『ヨハネによる福音書』14章 8~17節
説教:稲山聖修牧師
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わたしたちは何かへの思い、あるいは誰かへの思いが強すぎますと、われ知らずして思いが的外れになってしまいます。人知れず相手を思いやっているはずの気持ちが昂じて、気づかないままその言葉がガラスの破片のように突き刺さっていたり、こちらの願いとは全く異なる結果を招いたりする場面に出くわします。しばらく時を置いて「確かにいたらないところがあった」と心底思えればよいものの、実はなかなかそのようには考えられない未熟さ。その未熟さをわたしたちは常に、齢を問わず抱えています。それは個人に留まる話ではなく、わたしたち人間がどこかに抱えている未熟さであり、時には自分が強く臨める相手、あるいは名や顔を隠せるような相手には、何ら良心の呵責の無いまま言葉の、あるいはそのものとしての暴力に膨らむという面がございます。
2020年5月25日。わたしたちが新型コロナウィルス感染症に伴う非常事態宣言解除を受けた、時差としてはマイナス14時間がありますから前日のミネソタ州ミネアポリスで4人の警官が丸腰の黒人に手錠をかけたまま8分46秒もの間地面に首を押さえつけられ窒息死したという事件が起きました。ジョージ・フロイドさんというアフリカ系アメリカ人は最後まで「助けてくれ、呼吸ができない」と訴えていたその一方で、警官はズボンのポケットに手を突っ込んでそのような行為に及びました。「そんなつもりではなかった」という言葉は数えきれないほど呟かされたことでしょうが、後からは何とでも言えます。いのちを奪うまでに至ったのは事実です。
人間の振りかざす正義、自分は正しいとの思い込みは翻って周囲は間違っているという考えにも繋がります。思い込みや情念はその人の目の前にあるところの道を覆い隠してしまいます。思えば新型コロナウィルス感染症の報道がメディアを独占していた頃、危ういと思われる動きがわたしたちの地域社会にも広がりました。自粛警察と呼ばれる動きでした。本来ならば業務の自粛は保障とセットであるべきなのですが、要請という曖昧な指示によって営業を余儀なくされた飲食店があります。その店にさまざまな嫌がらせをするのですが、本人たちはそれが正しいと思い込んでいるのです。こどもたちが家で遊んでいる。これに文句を言うだけでなく警察まで呼ぶ。差別に基づくだけでなく、社会的弱者に向けられる暴力。ミネアポリス事件に通じる歪みはわたしたちから遠い世の話ではありません。
『ヨハネによる福音書』のイエス・キリストは、そのような思い込みによるところの正しさを打ち砕かれるために世に来られました。暴力的に砕くのではなくて、そのような思い込みを溶かしていく神の愛を明らかにされたのであります。「主よ、わたしたちに父をお示しください。そうすればわたしたちは満足できます」との応えにイエス・キリストは応えます。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」。『ヨハネによる福音書』独特の表現の軟らかさはあるにしても、キリストへの集中が何を示すのかをわたしたちに語りかけています。14章6節でキリストは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のみもとに行くことはできない」と語ります。この箇所で言うところの「道」とは何でしょうか。歩いていく道という理解もできますが、Wayという理解をするならば、道筋や方法もまた意味します。イエス・キリストの真理はわたしたちを自由にするのですから、これは決してわたしたちを独善的な、思い込みの中には閉じ込めないこととなります。むしろ命にいたる、命を活かす様々な道と無数の方法を神から知恵として授かり続ける歩みだとも言えるのではないでしょうか。わたしたちの歩む道は独り彷徨う道ではありません。全ての光が失われたブラックアウトの道でもなく、吹雪の中、逃れようとすればするほど同じ場所をぐるぐる回り凍てついた雪道に独り突っ伏すというものでもありません。教会のまじわりの中での語らいという仕方であれ、あるいは祈りという仕方での神との対話であれ、そこには閉じこもりの中で他者を否定するあり方ではなく、神に祝福された開かれた態度で、キリスト中心のルールを作り、隣人を活かせるのではないでしょうか。萎縮したあり方から解放へと主イエス・キリストは導いてくださいます。脅えながら換気をするのではなく、吹く風にときめきを求めて永遠の命の息吹に触れましょう。