合があります。思いますに、もしあの成功体験に囚われていたならば、弟子たちはイエス・キリストとの関わりを果たして保ち得たのでしょうか。「わたしに向かって『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行なう者だけが入るのである」(マタイ7章21節)。荒波のただ中で、イエス・キリストはわたしたちに迫ってまいります。闇の中にいてもなお、わたしたちが平安であるようにともにいて、行く手を示すためにであります。闇の中で輝く光を放つ御言葉を、何度も繰り返し味わいつつ、キリストが示す新たな道を求めていきましょう。