「神に見捨てられたキリスト」
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』27章45~56節
讃美:136(1,2), 136(3,4), 539.
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未曾有の悲しみや困難に襲われたとき、わたしたちはその原因となっている出来事に意味や由来を求めて納得し、説明しようと試みます。因果応報という考えがそれで、聖書の舞台となる世界でもしばしば見られるところです。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか」という『ヨハネによる福音書』9章の物語はよく知られています。また災害や社会で生じている混乱について外国だけでなく異なる考えをもつ人々に責任を転嫁する陰謀論というものもあります。確たる裏づけはなく思い込みで流されるデマは必ず社会の弱者のいのちを弄びながらも、デマを流した当人は全く責任をとらないところへと拡大してまいります。
けれどもまことに不条理極まりない困難に遭って打ち砕かれた人は、その原因を探ろうともせず、また誰かのせいにもしようとはいたしません。実情が明らかになれば話は別ですが、心の底から打ち砕かれた人と申しますと、ただ嘆くしかなく、またただ閉じこもるほかなくなります。心も病みます。引きこもります。貧困はアフリカや南米にもありますが、わたしたちの街にある団地にさえ、戸建てにさえあります。誰も好き好んでそのような状況に陥る人はおりません。何が分かるのかという憤りさえ持てなくなるという困窮を、果たしてわたしたちは知っているでしょうか。必ずしも金銭だけでは計り知れない苦しみもあります。自己責任という言葉で切り捨てるにはあまりにも酷です。
本日の聖書の箇所では反感を抱く祭司長や律法学者といった権力者からイエス・キリストが危険視され、その果てに濡れ衣を着せられ、不当に逮捕され、公正な裁判さえ受けられず、ただただ坂道を転がされていくように誰もその責任を問われない仕方で十字架につけられ、その内実は殺害されていくという姿がなまなましく描かれています。この時代の処刑と申しますのは民衆の鬱憤晴らしという意味での見世物という性格も帯びていましたから、多くの人々の好奇の目に晒され、その時代の法的手続きに準じて処刑される死刑囚からも罵声を浴びせられるという始末です。本来ならばこのようなお話自体表沙汰にされず、闇に葬られるはずですが、福音書の書き手はこの十字架での出来事に救い主のあゆみの中で示された人の世の本質を曝こうといたします。それは何も悪いことをしていないどころか、貧困や孤独の中にいた多くの人々を導き癒したのにも拘わらず、十字架での殺害を通じて、わたしたちの暮らす世が、いかに神が創造されたいのちのあり方からかけ離れ、そして救い主自らの苦しみと絶望の叫びが、本来なら一瞥もされないところにある苦しむ人々の姿を映し出し、世の中心に置いているところに明らかです。わたしたちは「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と叫んだことがあるでしょうか。これはただの苦しみの叫びではなくて、打ち捨てられていく人の絶望の叫びです。これは10年前の被災地で響いた声であり、あるいは新型感染症の中で万策尽きて斃れていく人々の声でもあり、困窮の中で声すらもあげられない人々の声なき呻きでもあります。わたしたちが仮に耳を塞いだとしても、イエス・キリスト自ら十字架の上でこの声を発している以上は、その痛みを聞き届けずにはおれません。
さらにわたしたちは次の事柄に注目したいのです。それは『マタイによる福音書』ではキリストのこの叫びが、死者の復活、そして本来ならばガリラヤを始めエルサレムにも暮らすユダヤの民を虐げる役目の最前線にいたはずの、また実質的にはキリストの殺害の責任者でもあったローマ帝国の軍人や下役に「本当にこの人は神の子だった」との呻きとも告白ともわからぬ言葉をもたらしているところです。なぜでしょうか。
いろいろな解き明かしが可能であるとは思いますが、やはりこの箇所からはイエス・キリストが、神に見捨てられた人、すなわち「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのか」と叫ばずにはおれない人々と一緒にいるという「神ともにいます」というあり方を究極にまで貫かれた姿がわたしたちに問われているのではないでしょうか。もし救い主にとって、死という出来事が乗り越えられない絶対的な壁であるならば、このような叫び声をあげることはあり得ません。むしろ沈黙してその死を従容として受け入れる、死を美化する姿を選ぶことでありましょう。しかしキリストはそうはされませんでした。復活という、言葉としては知ってはいるけれども荒唐無稽だとして笑われ、または人々から遠ざけられた救い主としてのあり方を実現されただけではなくて、死に対するいのちの勝利が全ての人々に及ぶのだと明らかにしてゆかれたのです。今、献げる礼拝もまたキリストを通して同じところに立っています。祝祷の際に牧師は天に召された兄弟姉妹を会衆に想い出していただきます。そしてこの場に集められたお一人おひとりに神の愛の祝福を祈っております。いつどこにあっても、神はわたしたちとともにいてくださるからです。
「人の尊大さ、神の謙虚さ」
説教:稲山聖修牧師聖書:『マタイによる福音書』20章20~28節
讃美:138(1,2), 240(1,3), 539.
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イエスには悪霊の頭がついているから、各々の悪霊を追い出せるのだとの噂をまき散らした祭司長や律法学者がいたと、先だってのメッセージでは申しあげましたが、イエスが救い主であると呻くように告白した人々の中にも様々な考えを抱く人々がいました。イエス・キリストに従い、仕えるわざは「人の上に立つ」ありようを根底から問うこととなります。しかしながら多くの人々は今自らを支配する人々と同じ力でもって、すなわちローマ帝国と同じ力と同じ道筋で人の子イエスが世を統治されるものだと思い込んでいました。それはかつて人の子イエスが荒れ野で誘惑を受ける中で、悪魔が「ひれ伏してわたしを拝むなら、世のすべての国々とその繁栄ぶりをみんな与えよう」と持ちかけた考え方と、残念ながら大差のないものでした。強制力を用いて民を統制しようとすれば、これは誰もが陥る落とし穴。この誘惑は『旧約聖書』で描かれるイスラエルの民の王たちを尽く呑み込むところの力でもありました。
ゼベダイの息子たちの母親はいったい何を望んでいたというのでしょうか。子を想う親の想いの中にも、あの誘惑と何ら変わらない黒雲が見え隠れします。子を思う親の想いとはまことにありがたいものだとする考え方に東アジアの伝統的な文化は立つとは申しますが、イエス・キリストとの出会いの中では親子の想いの中にも闇があるのだと、聖書はわたしたちに問いかけます。「イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください』」。母親の申し出は、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの立身出世を願うに留まらず、わが子をキリストに委ねるわざが何を意味するかが分かっていません。人の子イエスは二人の弟子に答えます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。この問いかけにあろうことか弟子二人は「できます」と答えてしまうのです。実に浅はかです。その杯が何を示すのか二人は分かってはおりません。しかし人の子イエスは真摯に向き合おうとします。「確かにあなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左に誰が座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」。この言葉には人の子イエスがまさしくキリストだとの書き手の理解が示されています。この箇所には、『新約聖書』の物語の時に始まって、神の愛のわざが全地に及ぶという福音の完成、すなわち終末の出来事が示されているからです。それは福音書はおろかわたしたちにも遥か彼方の出来事かも知れませんが、神が必ず約束してくださっている出来事です。それゆえ他の弟子たちにもイエス・キリストの言葉の意味は隠されています。その結果何が生じるのか。それは温かさに満ちた交わりではなく醜い諍いです。聖書からかけはなれた教会もまたこのような争いを内に含まずにはおれません。だからこそキリストの次の言葉が響くのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」。ローマ帝国で権力を握る者は実に孤独な仕方でその任を解かれたり、その身を追われました。暗殺された皇帝も決して少なくありません。かつて自らが行った謀り事は権勢を極めた後に、必ず自らに返るからです。聖書の世界では自力本願や自己責任は本質的には砕かれるものとして描かれます。そこには人間の尊大さが表れます。他方で『旧約聖書』では神は人々のもとに「降ってきて」メッセージを伝え、そのわざを行いました。イエス・キリストは「偉い人たちが権力を振るう」世に囚われている縄目からわたしたちを解放するために自らを身代わりとしてお献げになります。苦しみを担ってくださるのです。だからこそわたしたちは、どこにいても神さまから与えられた役目に応じられるというものです。どのような役目を与えられても、必ず祈り、支えて助ける群れがいることを心に深く刻むものです。
新型感染症の影響に伴い、教会もまたさまざまな新しい取り組みに向き合うこととなりました。これまでの経験則、つまり、教会でわたしたちはこれまでこうして来たのだという蓄積をも、神さまにお委ねしなければならない時を迎えているようです。しかし今こそキリストの肢体としての教会の伸びしろが発揮され、喜びとともにそれを受けとめ、さらなる成長を望む時。失敗を恐れたり体面を気にしたりして腕組みしながら何もしないというのではなく、しくじりを恐れず、また人任せにもせず、やってみましょう。イエス様はそのようなわたしたちの失敗をフォローするために苦しんでくださいました。そのわざは苦しみに留まるのではなく、復活のいのちの輝きを先どりしています。
「世の禍を背負う栄光の救い主」
『マタイによる福音書』17章1~8節
説教:稲山聖修牧師
聖書:マタイによる福音書17章1~8節(新約聖書32ページ)
讃美歌:244(1,3), 247(1,3), 539.
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山の上で人の子イエスの姿が弟子の目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった、という「山上の変容」の記事。自らの死と復活を弟子に語り、その言葉がペトロも含め大きな動揺をもたらした箇所の後に記されるこの物語。イエスとともにいた弟子はペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネという、いずれも人の子イエスと絶えずともに歩んだ者ばかりでした。岩肌でできた傷だらけの足の痛みを堪え、山特有の強い風に震えながらイエスとともに歩む弟子は、図らずも、エルサレムへ行き苦難の道の果てに十字架で殺害された後、復活された姿を先取りして仰ぐこととなりました。この姿の顕現は、同時にそれまでの弟子のイエスへの思いを根底から覆す出来事でもありました。しかし不思議なことに、弟子たちには、十字架での死の後にある復活を語るイエスを咎め立てしたありようへの反省は一切見られません。目の当たりにされるのは、イエス・モーセ・エリヤという、モーセが『律法の書』、エリヤが『預言者の書』を象徴し、この書物は『旧約聖書』全体に記された神の愛のわざと不可分の間柄にあるという、キリストの復活が指し示す重大な意味が理解できませんでした。モーセは出エジプトの出来事の中で、奴隷とされていたイスラエルの民を導く役目を授かった人物。そしてエリヤは『旧約聖書』の中で、同じくイスラエルの民の多くが神の愛から離れ、目に見えるところのかたちある豊かさの奴隷となったありようと、貧しい者や弱者を虐げるありかたを強く戒めた預言者でした。『律法』を授かったモーセのわざと、神の言葉を託された預言者の働きが、救い主の訪れによって活きいきと結ばれ、そして完成する。わたしたちもこの箇所を読む毎に、そのような華々しさばかりを思い出します。その意味ではモーセとエリヤとイエスとの語らいに水を差すペトロと何ら変りはありません。そのようなペトロは逆の視点を持てないでいます。つまり、モーセの苦悩はどこにあり、エリヤの苦しみや悲しみはどこにあり、そして人の子イエスの苦難はどこに根ざしていたのか、という問いです。『旧約聖書』、例えば『出エジプト記』『レビ記』『申命記』『民数記』。いったいどこに、モーセ自らの栄光が記されているというのでしょうか。イスラエル60万の民を率いて荒れ野を旅したモーセは、多くの困難の中でイスラエルの民に誡めを授けながらも、イスラエルの民の過ちのゆえに、自らは神に約束されたパレスチナの地に入る願いは叶わず、次の世代がヨルダン川を越えていく様子を眺めながら生涯を終えてまいりました。預言者エリヤは、奴隷解放の神を忘れ、物質的な豊かな暮らしの糧を司るとされた土着の神々バアルを崇拝するばかりで、貧しさにある者や奴隷、寡婦、孤児を顧みないその時代の王をいのちがけで批判するだけでなく戦いましたが、志を同じくする者のいのちは次々と奪われ、「主よ、もう十分です。わたしの命をとってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」と呟きながら四十日四十夜歩き続け、一人かつてモーセが十戒を授かったホレブの山で「静かに響く神の声」に背中を押され、その役目を全うしてまいりました。後の世の者が振り返れば、英雄として誇るべきだとされる『旧約聖書』の指導者や預言者は、その実は自らの力を依り頼むならば何もなすこと能わず、ただ神の栄光と後ろ盾によってのみ、その名を物語に刻んだ人々でした。そしてその苦しみは不条理でありながらも、人の子イエスに及んだ苦難と同じ線の上にあり、キリストの苦難もまた虐げられた者を顧みようとせず、また小さないのちの豊かさに何ら関心を寄せず、目の前の救い主を決して認めない長老・祭司長・律法学者らによるものでありました。この頑なさによって、キリストは不当な裁判を経て十字架で殺害されるに及びます。ですからもし今日の箇所で描かれる人の子イエスの姿の変容の中で、弟子たちが圧倒された栄光の救い主を描くのであれば、それは神のみが授けたもう栄光以外のなにものでもありません。その栄光の輝きを前に、弟子たちはキリストを讃えるのではなく、戸惑うだけでした。この姿や態度には、わたしたちの姿が重なります。

去る3月11日(木)に行われた政府主催の追悼式では「東日本大震災犠牲者の霊」とまとめて記された大きな柱を前に式辞が述べられましたが、人の目にはまことに不条理な仕方で天に召された方々には一人ひとり名前があったはずです。そこには決して数値化されたり、これで追悼式はおしまいになるというような人の都合が立ち入る隙はないはずです。生前のしるしが見つからない遺族にとっては、決して10年は節目にはなりません。それは教会墓地に埋葬された教会関係者お一人おひとりにも言えるはずです。節目という言葉はわたしたちの暮らしの便宜で用いられ、尊ばれる言葉であっても、神の栄光を前にしてはあくまでも現在進行中の秘義として、神の秘密として隠されているはずです。わたしたちはイエス・キリストの苦難と死、そして復活に示された神の栄光の中で、神の愛に背中を押されてあゆみを重ねていく。それはいかなる世の困難の中にあっても、世の禍の中にあっても変わりません。祈ります。
「わたしにつながっていなさい」
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』16章13~20節
讃美歌:85(1,2節), 249(1,4節), 539.
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わたしたちの暮しは、責任を伴う生き方とともに、責任の所在が不明瞭ながらも流布するところの風評とは無関係ではおれません。「人々はこう見ている」「世間はこう見ている」「みんなこう言っている」。日本社会ではまことに強い同調圧力。この力にはときに抗わなくてはならないと腹を括る一方で、そのような覚悟を問われる、実に侮れない力が頑としてあります。自分のあり方への深い確信より、みんながどう見ているのかという「世間体」による不安に苛まれるのは、わたしたちに限ったことではありません。風評の中で苦しみを味わうのは、常に少数者であり、貧しく、落ちぶれ、虐げられた上に排除された人々であり、その列にはイエス・キリストのあゆみも連なっていました。
人の子イエスは、フィリポ・カイサリヤ地方に行ったとき、弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった、と『マタイによる福音書』にはあります。人の子イエスもまた、風評の中で苦しみを味わわれました。カイサリアという地方には必ずローマ帝国の軍隊の駐屯地や派遣された役人の家がありましたから、ときにその風評の中で疑いをもたれる人々もいたことでしょう。人の子イエスの問いかけに、多くの弟子は的外れな答えをいたします。「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」という噂を伝えるだけであり、「あなたがたはわたしをどう思っているのか」という問いまでには注意がいたりません。「先生、人の噂などどうでもよいです」と言葉を遮り、イエス・キリストに癒された人々のように深い平安と確かな信頼に満ち、「あなたは救い主です」との言葉を口にはできませんでした。この弟子たちの姿勢にはイエス・キリストとの超えがたい距離を感じずにはおれません。確かにそこに関わりはあります。しかしそれは霧の中にあるようにぼんやりとしているのです。
そのような中でただ一人、毅然として宣言する者がいました。それは漁師の身の上であり、教養とも関わりのなかった弟子であるシモン・ペトロ。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間はなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。このようにイエス・キリストはまことに大きな権能をペトロに授けます。しかしこの権能を委託した直後、イエス・キリストが自らの殺害と復活を語り始めるや否や、ペトロは「そんなことがあってはなりません」と諫め始め、この委託とは正反対の叱責を受けてしまいます。「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』」。同一の物語の中で、ペトロは「あなたは幸いだ」と祝福を受けながら、同時に「サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」との叱責を受けるのです。一体どちらがまことのペトロの姿であり、そしてペトロに象徴されるところの教会の姿なのでしょうか。
神を見失っているとき、わたしたちは世の噂や風評ばかりに依り頼みがちです。その場合、わたしたちは人の声に臆するばかりで新しい道に足を踏み出す勇気を失くします。神の愛の開拓者への道は遠くなってしまいます。教会から、神を畏れ依り頼む態度が失われるならば、噂に流される人々の不甲斐なさがまことに鮮やかに浮かびあがり、隣人を慈しむ思いさえも、党派心や分断へとつながりかねません。その状況すら当たり前になれば「そのようなものだ」との諦めの中で、良心の呵責すらも麻痺していくのもまた人の姿です。しかし、わざわざイエス・キリストはシモン・ペトロを「振り向いて」、つまり自らの顔を向けてペトロを叱っています。教会が神の委託に応えるためには、振り向いて自らの顔をわたしたちに向けるイエス・キリストとの絆、もっと言えば綱のような堅固な交わりを深めていくのが欠かせないのだと聖書はわたしたちに呼びかけます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」との呼びかけに耳を澄ますためにも、全世界を手に入れるより小さないのちが救われるのを喜ぶためにも、その絆はなくてはならないのです。コロナ禍の中でわたしたちはおよそふた月にわたり、聖日礼拝を休会いたしました。その中で授けられたメッセージとは、神からの委託を可能にするところの、キリストが授けてくださる絆への新しい目覚めではないでしょうか。「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木に繋がっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない」。仮想現実ではなく神の現実として、わたしたちはこのつながりの中で礼拝を献げ、喜びをともにしましょう。
「恐怖と怯えからの解放」
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』12章22~28節
(新約聖書22頁)
讃美歌:138, 二篇80, 361.
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目が見えず、口の利けない人。話すことのできない人がいたとするならば、その特性は耳の聞こえないありようを同時に示しています。一般に人は五感を用いて認識しますが、今こそさまざまな支援体制が整いつつあれ、長きにわたり視聴覚の障がいは職業に留まらず様々な暮らしの場面で制約を課せられました。現代であれば何かの手立てを講じることもできたでしょうが、障がいが罪の結果だと見なされたのが聖書で描かれる世界。「呪われた人」「生まれてこなかった方がよかった人」とされる孤独に勝る苦しみはなかったろうと『新約聖書』から聴くのです。
この絶望のどん底に置かれた人がイエス・キリストとの関係の中でどのようにして変えられていたのかというメッセージひとつとっても、まことに大きな救いの使信として響いたことでしょう。けれども本日の箇所では、本来は中心とされるべきこの出来事よりも、それがどのように人々に伝えられ、評されていったのかが問われてまいります。見えず聞こえず話せない人の癒しの出来事が導入となり始まるこの物語では、まずもって「群衆の驚き」が記され、イスラエルの民の救いのしるしであり、救い主を示す「この人はダビデの子ではないだろうか」と口々に呟く人々の姿とは対照的に、人の子イエスのわざに反発し、わめき立てるファリサイ派の人々は「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った、とあります。
日本語でいうところの「怨霊」「祟り」とは異なり、『新約聖書』でいうところの悪魔「ディアボロス」や悪霊の頭「ベルゼブル」には、絶えず『旧約聖書』での背景と神との関わりが問われます。ベルゼブルとは広くオリエントで崇拝されていたところの偶像であるがゆえにイスラエルの民から遠ざけられました。ベルゼブルは預言者エリヤの戦ったバアルが下敷きになっています。「蠅の王」ともされますが、そのようなイメージよりも興味深いところは「悪霊の頭」との言葉です。つまりファリサイ派の人々にとって悪霊とは自立し単独で動くことはなく、蠅が餌に群がるように責任の所在を隠したまま獲物に襲いかかり、伝染病に重なる死を媒介するとの理解があったと申せましょう。ところで人は匿名になり、自分の姿を問われなくなった際に最も残酷な姿を露呈します。Webでの炎上騒動がそうであり、様々な場での同調圧力のもとでは、匿名の集団が個性の繊細な人に刃を向けます。おそらくは物語の冒頭に登場した見えず聞こえず話せない人にも、心無い言葉という刃が常に向けられていなかったと誰が否定できるでしょうか。
しかしそのような無責任な集団の支配は、それこそ蠅の群れがやがてはどこかへと飛び去るように、前向きな力をそそぎ、いのちの可能性を拓くことは決してしないと、イエス・キリストは反論するのです。悪霊は破壊行為におよぶことはあっても、誰かを支え、また救う力はありません。それは絶えず分断と敵対を喜ぶことから「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのならば、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。この箇所で気づかされたところがあります。それは、人の子イエスを陥れようとする人々は、いつも、どこでも複数で行動しその責任を曖昧にするというところです。反対に、イエス・キリストの癒しのわざは、絶えず一人称のもとで行われ、癒される人々を苦しみや恐怖から救い出します。そしてイエス・キリストは、人々を恐怖によって萎縮させる「悪霊」を追い出すのは「神の国」、言い換えれば「神の愛の力による支配」から生じるところの力に他ならない、というのです。
新型感染症を抑え込む「緊急事態宣言発出」が解除されようとしています。重要なのは、泉北ニュータウン教会が聖日礼拝を休会としたこの期間に、わたしたちが礼拝をめぐって何に気づき、教会の将来を問ううえでどのような支えが必要なのかを話し合うという、その一点です。聖日礼拝の休止は痛みを伴わずにはおれませんでした。主に守られて教会がクラスターにならなかったとしても、です。わたしたちの働きは人の目によるところの正解がない以上、絶えずその後に課題を残します。それがこれからの教会の伸びしろとなります。もっとよりよい道はなかったのか。あるとすればどのような道なのか。聖書の言葉に耳を澄ませ響く言葉を大切にいたしましょう。そして礼拝休止の間に気づかされた、聖書に根ざし、神を讃美する礼拝の尊さと祈りの大切さが照らし出す交わりの回復。見えず、聞こえず、話せなかった人が主に出会い、見えるようになって語り出すという喜びを、涙を流しながらともに喜びたいと願っています。
「キリストの苦しみ、教会の試練」
説教:稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』4章1~11節 讃美歌:399, 495, 502.
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洗礼者ヨハネとの出会いの後、荒れ野で40日の断食を経てイエス・キリストが出会ったのは、キリスト御自身を試みる者である悪魔、ギリシア語でいうところの「ディアボロス」でした。『マタイによる福音書』『ルカによる福音書』のみに記されるこの物語では、キリストが救い主としての働きの始めに出会ったのが、苦しみ追いつめられた群衆ではなく、様々な罠を仕掛けてくる悪意であったこと、そして同時に『マタイによる福音書』を書き記し後世に伝えた教会もまた、同じ誘惑に晒されており、それは形を変えてはいても現在を生きるわたしたちにも及んでいると考えられます。イエス・キリストとてこの苦しみと試練から決して自由ではなく、翻弄されながら首の皮一枚で凌ぐという緊迫した場面が続きます。
この場で描かれる誘惑とは概ね三つに分かれます。第一の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」という、いわゆる「食」をめぐる誘惑ともいえる内容ですが、今日にあっては暮しをめぐる誘惑としても理解できるでしょう。新型感染症は病に対する恐怖だけでなくわたしたちの交わりを絶ち、新しい不況の原因ともなっています。その影響の中で業界再編の荒波に放り出される事業体は数知れません。その誘惑のただ中にわたしたちは立っておりますが、さてその中でこのような誘惑に対してわたしたちはどのように応じることでしょうか。
次に第二の誘惑としては「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることがないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」。『旧約聖書』『詩編』91編を引用してまで誘惑する者の狙いとは、イエス・キリストを単にたぶらかし、神との関わりを試すだけに留まりません。これは裏返せば神との関わりを疑わせるところにまで行き着きます。そしてこの神を疑わせる誘惑は、食をめぐる誘惑という切羽詰まった試みと、まことに深く関わっているように思います。明日どうなるか分からないという中で誰もが疑心暗鬼となり、大切な隣人との信頼関係にさえひびが入ろうという状況と、あらかじめ先を読んでいたかのようこのタイミングで誘惑する者のずる賢さに長けた巧みさ。こればかりには言葉も出ません。
この上で誘惑者は決定的な一撃を放とうとします。それはイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せ、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」との言葉です。世のすべての国々とその繁栄は、神との関わりから離れてわたしを拝むなら全てのお前のものだと申します。私有財産制を暮しの原理とするわたしたちはこの誘惑に果たして抗えるでしょうか。さらにはこの誘惑は、幼き日に飢えに苦しみ、青年期に神を見失い、壮年期に財と地位を全て手にしてなお渇く人々の課題と、時を超えて対応してもいるのです。この全ての誘惑に共通する問題とは「分かち合い」を知らないというところです。自分の手から暮しの糧を献げることなく、神との関わりを喪失し、そして目的のために手段を選ばず権力と繁栄を欲しいままにしたいと願うならば、わたしたちも教会も信仰とは名ばかりのものとなり内実の伴わない籾殻となってしまうのです。それは吹く風に虚しく舞うばかりです。これこそわたしたちが、個人としても教会としても迎えつつある危機だと言えるでしょう。コロナ禍の中で誰が近くに住む、幼きころと同じ境遇のこどもたちを思い遣れるか、誰が大地震と豪雪に見舞われた地方・地域に思いを馳せられるのか。神との関わりがもたらす実りは、名誉欲や過剰な承認願望とは異なるはずです。しかし。
イエス・キリストがこれらの誘惑を絶って超然としていたのであれば、このような物語はそもそも書き記す必要はなかったはずです。裏返せばわたしたちのこの極めて平凡かつ日常の苦しみさえもともにされ、わたしたちも折り重ねることのできる聖書の言葉と祈りと決断に基づいてイエスは打ち勝っていかれます。そしてこの誘惑の物語全体もまた、4章1節に「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」とある通り、神の愛の力を背に受けてこの世へと押し出され、そしてキリストに従う中でさえ避けて通れない道ではありながらも、決して無力ではない!という励ましのメッセージにすらなり得るのです。キリストは誘惑に勝利されたからです。
福音書で描かれる悪魔とは、絵画で描かれるところの角と翼と尾、鋭い爪の生えた姿で描かれる姿をしてはいません。それは特定の時代のイメージに過ぎません。悪魔とは「分かち合い」の喜びを知らず、虚しい万能感に満ち、人との関わりを絶つところの独り占めに何も呵責を感じることもなく、責任逃れに腐心し、名もない者を踏みつけていくあり方を、聖書を用いてさえ現状肯定するという態度です。わたしたちは、貧しさの中にあるからこそ、喜びと痛みを分かち合える恵みを、凡庸な善に過ぎないと呼ばれても、イエス・キリストに従う中、すでに授かっています。
降誕節第8主日礼拝

説教:「出会いは逆風の中で」
稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』14章22~33節
讃美歌:298, 320, 527.
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5000人の人々と食事をともにした人の子イエスと弟子たち。とりわけ弟子は言いしれぬ高揚感に満ちていたことでしょう。パン五つと乾し魚二匹しかない中で、主イエスが感謝の祈りを献げると、人々もともに食を分かち合い、そして満たされていくという場に居合わせるだけでなく、その出来事の一端を担ったという驚きと喜びに身体は熱くなっていたことでありましょう。
しかしイエス・キリストはそのような弟子たちを、大きな試みへと追いやります。イエスは有無を言わせず弟子をガリラヤ湖に浮かぶ小舟に乗り込ませ、対岸へと渡るように命じ、満たされた喜びとともに交わりを育んだ群衆を各々の家へと帰らせ、自らは祈るためにひとり山に登られました。山と湖。実に対照的なところに人の子イエスと弟子はいるのだと気づかされます。人の子イエスが山で何を祈っていたのかは物語には記されていませんが、その祈りは日が沈むまで続きます。祈りの中で一人山の中にたたずむキリストの姿は誰にも知られません。
人の子イエスが姿を隠される中、弟子だけが乗った舟は混乱の極みにありました。数百メートルもの沖合に流された舟は、逆風に晒され、波に揉まれるほかありません。弟子は恐怖のどん底に叩込まれます。向こう岸にたどり着くどころか今どこにいるのかさえ分かりません。誰がそのようなところにいたいなどと思うでしょうか。パニックにつつまれた弟子。一刻も早く逃げ出したいという願いさえ決して聞き届けられません。寝る間もないまま一晩中波に揉まれる舟、救いを求め続ける弟子。舟に辛うじてしがみついて時の経つのを待つほかありません。逆風の中、弟子は全ての能力を奪い取られてまいります。各々が自分のいのちしか考えず、交わりを絶ち、その本性をあらわにします。そんな弟子には思いも寄りませんでした。イエス・キリストがよもや自分たちを忘れずに祈り続けていたとは。
「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いてこられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。「幽霊」と訳されるのは「ファンタズマ」、ギリシア語では亡霊を示します。今や舟にすがりつく弟子は錯乱状態に陥り、湖の上を歩いてきたイエスが何者なのかすら分かりません。さてこの箇所でわたしたちは戸惑います。「湖の上を歩いてくるなどあり得ないだろう」。実はこの「湖」という言葉さえ明らかになれば、決して理解の難しい箇所ではありません。湖畔に暮らす人々には湖は生活に欠かせない場所ではありますが、ひとたび湖水に溺れてしまえば決して助かりません。イエスが一人祈る場所が山であるところと対比すれば、湖がわたしたちが暮らすところのこの世であるとも理解できます。弟子たちを乗せた舟。それを仮に教会だとするならば、実にこの世の力に弱いありようが際立ってまいります。さてその阿鼻叫喚の舟で別の動きが始まります。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。祈りの場から混乱の世に戻られたイエス・キリストを見つめて、シモン・ペトロが立ちあがります。世のただ中を歩み、キリストのもとにたどり着こうとする姿があります。しかし彼も強い風に気をとられ、恐怖の中でイエス・キリストから眼差しを逸らして足下をのぞき込むや否や、ずぶずぶと底知れない闇へと沈み込んでまいります。ただここでペトロは恐怖の中で叫ぶのです。「主よ、助けてください!」。この叫びこそ、わたしたちが今の世にあって最も尊ばれるべき声であります。わたしたちは誰かに助けを求めるという態度が「悪いことである」とのしつけや教育を受けて育っています。しかし助けを求めないことで、万策尽きて破滅に追い遣られる人が激増しています。悲しみに満ちた自己否定がそこにあります。けれどもキリストはペトロを咎め立てする前に、その腕をつかんで放しません。これが「安心しなさい、わたしだ、恐れることはない」との言葉に示されるイエス・キリストの働きです。救いを求める叫び声を押し出すためにイエス・キリストが祈っておられたとしても過言ではありません。なぜならこの体験によって、たとえ教会がキリストの姿を見失ったとしても、キリストがわたしたちのために祈ってくださることを確信できるからであります。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは自らを決して否定されないからである」。緊急事態宣言のただ中、わたしたちの教会は今、聖日礼拝を休止する事態にあります。かの戦争をくぐり抜けた老舗の会社が次々と店じまいをする中、わたしたちもまた時代の闇と嵐の中で慄くばかり。けれどもイエス・キリストはわたしたちを覚えて祈り、わたしたちの腕をがっしりとつかんで放しません。そしてわたしたちの教会に乗り込んできてくださるのです。出会いは逆風の中で起きます。コロナ禍の中での経験を、後々の宝として分かち合うため祈りましょう。