「時が来て癒される家族のつながり」
『ヨハネによる福音書』7章1~9節
説教:稲山聖修牧師
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小学校4年生ごろのお話です。午後4時ぐらいになるとふらっとわが家にやってくる男の子がいました。何をするというわけでもなく、例えばその時間のあたりになると放送が始まるこども向けのテレビ番組を一緒に観た後、日によっては一緒にライスカレーを囲む。時にはおうちでお母さんが心配しているでしょ、大丈夫なのと母は言うものの、二日後にまた来る。同じように時間を過ごし、少し多めに作り大皿に盛ったコロッケを一緒に食べる。そんなことが三か月ほど続いた後ピタッとその男の子はこなくなりました。なぜ三か月という時間が思い出せるかというと、一緒に観ていたテレビ番組の四分の一、ワンクールを終えたことが後から分かったからであります。どちらかといえばマラソン選手のような体格でいつも似たようなTシャツを着ていました。暑いときに玄関から上がった時には母親が自宅で風呂に入れて服を洗濯することもあったようでした。突如として来なくなったその男の子。仮にY君くんとしておきましょう。どうして来なくなったのと母に尋ねたところ「昔はよくああいう子がいたの。あんたらはご飯を食べるときにはちゃんと手を合わせるんだよ」とこども心にはわかりづらいことを語気を強めて言うのでまた叱られたかと思い、箸を止めてしまったのを覚えています。1942(昭和17)年生まれの母には見えたはずです。親御さんからは何の挨拶もなかったそのYくんは多分、家に誰もいない鍵っ子であったか、家にいるのがつらくて仕方がなかったか、何か理由があったのではないか。今でいう児童養護施設の代わりに孤児院という言葉のあった時代でした。
新型コロナウイルス感染症拡大対策で盛んに「ステイホーム」が叫ばれましたが、家にいるのがつらかったり、何らかの事情から自宅以外の場所で安心できたはずのこどもが暴力に遭ったという話は、PCR検査陽性者数以上にはメディアでは報道されません。親子と申しましてもあり方はばらばらです。殺人・傷害事件の最大の可能性は親子や係累関係にあるとの数値もあり、血のつながりがあるからといって家族が幸せであるかどうかは別の話になります。
そういたしますと『創世記』にあるカインとアベルの物語は何らかの比喩的な表現でもありながら現代でも俄然現実味を帯びてきます。また「族長物語」で兄エサウが弟ヤコブに抱いた憎悪、ヨセフに兄弟が抱いた殺意、『サムエル記』でダビデの娘・息子たちの間に起きた諍いの物語は地面から現れわたしたちの足首を握って放そうとはいたしません。『ヨハネによる福音書』にあります今朝の物語にいたしましても事情は変わりません。故郷にいながら「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしているわざを弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」。殺意と憎悪が渦巻くエルサレムへと、なぜ兄弟たちはイエス・キリストを追い出そうとするのでしょうか。しかしその圧力にも拘わらずイエス・キリストは答えます。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行なっているわざは悪いと証しているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである」。『ヨハネによる福音書』ではこのように記した後、「こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた」と一旦筆を置きます。他の福音書でも故郷でナザレでのイエス・キリストへの無理解が描かれておりますが、今朝の箇所ではさらに一歩踏みこんで、兄弟たちが実に邪険にイエス・キリストを扱っているようです。そこには血のつながりはありながらも「世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる」という、神との関わり方に基づく世の態度の違いが鮮やかに描かれています。血のつながりもある家族もまたイエス・キリストには世に属する、救い主を受け入れようとはしない群れとなり得ます。けれどもイエス・キリストはそのような、針の筵になっているはずの故郷ガリラヤに「まだ、わたしの時は来ていないから」と言って留まり続けます。忍耐を続けます。それは来るべき時、すなわち民衆にとどまらずご自分に関わる全ての眼差しを自分の欲得にではなく、また名誉欲にでもなく、丘の上に立つ十字架に転じさせ、神の救いにいたる道へと向けさせるためであり、罪という名の洞穴に閉じ籠り、本来は支え養うべきいのちを傷つけ、神の恵みを前にしてなおも抵抗する人々に「戦いは終わった。神の愛にすべてを委ねて出てくるように」との講和条約を結ばせるためであります。昨日はポツダム宣言受諾の日でありましたが、その後も南の島に立て籠って戦う将兵もいました。大陸では引揚の際、足手まといになるという意味だけでなく生き延びる可能性を少しでも広げるために残留孤児となったこどもがいました。救い主の言動に無理解であったイエスの兄弟ヤコブは、後に初代教会のわざに殉じました。傷を負った全ての家族に神の平安と癒しを乞い願います。