説教:稲山聖修牧師
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旧約聖書『民数記』21章には、祭司アロンの死後も相変わらず不平を呟く、エジプト脱出の旅の途上のイスラエルの民の姿が描かれます。「なぜ、われわれをエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では気力も失せてしまいます」。その呟きに対して奴隷解放の神は炎の蛇を送り、イスラエルの民の中からは多くの死者が生じます。恐怖のあまり人々はモーセに助けを求めます。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください」。モーセが民のために主に祈ると、主はモーセに「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見あげれば、命を得る」と答えます。モーセは青銅で蛇を造り、旗竿の先に掲げます。炎の蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと命を得た、と記されています。いのちの旗印がそこにはありました。
『出エジプト記』から『申命記』にいたるまで、旧約聖書ではエジプトで奴隷となっていた人々を解放するようにとの、神からの命令に応じたモーセの物語が記されています。その中でも蛇は独特の意味合いを帯びてまいります。創世記ではアダムの伴侶を誘惑したところの、かの生き物が、エジプト脱出の物語ではいのちに関わる知恵と権威を現わす象徴として用いられます。新型コロナウイルス関連の報道で知られるようになった世界保健機構(WHO)も杖と蛇をシンボルとして用いています。古代ギリシアの文化圏ではアスクレピオスの杖として、医学の象徴にさえなります。人を活かしもし、また倒しもする力の象徴として用いられていることとなります。
本日の聖書の箇所では夜半の訪問者ニコデモとイエス・キリストとの対話が描かれます。ユダヤ教の律法学者の中にはこのようにイエスにただならない関心をいだきながら、好意的に対話を重ねた者もいたと『ヨハネによる福音書』は書き記します。けれどもイエスの言葉はニコデモの理解を超えていました。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモはただの人ではありません。幼いころから聖書とともに暮らし、日々研鑽を重ねてきた古代ユダヤ教のファリサイ派の律法学者です。旧約聖書の預言者たちも神の国を待ち望んでいたのにも拘らず「神の国を仰ぐ」ために「新たに生まれる」という出来事は彼には隠されたままです。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことも分からないのか」とのイエスの言葉にそれは示されていますが、それではわたしたちはキリストの「新たに生まれる」との言葉に敏感でしょうか。
人はよく出会いという言葉を口にします。けれどもわたしたちが安心できるのは予定されているところの出会いであって、スケジュールにない出会いはなるべくなら避けようとします。おそらくはニコデモもそのような出会いの中でこれまで生きてきたのではないでしょうか。しかしそのゆえに、本来ならば人々に聖書を伝えるはずのニコデモでさえ、神の国を仰ぐ道につながる出会いを避け続けてきたように思います。いわんやわたしたちにおいてをやであります。電車の中でびっしりと予定の記された手帳にうっとりしている会社員の姿に異様さを記録したアメリカ人のジャーナリストがおりましたが、全てが自分の思う通りに運ぶというところでの平穏さに甘んじておりますと、わたしたちは神の国、つまり神の愛による支配をわがこととしては受け入れられないようです。
ニコデモとイエスを結んだ青銅の蛇の物語は、イスラエルの民にとっての予定調和、約束の地を目指す旅は平穏に満ちたものという予想を覆すものでした。イスラエルの民は絶えず自らの立てた予想を覆されることによってのみ、神に助けを求めて祈りを献げることができたともいえるでしょう。『民数記』に描かれた「炎の蛇」が審判を告げ知らせた洗礼者ヨハネの役目であるならば、モーセの掲げた「青銅の蛇」には、十字架に上げられる救い主という驚天動地の出来事が重ねられています。たとえイエスが配慮に満ちた人であったとしても、十字架に上げられなければわたしたちは自らの破れに何ら気づくことはなく、そしてその破れを超えて注がれる神の恵みにも腑に落ち、生き方を変えられることはなかったでありましょう。傷を負い、身動きのとれないその人との出会いなくして、わたしたちは新たに生まれ、神の愛に潜む痛みが、わたしたちの苦しみを癒す力であると知ることはなかったでしょう。わたしは愛されもせず見捨てられているという絶望は、キリストの苦しみと痛みに満ちた愛によって大転換させられます。それはわたしたちの予想を超えた魂の震えに満ちています。幸せを人と比べず、キリストを見つめる中で、神の恵みの新たな分かち合いは見捨てられた思いを抱く人ほどに強く及びます。